昭和二十七年、東京三鷹にて。

後口上

 昭和二十七年の春のことである、戦勝記念日である四月七日にある一本の映画が公開された。「東條英機 白人から世界を解放した男」という題名のその映画は、言うまでも無くクライマックスは大和甲板で行われたアメリカ合衆国の降伏調印で締められた東條英機の半生記である。ある若き映画監督が総指揮を取ったそれは、決してただのプロパガンダ映画ではなかった。何せ、軍事考証がかの最終戦争論執筆者、石原莞爾なのである。当初、依頼を断ろうと思った石原は若き総監督の真摯な説得によって態度を変えた。そのときの言葉がこれである。

「本来なら断るつもりだったが、総監督から真摯な説得を受けて微力ながらも助けることにした。第一、映画には思想が必要であろうが題材の東条にそんなものはないだろうから、やむを得えまい」

 そして、石原莞爾が軍事考証や歴史考証を担当した以上、それが東條派のプロパガンダ映画になることはあり得なかった。

 平成の今なお不朽の名作として残っているそれは、いわばコロンブスからペリーまで続いたアメリカ合衆国の西へ進むという覇権主義を裁くというものであり、故の副題であった。


 そして、東京都の三鷹で先行上映されたその映画は意外にも当初はそこまで好評とは言い難かった。何せ時期が悪かった。感想の中に書いてあった「ようやく未曾有の戦役が終わったのになんで軍服姿の群れなんて見なきゃならんのだ」というものが象徴するように、戦役を勝利で終わらせたとはいえかなりの人口を戦役によって喪失したことと大政翼賛会が解散してまだ時間が経過していなかったこともあり、「しばらく軍人自体を見たくない」という声が多かった。だが、当時日本に在住していたまだ植民地から独立してそう日の経っていないアジア諸国の人達の感想は異なる者であった。曰く、「この映画は世界中で放送すべきだ」、曰く、「この戦争によって独立し得た国家は皆模範とすべきである」、曰く、「ただの映画で終わらせるのは勿体ない」、曰く、「ここに映っているのは私では無いのか、それだとしたら非常なる光栄である」、曰く、曰く、曰く……。

 それだけ、白人種による苛政と大日本帝国による軍政を対比して喜ぶ人物は多かった。さらには、日本語の勉強のための題材として使われる例もあったほどであった。

 以後、大日本帝国は軍事的なプレゼンスではなく文化的なプレゼンスを高めていくこととなる。「大日本帝国」は世界にも希な、「愛される皇帝」を戴いてたことから始まった、「文武両道」とでも言うべき「文」、即ち文化的なコンテンツなどによる本朝文明圏の紹介ならびに拡張と、「武」、即ち相対的に見て圧倒的な軍事力を背景にした国際的な治安維持力を基盤とした世界情勢への安定化の貢献、即ち、「憎まれぬ帝国」というものを体現した存在であった。それはいわば、日本人と白人種の決定的な違いとも言えた……。

 さて、そろそろ本枠を締めることとしたいと思う。締めに書くはその映画で描かれたあまりにも有名なアオリ文としよう。


 汝、国を弄びし政治屋よ、喩え猛き名声を得たとしてもそれはただの夢幻に過ぎぬ。

 被告、アメリカ合衆国に対して死刑を求刑する!!

 

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吾まだ死せず 改二  =輝く未来へ= 城闕崇華研究所(呼称は「えねこ」で宜しく @H_Eneko

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