雨と深海魚

さくらみお

雨と深海魚



 貴方は雨に似ている――。


「初めまして。神奈川支店から異動してきました渡良瀬です」


 ――最初は海月なかまだと思ったのよ。


 とても優しい、ふんわりとした小さな明かりを灯す笑顔。その明かりに惹かれて見上げた深海魚。透きとおる様な淡い微笑みに私は目が離せなかった。


 同僚よりも一つ飛び出した柔らかい髪。

 すらっとした背中。

 顔立ちは繊細で大人しそう見えるけれど、だまされないで。実際はとても男らしくて、気さくで、くだらない冗談も大好きで。

 今日も大笑いする声が、彼を慕う人々の合間から響いてくる。


 仲間だと思いこんでいた深海魚わたし

 別の世界の人だと気がついた。

 泡になって消えてしまわない様に、静かで心地よい海の底に逃げ込んだ。



 誰にでも優しい貴方。

 優しい雨に似ている。

 誰にでも平等で、真っ直ぐで、柔らかいから、みんなが貴方を好きになる。


 好きになりたいんじゃないの。


 恋愛なんて、面倒くさいだけ。

 知っているじゃない。もうこりごりだって。



 ――なのに雨は突然降ってくる。


 いちごみるくの飴が、こつん、とデスクをノックした。

 見上げれば、貴方の優しい笑顔。


「佐山さん、あげる」


 私と貴方だけが残る午後9時のオフィス。


 ざあっと私の心が騒めく音が、激しい雨のように二人の空間を打ちつけた。

 何も言えずにいる私に、貴方は微笑んで去っていく。


 ――この私が飴玉一つで堕ちるわけないでしょ?


 恋はたくさんしてきたの。

 こんな思春期みたいな淡い恋なんて、大人になった私には似合わない。


 私は飴を手にとる。

 口に放り込んで、ざわめきごと溶かしてしまおう。


 なのに私はその飴の包み紙を開くことが出来ず、胸に寄せてはそっと抱きしめる。

 

 我に返り己に恥じれば、慌てて包み紙を開きパクリと口に含んだ。


 早く、早く。

 早く溶けて。


 この浮かんだ想いが溶ける様に……。




 いつもはお天気雨。

 明るい姿を魅せて、お茶目なところを魅せて、人懐こいところを魅せて、両手を広げている。


「佐山さん、じゃんけんしよ!」

「な……突然現れて、なによ?!」

「じゃんけんで負けたほうが、ビル前のキッチンカーのお弁当を買って来る」

「いやよ、しかもなんで私と君でやるのよ」

「……だって、今日の日替わり弁当、佐山さんの好きな塩サバ弁当だよ?」

「……なんで、私の好きなお弁当を知って……」

「はい、じゃんけんぽん!……あ、僕の負け。買って来るね!」


 ただデスクの上にのせていた手のひら。

 勝手にグーを出して負ける貴方。


 ――だめ。

 好きになっちゃ、だめ。


 息を切らしてお弁当を買って来る貴方。

 当然の様に、休憩室で隣に座って食べ始める貴方。


「今度サバが釣れたら佐山さん家にも届けるよ。僕、釣りも趣味なんだよね」


 そうよね、貴方は釣りがとってもお上手。

 私、釣られかけている。ぐいぐいって。


 でも、お願い。

 私は海で泳いでいたいの。

 海の深い深いところで、深海魚の様に雨なんて知らない、何も知らない揺蕩たゆたう魚でいたい。


 なのに貴方は雨が聴こえる浅い水面で、私が浮かんでくるのをずっとずっと待っている。



 貴方と視線が合う。

 笑う。

 私も微笑む。



 貴方と視線が合う。

 笑う。

 私も微笑む。



 貴方と視線が合う。

 私が笑う。

 貴方はちょっと驚く。



 貴方と視線が合う。

 私が笑う。

 貴方はわざと目をそらした。



 私は視線が合うまで、貴方を見た。

 じっと見た。

 貴方は、私に背を向けた。




 ――わかっていた。


 その心の垣間に触れようとすれば、雨は激しく降り、姿を見えなくする。


 わかっていたじゃない。

 貴方は、貴方に興味がないひとが、好きなのよ。


 ええ、わかっているわ。

 貴方は、誰よりも、誰も信用していないの。

 雨の様に、一方的に私達を惑わすの。


 でも覗かせる偽りの笑顔に、平等に愛を降り注ぐ優しさに、うたれた私はどうしたらいいの?


 優しい雨を知った可哀想な深海魚。

 愛を与えられて、海に戻れなくなった。


 海のかわりに、貴方が気まぐれに降らせる雨だけを浴びて、私は逃れられない苦しい恋をするんだわ。


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雨と深海魚 さくらみお @Yukimidaihuku

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