第36話 首を愛でる
麒麟と一体化した咲耶が元に戻ったのは、黄泉の穴の墓場だった。白い霧の中を飛んでいたと思ったら、突然、そこに置いてきぼりにされていたのだ。
立ち尽くす咲耶。
えっ、どういうこと?……四方の壁を埋めつくす髑髏の視線を感じてめまいを覚えた。
ふらついたのを、背後の誰かに支えられた。振り返って見れば、切れ長の
「あ、ありがとう」
礼を言うと、青年の表情が少しだけほころんだ。
――行クゾ――
彼は一言発し、洞窟の出口に向かって歩き出した。
「エッ?」
彼の声は聞いたが、その唇が動いたようには見えなかった。
だれ?……疑問に思いながら彼を追う。
――我ヲ忘レタカ?――
その口調は麒麟そのものだった。
「麒麟……さん?」
――然リ――
「どうして……」言葉にはできなかった。何故、人間の姿なのか? 何故、麒麟が自分の守り神になり、今ここにいるのか?
――教エタハズダ。我ハ、朔ト共ニアル。1万年。ソレガ明心トノ契約ダ――
「お母さんとの……」
考えると足元がおろそかになり、小さな岩につまずいて転びそうになる。そうして初めて、自分が暗闇の中にいるはずなのだと気づいた。なのに、人型に変わった麒麟も、洞窟の様子も太陽の下にいるように良く見える。それも麒麟の力に違いない。そう考えて納得した。
「1万年、私は何をするのですか?」
彼を追いながら訊いた。
――コノ星ヲ守レ――
「異界のモノからですか?」
――然リ、ヌシハ、星ノ一部トナッタノダ――
意味わかりません!……胸の内で叫び、麒麟を追う。
――ハハハハハ――
麒麟が笑った。いい奴らしい、と思った。
――ナメルナ、役立タタズトナレバ、捨テル――
「ごめんなさい」
自分が何の役に立つのか考えた。黄泉の穴の出口まで考えたけれど、何もわからなかった。
太陽は空にあった。しかし、森の中は陰り始めていた。
懐かしい家の輪郭が見える。父と母の面影が重なった。いくつかの窓に電気が灯っていた。
玄関ドアを開けると暖かな気持ちになる。母親の声が聞こえてきそうだ。明心はいなかったが、天具が各部屋を回って電球をLED電球に交換しているところだった。
「見ろ、通電したぞ」
2階から降りてきた天具が得意げに笑った。その笑みが、彼女の後ろに立っている若者に気づいて雲に陰るように消えた。
「……その男は?……見慣れない顔だが……」
「麒麟さんです」
「キリンサン?」
紹介すると、天具が懐疑的な目をした。
――天具、首ヲ黄泉ノ穴ニ運ベ――
麒麟の声は相変わらず頭の中に直接届いた。
「麒麟さん、首って?」
麒麟は知っているのだ。……咲耶は、罪を問われていると感じて背筋が凍った。
「なんだって?」
天具が眉根を寄せていた。まだ、青年が麒麟だと納得していないのだ。彼には麒麟の声も聞こえていないのだろう。
「麒麟さんが、首を運べって言ってます」
「あ、ああ。聞こえている」
戸惑う天具の目の前を、麒麟は澄ました顔で通り過ぎる。その足はリビングに入っても止まらない。
池に行くのだ。……咲耶は覚悟を決めて彼を追った。
麒麟が掃き出し窓から庭に降りる。裸足のまま真っ直ぐ池に向かった。
「あれが麒麟……。本当なのか?」
咲耶の後ろで天具が訊いた。
「本当です。黄泉の穴で会ったの。なかなかのイケメンですよね」
イケメンだと言ったのは咲耶の強がりだ。これから、自分の罪が白日の下にさらされる。その動揺を誤魔化すためだった。
「人の姿に変わるとは……」
「さすが神様です。今日から、ここに住むそうです」
咲耶は笑ってみせた。頬が引きつっているのが自分でもわかった。
池は大きな鯉が悠々と泳げるほど深い。水は緑色に濁っていて底がわからなかった。比呂彦が水を入れ替えたのは、かれこれ4年も前だ。今日のような夏休みのことだった。父が汗を流しながら鯉やザリガニを容器に上げ、溜まったヘドロを掻きだしていたのを覚えている。その後、水の緑が濃くなった分だけ、父親の影が薄くなったような気がしていた。
