失楽園

 セバスはそよ風のような歩みでシヴィのそばへ。

「行こう、シヴィ。少し話したいことがある」

「あ、セバス」

 セバスの視線には強く訴えかけるものがあった。まるで剣の柄にそっと手をかけるような、静かで厳かなものが。

 シヴィはうなずいて、名残惜しくユノの右手を両手で包み込む。

「またね、ユノさん」

「またね、シヴィちゃん」

 ユノはシヴィの気持ちに寄り添うように、彼女の両手に左手を重ねた。

 その手はとても温かく、離れがたい。

 セバスは恭しく一礼し、車イスを引く。

 シヴィは去り際に、そっとユノのお腹に触れた。

「赤ちゃんも……今度はお話しようね」

 離れていく二人の背中に、ユノは小さく手を振った。

 セバスとシヴィは中庭を出て廊下を進む。

 行き先は宴を行う大食堂。料理は既に運び終わり、あとは人々が集まるだけ。

 その道中、セバスは周りにひとけがないことを確認する。

「シヴィ。君と離れている間、俺はベアリさんから館の秘密を聞いたんだ」

「そうだったんだ……それで、秘密って?」

「この館は国家転覆の準備拠点。ここに導かれたネファル族は、トロールを増やすための餌……俺達もそうだ」

「え……うそ……」

 それから、マファルダが何らかの方法でトロールを操っていること、宴の食事には毒が含まれている可能性があること。そしてベアリの正体、ここに住むネファル族は何も知らない善良な人々であることを話す。

 シヴィは苦々しい義憤に駆られ、両手を握りしめた。尽きない疑問が怒りの糧となり、熱を帯びた感情は冷気となって流れ出る。

「どうして、どうしてそんなこと……」

「分からない……とても恐ろしい状況だけど、皆を助ける方法もある。自由に動けないベアリさんに代わって、俺達がランタスタへ逃げ延びるんだ。そこでベアリさんの仲間に助けを求める。うまく行けば、誰も傷付かなくて済む。俺達は何も知らないフリをして、宴を乗り切ればいい」

「わかった。わかったけど……」

 シヴィの目尻から涙が伝い、頬の上で氷柱つららに変わった。

 彼女が指先で涙を拭うと、氷柱が指の皮膚に刺さって血潮の中に溶けていく。

「こんなこと、許せないよ」

 セバスは深くうなずいて、シヴィの肩を優しく擦った。

「俺も、同じ気持ちだよ」

 廊下の先には、金色の装飾で飾り立てられた両開き扉がそびえ立つ。

 セバスはシヴィと共に扉を押し開けた。

 開いた扉の間から、緑色の光が二人の頭上に降り注ぐ。シャンデリアの光だ。

 シャンデリアはライトトパーズを無数に乗せた豪勢なもので、広大な大食堂全体に透き通った光を届けている。

 大食堂の真ん中には入り口から最奥まで伸びる長テーブルと、両脇に二百を超える座席の列。

 一番奥の正面席には、マファルダが座っていた。

 マファルダは屈託のない可憐な笑顔で、二人に歓迎の拍手を送る。

 先に着席していたネファル族の面々も、共に盛大な拍手をした。

 やがて付添人と共にユノも食堂に着く。彼女もすれ違い様に、セバスとシヴィに拍手を送った。

 二人はぎこちない笑みを浮かべて会釈し、促された席に着く。そこは長テーブルの真ん中で、隣には準備中に言葉を交わした老婆と青年が座っていた。

 青年はスープの皿を指さして、誇らしげに笑う。

「セバスさん。この野菜スープ、俺のお婆さんが作ったんですよ」

「そうなんですか……香ばしくていい香りがする。美味しそうですね」

「自慢の味なんです。皆、ここの生活で一番気に入ってることは、このスープがいつでも飲めることだって言うんですよ」

 いつでも、という言葉にセバスは何も返せない。彼はフードの奥で意味のない愛想笑いを浮かべることしかできなかった。

 談笑で賑わう中、マファルダは不意に席を立つ。

 大食堂全体がピタリと静まった。

「皆さん。準備を進めて下さってありがとうございます。では、開宴の挨拶と致しましょう」 

 マファルダが両手を広げると、一斉に拍手が沸き起こる。セバスとシヴィも周りに合わせて拍手をしておく。

 マファルダが緩やかに手を下ろすと、大食堂は再び静まり返った。

「今日は記念すべき日となります。館を開き、人々を導き続けてニ年と半年……辛く悲しいことが沢山ありました。ですが、皆さんのお陰で、どんな苦難も乗り超えることができました」

