大いなる母体、その姿

 シヴィは必死に身を乗り出して、大食堂の――大皿の下を覗き込んだ。

 視界に広がる闇の中に、罪なき人々が落ちていく。

 さきほどまで一緒に宴の準備をして、一緒にテーブルを囲った人たちが落ちていく。

 血の繋がりを知らないシヴィに、まるで母親のように接してくれたユノが落ちていく。

 シヴィはユノに向かって目一杯手を伸ばした。だが、届かない。

 ユノはそのままトロールの歯と歯の間に挟まれた。

 直後、トロールの歯が隙間なく噛み合う。

 ブチッという破裂音。そして液体が飛び散る音。

 ユノは生々しい音と共に、潰れて弾けた。まるで一粒の果実ように。

 トロールの口周りがユノの血肉で赤く染まる。

「あっ……あぁっ……ああああ!」

 大食堂にシヴィの嗚咽が響きわたった。むせ返るような吐き気が彼女の喉に充満し、力の制御が乱れて背中に激痛が走る。

 溢れ出す魔の力と共に、哀しみが、怒りが止まらない。全身から冷気が流れだし、喉の奥から噴き上がる血が止まらない。

 一方、セバスは落下しながら彼女の嘆き悲しむ声を聞いた。

 彼は頬をかすめた果物ナイフを咄嗟に掴み、大皿と化した床にそれを突き刺す。

 ガリガリガリ、ガリガリガリと音を立ててセバスの落下が止まる。

 直後、誰かがセバスの隣を落ちていった。彼は咄嗟にその人物の腕を掴んで引き上げる。

 助けた人物は、老婆と共にいた青年だった。

 青年は歯を食いしばって、必死に老婆を抱きかかえている。

「せ……セバスさん! ありがとうございますっ!」

「すいません、自分もこれで精一杯で……!」

 彼の見事な軽業にマファルダは拍手を送った。

「アハハハハ! お見事! 今どきのヴァハ帝国は兵士に大道芸を仕込むのね!」

 セバスは振り返り、マファルダを睨みつける。

「お前は……何者なんだ」

「もう自己紹介は済ませたでしょう? でもあえて問うわ。〝今のあなた〟は何者なの? モーガン」

 セバスの度重なる大立ち回りで彼のフードはめくれ、火傷を負ったセバスの――モーガンの素顔が露わになっていた。

 セバスもといモーガンの脳裏に、かつて諜報部隊に属していた頃の呼び名がよぎる。

 歩く厄災。

 違法薬物の密売組織をたった一人で死体の山に変えたことからこの名がついた。

 今はどうかと問われれば、彼には別の答えがある。

「今の俺は……ただの罪人だ。もう帝国には属していない。ここには、俺の意志で訪れた」

「へぇ……あの殺戮人形が随分と心変わりしたものね。それじゃあ、車イスのお連れ様は貢ぎ物として頂きましょう。あなたのお陰で計画が早まったの。マザー・トロールが魔女を喰えば、どれだけ成長することか」

 セバスは眉間に力を込めて目を見開いた。

「お前に渡す命はない! 一人でも多く助け出してみせる!」

「あんなに人を殺したやつが人助けですって! 車イスを押してるだけで聖人になったつもりかしら!」

 モーガンはマファルダから視線を逸らさず、真っ直ぐな瞳で答える。

「氷雪の街を出てしばらくは、そう思っていたところもある……でも、冷静になって気が付いたんだ。俺がしてきたことは、一生かけても償いきれないって。この旅ははじめから、俺の贖罪の旅だったんだ」

「貴方は罪滅ぼしの道半ばで、私の前に現れたということ? ふ、ふふふ……アーハッハッハッハ! こんなに愉快なことはないわ!」

「……一つ聞きたい。ここで生活していた人々は、迫害の手から逃れて本当の種族の名を取り戻した。マファルダに救われて、皆幸せそうだった。どうしてマファルダは……聖女のままでいられなかったんだ」