池の深さも、底に何が沈んでいるのかもわからないはずなのに、麒麟は躊躇うことなくそこに足を進めた。
「危ない……」
咲耶は驚き、そして首をかしげた。
池の水は麒麟の足の甲さえ濡らしていなかった。もっと深いはずなのだ。その証拠に、その足より深い場所を鯉の影が逃げ散った。麒麟の足を中心に二つの波紋が幾何学模様を描いている。
「さすが、麒麟さまだ。浮いてるな」
隣で天具が言った。
「浮いてますね……」
人型の奇跡は手品のようだ。
池の中ほどにスイっと移動した麒麟は、咲耶を一瞥すると腰を折って片手を水の中に入れた。それもまた、手のひらが水に触れる程度だった。
麒麟は、すぐに腰を伸ばした。水から離れた手は、バレーボールほどの丸い物を握っていた。まるで麒麟の手にそれが吸い付いているように見えた。
「それは津上……」
天具が息をのんだ。
――津上隆斗ノ首ダ――
麒麟が隆斗の頭部を池の縁に向かって投げた。それはふわりと飛んで天具の目の前に静かに着地した。まるで見えない手が、そっと置いたようだ。
隆斗の顔は恐怖で歪んでいた。咲耶が東京上空を飛んで森に下りた時に見た表情だ。あの時、自分は麒麟と一体で、彼は麒麟に首を嚙み切られたのだろう。夢だと思っていたものが、実はそうではなかったのだ。
咲耶は、現実と夢のあいまいな境界線に不安を覚えた。これから自分の見たものやしたことを信じられるだろうか?
――ソノ者ノ死ハ、朔ノ願イヨ――
麒麟に教えられ、咲耶はそう夢の中で声にしたことを思い出した。天具も納得の表情をしている。彼にはストーカーには天罰を、と話していた。
咲耶と天具の
「大神……」
天具が息を呑んだ。
麒麟が三度目の腰を折る。
――コレハ朔ガ
その手にあるのは、田尻幸利の頭部だった。肉は腐り、顔の形がくずれて誰のものか判別できない。が、咲耶にはわかった。
幸利の首を麒麟が投げる。ふわりと飛んだ頭部が潤女の首の隣に着地した。天具が歪んだ顔を咲耶に向けた。
――コレハ、山上比呂彦。霊力ノ強イ男ダッタ。ユエニ山上明心ガ贄トシタ――
次に引き上げられたものは、すっかり緑の藻に覆われた首だった。
「見つかっちゃったわね」
咲耶の唇から明心の声が漏れた。驚きや失望の声ではなく、悟りを開いたような落ち着いた声だった。
「咲耶、……じゃないのか?」
天具が目を丸くした。
――山上明心ヨ。朔ノナカニ、明心ト比呂彦ガイル――
「……どうしてそれを?」
麒麟に向かって訊いたのは咲耶の声だった。……明心が比呂彦を殺したのは、もう3年も前になる。その身体を母と共に解体した時から、父が咲耶の中に住んだ。それを麒麟が知っている理由がわからない。
――朔、オ主ト我ハ一心同体。オ主ノ記憶ハ我ノモノダ――
麒麟が比呂彦の首を放った。それが地面にあるさまは、苔むした石に見えた。
「そうなのか?」
咲耶に向かって天具が訊いた。
「一心同体はおかしいです。麒麟さんは、そうして身体を持っている」
咲耶は池の上に立つ麒麟に言った。
――見タ目ニ
麒麟はそう言って池に手を入れた。上げた手には、緑色の髑髏が握られていた。
――コレガ明心。朔が贄トシタ――
「咲耶が母親を贄に……」
信じられないという顔で天具が咲耶を見ていた。
「両親の指示でした。1年毎に、この池に人の頭を供えなければならないと……。父も母もずっと私のここにいて……」咲耶は胸に手を置いた。「……私を支えていてくれました」
「どうして咲耶さんが両親を贄にしなければならなかったのだ?」
「それは……」
咲耶は返事に詰まった。
明心の髑髏を手にしたまま麒麟が池から上がり、それを比呂彦の首の隣に置いた。
――池カラ黄泉ニ通ジルワズカナ穴ガアルカラダ。ソコカラ黒龍ガ異界ノモノヲ送リ込ンデイタ。コヤツラハ、ソレヲ封ジテイタノダ――
