〈落語原案シリーズ(1)〉幽霊チョコレート

中嶋雷太

〈落語原案〉幽霊チョコレート

 クリスマスの売れ残りケーキを倉庫裏に運び終わると〈古賀いのち〉はレジに戻った。

 時計は一時四十五分をすぎ。店内には冷気が漂いだしていた。

 「いのちさん。寒いねぇ」

 ベトナム生まれのジエンちゃんは寒さに弱いのか、顔色が良くなかった。

 「ジエンちゃん、大丈夫?」

 「うん。寒さは三首。首筋、手首に足首だから、温かくしてきたよ」

 日本語学校で覚えるのか、ジエンちゃんは時々おばあちゃんの知恵袋のような話を返してくる。そこがジエンちゃんの不思議な魅力になっていた。

 年末年始の昼間は忙しいが終電が終わると人影はスッと無くなり、駅前には真冬の風だけが吹きすさぶ。たまに酔っ払い客が店に顔を出すが、閑散とした夜が始まる。店内清掃も商品の品出しや陳列も終わり、午前三時の配送時間まで、いのちとジエンはレジの中でじっと佇んだまま店内の商品棚を見つめなければならなかった。


 〈ポン〉

 ドアが開き、一人の女性が入ってきた。寒さに凍えているのか嫌に寒々とした女性だった。少し酔っているのだろうか覚束ない足取りで、ふらりふらりとお菓子コーナーに向かって行った。

 「なんか、今夜は寒いね」

 「そうだね。さっきドアが空いたから冷気が入ってきたみたいだね」

 いのちは右足で電熱ストーブをジエンちゃん側に押し出した。

 「ありがとう」

 「ううん」


 いのちが店内ミラーに視線を送ると、さっき入店した女性が見切り品コーナーで商品を一つだけ手に取ると、レジへと向かってきた。


 「すみません。これを…」

 「はい」

 小さな見切り品チョコレート菓子の値段は消費税込みで十円だった。十円玉を釣り銭受けに置いた女性は商品を手に、ドアからスッと出て行った。


 「あの人…」

 「どうしたジエンちゃん」

 「ううん。別に…」

 「ま、見切り品を年内に売り尽くしたいってオーナーが言っていたから、十円のチョコレート菓子でも感謝しないと」

 「ううん。そうじゃなくて…」

 「そうじゃなくて?」

 「そうじゃなくて、コートも着ずに寒くなかったのかなって。あと、靴を履いていなかったみたい…」

 「ほんと?」

 「なんとなく、だよ」


 その十二月二十四日の深夜から二十九日の深夜までの六夜続けて、その女性は毎夜午前二時になると、いのちとジエンがレジに立つコンビニにやって来ては、同じチョコレート菓子を買って行った。服装もデニムの上にパーカー姿でコートは着ていなかった。足元を確かめようとしたが、いのちもジエンちゃんも睡魔が襲っていたのかボンヤリとしか見えず、靴を履いているのかいないのか、確かめられなかった。


 そして十二月三十日の深夜。開けて三十一日の午前二時のことだった。

いつも通りあの女性が入店し十円のチョコレート菓子を手にレジにやって来た。


 「いらっしゃいませ」

 「あの…。お金を持って来るのを忘れまして…」

 「え?」

 「なので…。これをいただけませんか?」

 いのちとジエンちゃんは顔を見合わせた。これが酔っ払いのざれ言だったり、高価な商品だったら断るが、年内に売り尽くさねばならない見切り品で、しかも消費税込みで十円のチョコレート菓子だ。いのちとジエンちゃんは、顔を見合わせ〈うん〉と互いに納得すると、「どうぞ、今夜だけ」と女性に声をかけた。長い髪のその女性は、日に日に正気を失っているようにも見え、心配だったのもある。