 モーガンがそう問いかけた途端、マファルダの額に太い怒りの血管が浮かんだ。彼女は口角を歪めて牙を剥き出しにする。

「貴様が言うか……この、血の海から現れた化け物め! 救うだと? 償うだと? 見え透いた偽善に反吐が出る! 罪の自覚があるというなら、懺悔の時間を与えてやろう……トロールの胃の中で車イスの魔女と共に溶けながら、己の過ちを悔いるがいい」

 マファルダはそう言い放つと、口が裂けて見えるほどの笑みを浮かべて両手を掲げた。

 すると、マザー・トロールが激しく床を噛み砕きながら大食堂の壁を登り、闇の奥底からモーガンに迫る。

 シヴィはその様子を、吐血しながら眺めることしかできなかった。

「も……モー、ガン……」

 シヴィが力なく手を伸ばしたそのとき、彼女の視界の端で温かい光が灯った。

 背中の痛みが癒えていく。

「少しは楽になった? 起き上がれそう?」

 優しい声でそう問いかけたのは、駆け付けてきたベアリだった。

 シヴィは振り向いて涙ぐんだ顔をする。彼女はベアリに感謝を伝えようとするも、うまく言葉にならない。

「ぅ……うぅ……ベアリ、さん……私……」

「地獄絵図ね……辛かったでしょう。車イスを持ってきたわ。座れる?」

「うん……」

 ベアリはシヴィを車イスに乗せて、シヴィの容態を観察する。

 彼女の足下から冷気が溢れ出ていることに気付いたベアリは、その力の根源と、シヴィの正体にも察しが付く。

「シヴィ……貴女は、魔女だったのね」

「うん……」

「モーガンが貴女のことを命の恩人と言っていた理由がよく分かったわ。聞いて、シヴィ。体の痛みはマファルダの毒が原因よ。持っている薬草を全て使ったから、だいぶ良くなったはず。力は使えそう?」

「たぶん、平気……」

「よかった。あなたの力で、生き残った人達を助けてあげて」

 シヴィは小さくうなずいて、右手をかざした。しかし、体が震えて思うように力を制御できない。

「ベアリさん……私……ユノさんのこと……助けられなかった」

 ベアリもユノのことをよく知っている。そして現状を見れば、どんな最期を遂げたのか容易に想像がついた。

「ユノが……それは、辛かったわね」

「私……人を助けるって決めたのに……助けられなかった……たくさんの人が食べられちゃった……」

「シヴィ……前を見て」

 ベアリはシヴィの背中を擦った。

「打ちひしがれる気持ちはよくわかる。でも前を見て。まだ懸命に生き残っている人がいる。貴女の助けを持っている人がいるの。彼らを救えるのは貴女だけなの」

 ベアリは屈んで、シヴィの顔を覗き込んだ。

「お願い、シヴィ。この悲劇を止めて。私は……貴女なら救えると信じてる」

「ベアリさん……」

 シヴィはベアリの言葉を噛み締めながら、モーガンに励まされたときのことを思い返した。

 シヴィの力なら多くの人を助けることができる。ただ海に向かうだけじゃない。これは人助けの旅。

「そうだよ……モーガンが私の助けを待ってる……まだ生きてる人がいるんだ……私が……私が助けなくちゃ!」

 シヴィは魔の力を最大限発揮して、巨大なアイスゴーレムを瞬く間に創り出す!

 アイスゴーレムは右腕でモーガンたちをすくい上げると同時に、鋭利に尖った左腕をマザー・トロールに振り下ろした!

 マザー・トロールはアイスゴーレムの腕の先を一瞬で噛み砕く!