麒麟が藻で覆われた明心の頭部に両手を当て、そっと汚れを拭いとった。それから比呂彦の髑髏にも同じことをした。麒麟の力だろう。中から現れた髑髏は、美しい白色をしていた。
――家ヲ移シタ今、ココニ首ハ不要。朔、首ヲ黄泉ノ穴ニ納メヨ――
「はい……」咲耶は麒麟に答え、両親の髑髏の前に膝をついた。
私たちの役目は終わったということだな。後悔があるとすれば、隣人に迷惑をかけたことだ。……頭の芯で比呂彦の声がした。
仕方がありませんよ。見られてしまったのですもの。……明心の声。
ああ、咲耶のため、日本国家のためだ。とはいえ、罪は罪。
咲耶、騙して悪かったわね。……明心の声はこれまでになく穏やかなものだった。
形のある髑髏と、頭の芯の声がひとつになった気がした。
「大神さまー!」
玄関から鳳法山の声がして咲耶は立った。彼は遠慮なく屋内に入り込んでくる。
「村長、庭です」
天具が呼んだ。
「オウ……」応じた法山が顔を見せる。「……これは、これは大神さま。日本政府との交渉がまとまりましたぞ」
「交渉?」
法山の言うことがわからなかった。
「東京からこの家と共に大神さま一家の姿が消えたことや、大神さまのご友人が姿を消したことも不問に付すと承諾させたのですぞ。なんでも、ご友人のご遺体はこの家の跡地で三日前に発見されたとか。そこで麒麟の姿が見られたというのですから、私も驚きました」
天具に聞いていたように、彼は優秀な政治家らしい。咲耶の罪と過ちを帳消しにしていた。とはいえ……。
「三日前……?」
麒麟と共に雅たちの遺体を置いてきたのはつい先ほどのはず?……咲耶は彼の顔に目をやった。
――既成概念カラ魂ヲ解キ放テ。時間トテ、不変デハナイ――
人型の麒麟は、東京の空を飛んだ時と同じことを言い、すました顔をしている。
過去にさかのぼって置いてきたということか? それとも東京から戻るのに三日も要していたのに、自分が気づかなかったのか? そういえば、東京の森で死んだ津上隆斗の首がこの場にあるのもおかしなことだ。
咲耶は時空をゆがめる朱雀の力を思い出した。そうした力があるなら、遺体を三日前の現場に置いてきたり、東京で捨てた首がここに現れたりしても不思議ではない。四神の上位にある麒麟だから、それらの能力を有していても不思議ではない。三日のずれが麒麟の意図によるものなのか、何らかの法則性に基づくものかさっぱり見当もつかないけれど……。
科学的に考えるのがバカバカしくなった。それが魂を解き放つということなのか?……それさえ考えるのも疎ましい。
咲耶の視線を追った法山が、はじめて並んだ首の数々に気づいて目を白黒させた。
「ゲッ、そ、それは……?」
「東京の私の家に黄泉に続く穴があったのです。それをふさぐために……」
咲耶は、両親がその身を犠牲にして穴をふさいできたことを説明し、加えて、それを教えてくれた麒麟を紹介した。
「あなたが麒麟さま……」
法山は潤女の首に目をやって眉を寄せたものの、疑う言葉を呑み込んだ。
「麒麟さま、異界のモノを抑えていた家がなくなって、東京は大丈夫なのですか?」
天具が訊いた。
麒麟は立ち上がり、彼に顔を向けた。広い宇宙を見るような
――イズレ贄ガ要ルダロウ。ソレハ
その目は天具の方を見ている。
「主?」
天具が背後を振り返った。そこには誰もいない。
「俺の首か……」
彼は自分の太い首をそっとなでた。
「法山村長、首桶を用意してください。それから人手を集めてもらえますか。ここの首を黄泉の穴に納めに行きます」
咲耶の胸に大神としての真の覚悟が生れたのはその時だった。そうして首を納めた後、咲耶の中で両親の声がすることはなくなった。
世界を守るために乙女は全てを差し出した ――麒麟の首―― 明日乃たまご @tamago-asuno
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