パンダの憂鬱
醍醐十朗
パンダの憂鬱
まったく、パンダをやるのも楽じゃない。
よく晴れた春の日の昼、天気とは裏腹な鬱々とした気分で俺は寝返りをうつ。途端に「わっ!」と大きな歓声が柵の外で上がった。
驚くまでもなく、入園者の皆々様だ。
休日(実のところ平日でもさほど変わらないが)ということもあり、今日も今日とて園内には見渡す限りの人、人、人。小さな子供やヨボヨボのご老人、神経質そうなオッサンから騒がしい女子高生まで老若男女の雨あられ。八久佐動物園は本日も大入りである。別に嬉しくはない。
「えー、超かわいいんだけど」
──おいそこの女子高生。スマホを構えるな。うちは写真も動画も撮影禁止だぞ、立て看板があっただろ……と怒ったところで伝わることはないわけで。
せめてもの抵抗として動き回ってやろうかと思ったが、あえなく木登りに失敗。地面に背中から叩きつけられる。イタイ。
「あー落ちちゃった! え、ヤバ、かわいすぎない……?」
馬鹿にしてんのか。言葉が通じてないと思って好き勝手言いやがって。
ふてくされた俺はごろんと大の字に寝転がり、青々と広がる空を見ながらボーッと考える。
どうしてこんなことになったんだろう。
俺だって昔は結構ブイブイ言わせていた。地元じゃ負け知らずだったし、俺に逆らうやつもいなかった。
それが今ではどうだ。
怖い人たちに捕まったかと思えば、あれよあれよという間に小さな囲いの中。天井はないけれども、翼もないから意味もなし。所詮、地を這うパンダだ。
タイヤで遊んで、笹を弄って、滑り台で遊んで、笹を弄って、笹を弄って、木に登って、笹を弄って……そんなことを繰り返す日々。
とりあえず早くここから出たい。今はそれしか考えられない。
「おーい、タナタナ! 戻りなさい!」
そんな俺を呼ぶ声が一人。
びくりと身体が反応してしまう。飛び起きて確認すると、声の主は想像通り飼育員の山口さんだった。俺が夜間を過ごす動物舎の建物の前で、腕を組んで仁王立ちしている。
どうやらもう昼飯の時間になっていたらしい。
「反応はやーい! 飼育員さんが大好きなんだねえ」
そんなわけあるか。あいつが諸悪の根源だ。
見当違いな客の感想に苛立ちを覚えつつも、俺はそそくさと飼育員の待つ動物舎へと向かった。
建物に入ると、背後でドアの閉まる音が響く。
コンクリートが打ちっぱなしの殺風景な部屋。檻だの専門道具だのは一切存在せず、簡素なテーブルとパイプ椅子があるだけ。そもそもどんなものがあれば動物園らしいのかも俺は知らないが。
なぜって、当たり前の話。
「ご苦労。立て」
八久佐動物園に人間以外の動物はいない。
四足歩行をやめ、両足で立ち上がる。
手は身体の前で組み、黙って指示を待つ。
「着ぐるみ脱いでいいぞ、田中」
山口さんの許可が降りたので、俺は後ろ手で背中のチャックを引き下ろした。数時間ぶりに触れた外気は俺が人間だと思い出させてくれる。ここからどれだけ出たかったことか、客には想像もつかないだろう。
──そう、その客が問題だ。先ほどスマホを構えていた女子高生を思い出し、
「山口さん、もうさすがにムリっすよ。そろそろマジでバレますって」
つい弱音を吐いてしまう。人が増えた弊害だ、ルールを守らない客が増えればいつか必ず露見する。そうなればこの人たちだって困るはずだ。
しかし、山口さんはギロリとこちらを睨みつけた。
「なにをぬかしてんだてめえは。バレねェように振る舞うのがてめえら動物役の仕事だろうが。金も返せません、仕事もできませんなんて話が通るかバカ野郎!」
蹴り飛ばされたパイプ椅子が宙を舞う。一瞬ののち、大きな音で無機質な床に叩きつけられる。倒れ、動かない椅子は俺の未来を暗示しているようにも見えて、背筋に冷たいものが走る。
ヤバい、調子に乗りすぎた。
「ス、スイマセン!」
謝罪。即座に頭を下げる……が、節くれだった手に髪の毛を掴まれ、無理やり顔を持ち上げられた。眼前には無表情で、しかし目だけは爛々と輝いている山口さん。
「なァ、田中よぉ。パンダなんて楽でいいじゃねえか。向こうの檻でゴリラやってた岡本な、腰いわして使い物にならねえからクビになってんだぞ。それともてめえが代わりにゴリラやるか? ああ?」
ブンブンと首を横に振る。あんな姿勢の着ぐるみに長時間入っていたら、確実に俺の腰も死ぬ。
「バカが。次はねえぞ」
舌打ちとともに手は離してくれたが、だけど俺は聞き慣れない言葉にそれどころではない。
クビ? クビって、どういうことだ。解放?
「ちなみに岡本って、クビになったあとは……?」
恐る恐る本人に訊ねると、
「オレだって詳しくは知らん。まあ今頃はバラし終わって、残りの部分はどっかの山ん中か、それか海の底か。なんにせよゆっくり休めるだろうな」
腰どころじゃなかった。もはやゴリラ役は単なる処刑である。
「なんだ。羨ましいのか?」
「いえ滅相もないです! パンダとしてバリバリ働かせていただきます!」
「パンダがバリバリ働くなアホ。愛らしく、楽しそうに振る舞え。本物よりもだ。で、客に金をガンガン使わせろ。簡単だろ?──それ食ったら外に戻れよ」
一方的に告げると、山口さんは部屋から出ていってしまった。
残されたのは俺とパンダの着ぐるみ、そして机の上で冷めたコンビニ弁当だけ。さっさと食べて仕事に戻らなければ、それこそゴリラに回されかねない。
大きなため息が口からこぼれた。
「パンダも簡単じゃねえっすよ……」
借金は利息も込みで二千万。
俺はいつになったら客寄せパンダを辞められるのだろうか。
パンダの憂鬱 醍醐十朗 @hima-zyuro
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