 その瞬間、シヴィは再び吐血した。

「ゲホ、ゴボッ!」

 彼女は完全に回復できたわけではない。アイスゴーレムに深い亀裂が走る。

 アイスゴーレムで助け出されたモーガンたちは、急いでシヴィとベアリのもとに駆け寄った。

「シヴィ! ベアリさん!」

「モーガン! 一度館を出た方がいいわ!」

「分かった! シヴィ、身体は大丈夫かい?」

「うん……ベアリさんのおかげで、なんとか」

「良かった……ここは一度退こう」

 アイスゴーレムが細かい氷の粒となって崩壊し始め、それがモーガンたちの姿を覆い隠す。

 マファルダはアイスゴーレムが崩壊する音よりもさらに大きな笑い声を上げた。

「アハハハハハ! ベアリ! あなたはなんて恩知らずな人なのかしら! せっかく泳がしてあげたのに、感謝の一言もなくでていくつもりね! いいわ……私が育てあげた大いなる母の姿、見せてあげましょう」

 マザー・トロールは館の壁に深い亀裂を走らせながら、その全貌を徐々に現す。

 失楽園の館が崩壊し始めているというのに、マファルダは降り注ぐ木片と瓦礫の中で笑い続けた。

 モーガンはシヴィの車イスを押して、ベアリと共に長い廊下をひたすら走る。

 青年と老婆はシヴィが創り出したアイスゴーレムに抱えてもらった。

 崩壊する失楽園から逃げ出そうとする彼らの背後から、マファルダの笑い声が響く。まるで崩壊の音を伴奏にした聖歌のように。

 やがて彼女の笑い声が聞こえなくなり、エントランスと出入り口が見えてきた。

 ベアリは出入り口の扉を蹴破り、閉じないように抑えることでモーガンたちが直ぐに出られるようにする。

「モーガン! はやく!」

「分かってる!」

 モーガンとシヴィ、そして青年と老婆を抱えるアイスゴーレムが外に飛び出したその直後、エントランスの天井が大きな音を立てて崩れ落ちた。

 間一髪の差に、モーガンとシヴィは胸を撫で下ろす。

 だが、決して外は安全ではなかった。

 助かったことに安堵する彼らを嘲笑うように、軽薄な調子の声が響く。

「これはこれはお揃いなことで……さて、左腕の借りはどうお返しすればいいかな? ベアリ」

 その声は、レナードのものだった。彼は一足先に館から脱出して、ベアリが出て来るのを待ち続けていたのである。

 レナードの右手には見るも無残に焼け焦げた白銀の蝶グラトゥリオの死骸。

 失った左腕の断面は稲妻の熱で焼き焦がし、強引に止血してある。

 ベアリは友の無残な姿と、力の結晶を露わにしたレナードの姿に眉間を狭めた。

「レナード……! あなた、魔の力を宿していたのね……」

「隠し球を持ってるのはお前だけじゃないってことさ」

 さらにモーガンたちの背後で館の崩壊が進み、積み重なった瓦礫をかき分けてマザー・トロールの巨体が飛び上がった。

 マザー・トロールは大木が並び立つ森を背にして、巨大な翅を広げる。そして辺りに毒の鱗粉をまき散らした。

 その巨大な翅には、充血した丸い瞳が無数についている。

 マザー・トロールはその翅で空を舞っていた。まるで巨大な羽虫のように、翅をはためかせて優雅にかつ豪快に。

 空を舞うマザー・トロールに下半身はなく、下腹部から赤い触手が十三本生えていてそれがウネウネとうごめいていた。

 さらに下腹部にある割れ目から、ベビー・トロールの腕と顔が飛び出している。

 シヴィはその姿に吐き気を催すほどの気持ち悪さを覚えた。

「うぇ……なにあれ……」

 モーガンも気分を悪くして口元を押さえる。文献でも見たことのない異様な姿に恐怖心よりも悪寒が勝った。

「何をしたらこんな邪悪な姿になるんだ……」

 突如、マザー・トロールの頭蓋骨が真ん中から開いて脳味噌が剥き出しになる。同時にその隙間から無数のキセイカモスマイマイが溢れ出した。

 無数のキセイカモスマイマイの奥には、脳味噌に腰掛けるマファルダの姿。

 マファルダは優雅に足を組んで、マザー・トロールの脳味噌からモーガンたちを見下ろした。

「さて……宴の続きといきましょうか」

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反逆者モーガンと車イスの魔女 アンガス・ベーコン @Aberdeen-Angus

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