 彼女は深く息を吸って長い間を置く。面持ちには慈しみのある笑みが浮かび、一挙手一投足は精巧で慎み深い。

「長いようで短い、楽園のような生活……それも、今日でおしまい」

 突如、聖女の微笑みは悪魔のわらいに変貌した。

 マファルダは螺旋のあざを引き裂くように右頬を吊り上げ、歪んだ笑みをたたえる。

 ネファル族は発言の意図が分からず、一様に首を傾げた。

 セバスは即座に危機を察知する。彼はなるべく目立たないように席を立った。

「シヴィ。力の準備をしてくれ」

「わかった」

 シヴィが力を高めたその時、彼女の背中に激痛が走る。まるで溶鉱炉でドロドロにした鉄を服の中に流し込まれたかのような、灼熱の痛み。

 シヴィの口が鉄分の味で満たされ、唇の隙間から血反吐があふれた。声を出そうにも、ゴボゴボという水気を含んだ雑音にしかならない。

 シヴィは嗚咽し、吐血する。

「シヴィ!」

 セバスは彼女の肩に触れて違和感に気付いた。

 両手の感覚がない。

「な、なんだ……これは」

「ごほ……ゴボ……せ、せながぁ、あ、あづい……」

「背中……?」

 セバスはふと、マファルダと対面した時のことを思い出す。

 あのときマファルダに触られたは、セバスの両手とシヴィの背中だった。

「あのとき、何か仕掛けられていたのか……? だとしたら、どうして俺だけ効果が弱い」

 疑問は尽きない。しかし、もう考えている暇はない。

 セバスは咄嗟の思いつきで、ベアリの薬草をシヴィの背中に入れる。

「逃げよう、シヴィ! 皆さんも逃げて!」

 セバスはぎこちない手付きで車イスの取手を握り、走り出した。

 マファルダは二人の動きを見逃さない。

「皿の上にいなさい。メインディッシュは、車イスの魔女……あなたよ」

 突如、大食堂の床が沈む。壁と床の境目から木片と埃が舞い上がる。

 マファルダの席のみ微動だにしていない。

 ネファル族は一斉に悲鳴を上げた。

「うわぁあああ!」

「なんだ! い、一体何が……!」

「聖女様! お助けを!」

 マファルダは救いを求める彼らを見下ろし、ほくそ笑む。

 一方、セバスは車イスを強引に持ち上げてテーブルの上に飛び乗った。

「シヴィ! 肘掛けに捕まって!」

「うぅ……」

 彼は出口に向かってテーブルの上を走る。

 先にシヴィの安全を確保し、薬草の力で回復を測る算段だ。シヴィが回復さえすれば、状況をひっくり返せる。

 しかし、扉を目前にして地鳴りが起こった。床はより深く沈み、マファルダの方へ大きく傾く。

 大食堂は持ち上げられた大皿だ。

 長テーブルや料理もろとも、ネファル族が館の地下へ――底しれぬ闇の中へと滑り落ちていく。

 セバスは落ちていくネファル族に手を差し伸べようとした。だが、このままでは共に命を落としてしまう。彼らを助ける余力は残されていなかった。

 人々が闇の中へ消えていく姿を、見ていることしかできない。

 セバスは心の痛みを怒りへ、そして怒りを膂力に変える。

「シヴィ。ベアリさんに会うんだ。彼女ならきっと、君を助けてくれる」

「せ、せばず……」

 セバスはテーブルを駆け上る。駆ける駆ける、駆け上る。彼は瞬く間にテーブルの角に到達し、そこを踏み台にして跳躍した。

 だが、大食堂の外には、あと一歩届かない。

 セバスは跳躍の勢いを乗せて、車イスの底を蹴り飛ばした。

 シヴィを乗せた車イスは僅かながらも空を飛ぶ。そして出口の扉に突っ込んだ。

 車イスは廊下に倒れ、シヴィは転がっていく。

「う……ゲホ、ゴホ」

 シヴィは痛みを堪えて大食堂へ這い進む。

 背中の痛みは少しだけ和らいでいた。

 薬草が治癒の力を使い果たし、服の中で暖かな光を放っている。

 それでも、魔の力を使おうとすればするほど痛みが増す。

「ゴホ、ゴボッ……もっ……モーガン! みんな! ユノさん!」

 彼女の声はマファルダの耳に届いた。

 マファルダはセバスの真の名を、モーガンという名を聞き逃さない。

「んふ、んふふふふ……収束していく。私の運命が! 望みが!」

 マファルダは声高に天を仰いだ。彼女は同族たちの絶望を嘲り、必死に抗うモーガンを蔑む。

 彼らが落ちていく闇の中、マザートロールはよだれまみれの口を無邪気に開いて、ご馳走が口に入るのを待っていた。

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反逆者モーガンと車イスの魔女 アンガス・ベーコン @Aberdeen-Angus

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