 「ほんとうに、ありがとうございます…」と頭を下げた女性は、いつもの通り、床を滑るように自動ドアから出て行った。


 「ジエンちゃん。これ十円。これで支払いは良いよね」

 「いのちさん。はい!」

 「それと、ちょっと外に出て良いかな。あの人のことが気になって…」

 「はい。でも、おトイレに行ったことにしてくださいね」

 「分かった」


 いのちは女性の後を追った。強い北風が吹きつけ、コンビニの制服の身体は凍えていた。駅前から横断歩道を渡り小さな公園を超え、女性はアパートの二階の一室に消えた。

 〈え?いま、ドアを開けなかったんじゃ…〉

 いのちは恐る恐る、女性が消えたアパートの一室の前に立った。

 その時だった、北風が突然止むと、部屋から弱々しい赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。

 〈赤ちゃん?でも部屋は真っ暗だし…大丈夫か?〉

 いのちがドアノブを回すと、鍵はかかっておらず、ドアはギーッと音をたて開いた。

 「あの…」

 部屋のなかは暖房もなく、外気と同じ寒さが篭っていた。

 「あの」

 いのちは少し大きな声を出したが、赤ちゃんの弱々しい泣き声ばかりが聞こえてきた。

 〈なんだか、変だぞ〉

 いのちは靴を脱ぎ、奥の居間に上がって行った。

 〈あ〉

 居間にはあの女性の亡骸があり。その脇で生まれたての赤ちゃんが鳴いていた。


 簡単な現場検証を終え、警察に解放されたのが午前六時過ぎだった。

 眠い目を擦るオーナーと一緒にコンビニに戻り、裏手の事務室で熱い緑茶をすすっていると、仕事明けのジエンちゃんが顔を見せた。


 「いのちさん。お疲れさま」

 「あ、ジエンちゃん。ごめんね」

 「謝らなくていいよ。人を助けたんだから。生まれて間もなくの赤ちゃんを」

 「うん」

 警察に連絡しパトカーがサイレンを鳴らしてアパートにやって来て…そのあとの記憶は曖昧だった。あれこれ質問されコンビニのオーナーが〈大丈夫だったか?〉と笑顔で迎えに来てくれた…。女性は十二月二十四日の夜、赤ちゃんを産み落とすや亡くなったという。母娘二人での暮らしは貧困を極めていたようだ。そして女性は毎夜幽霊となり、六夜、十円玉一枚を手に見切り品のチョコレート菓子を買い、乳もやれぬ赤ちゃんに与えていたようだった。


 「古賀くん。君はよくやったよ」

 オーナーは、いのちの頭をグリグリと摩った。

 「ところで何故七回目の夜、あの人はお金が無かったんでしょう」

 「そうだなぁ。たぶんだが、六文銭なのかもな」

 「六文銭?」

 「そうだ。人が亡くなるだろ。そして三途の川を渡らねばならない。そのときの渡し賃が六文なんだ。だから人が亡くなると棺桶に一銭を六枚入れるという風習がある」

 「オーナー。つまりあのお母さんは、自分が三途の川を渡るための六文銭を毎夜一枚一枚ここに持って来て、赤ちゃんの為に…」

 「そうなんじゃないかな…」


 その翌日。

 アルバイト仲間のジエンちゃんが、いのちを居酒屋に誘った。

 アルバイトはアルバイトとして距離を置いていたいのちだが、ジエンちゃんが「いのちさん。今夜、飲みましょう」と珍しく、いや初めて誘ってくれた。

 そして、お互い夕方までのシフトを組み、夜七時からコンビニ近くの格安焼き鳥チェーンの暖簾をくぐった。

 「ジエンちゃん。ありがとう」

 「ううん。いのちさん、頑張ったから」

 「ありがとう。でも、たまたまだったんだよね」

 「うん。そうかもしれないけれど…」

 酎ハイ片手のジエンちゃんは、たどたどしい日本語から、いま伝えたい言葉を必死になって探しているようだった。


 「ジエンちゃん。どうしたの?」

 「うん。あのね…お婆ちゃんの話をしておきたいなぁって」

 「お婆ちゃん?」

 「うん。ベトナムから脱出した、私のお婆ちゃんの話を…」

 角のハイボールをぐいと呑んだいのちは、ジエンちゃんの唇を見つめた。

 ジエンちゃんのお婆ちゃんは、ベトナム戦争の末期に小さな船に乗り、ベトナムを脱出したという。「阿鼻叫喚だったって」とジエンちゃんが四文字熟語でその時の様子を語ってくれた。身ごもっていたジエンちゃんのお婆ちゃんは、大きなお腹を両手で抱えながら、必死になって、何日も波に揉まれ耐えていた。いつ、赤ちゃんが生まれるのか、生まれても生きていられるのかどうか…。とにかく、ジエンちゃんのお婆ちゃんはお腹の中の赤ちゃんのことばかりを考えていたという。やがて、激しい陣痛が始まり、ジエンちゃんのお婆ちゃんは、その小さな船の中で赤ちゃんを産み落としたという。

 明日も分からぬ何十人もがすし詰めになる小さな船の中だったけれど、船に乗り込んだ人たちは元気よく泣く赤ちゃんを優しく見つめていたという。


 「いのちさん。それだけの話。その赤ちゃんが、私のお母さん」

 「そんなことがあったんだね」

 「うん。そんなことがあった。それだけ。でも、こうして私は生きている」

 「そうだね。ジエンちゃんは、いま、こうして生きているね」

 「あの幽霊になったお母さんも、私のお婆ちゃんも、なんだか、一緒な気がするんだ。あのちっぽけな命を生むこと、そして、なんとか生かしたいっていう必死な気持ち…。私、いのちさんは、きっと良いお医者さんになると思うよ」

 「ありがとう。頑張るね」

 「うん。いつか、また会おうね」

 「え?それは、どういう意味?」

 「あのね。私、ベトナムに帰ることにした。お母さんは日本でベトナム料理屋を経営するって言っているけど、私は、お婆ちゃんの故郷に帰ろうと思う。お婆ちゃんもベトナム戦争が終わって一度外に出たけれど、結局生まれ故郷のベトナムに帰ったし。お婆ちゃんのお墓もあるから」

 「帰って、どうするの?」

 「産婦人科の看護師さんになるつもり。日本の看護師学校を卒業したら…」

 「じゃあ、ボクも頑張るよ。良い、お医者さんになるね」


 それから八年後、古賀いのちはNICU(新生児特定集中治療室)の勤務医になっていた。毎日、病を抱えた赤ちゃんたちがこのNICUに運ばれ、小さな命たちが懸命に生きようと頑張っていた。

 クリスマス・シーズンになり病院の庭にイルミネーションが点ると、いのちはあの夜を思い出した。あの寒い夜、命を繋げることを、あのお母さんから、古賀いのちは教えてもらった。


 〈あの赤ちゃんが元気なら良いな〉とつぶやいた時、空から雪のカケラが落ちてきた。


                                     了

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