【移ったのは何色?】
「別れたい」
「そっか、分かった」
陽の当たらない校舎裏、彼は頷いて、まるで何事もなかったかのように去っていった。
あまりにもあっけない終わりだった。言い出せた安心感が胸を満たしていくけれど、予想とは違い何も言われなかったことに拍子抜けしてしまう。
本当は引き止めてほしかったのかもしれない。でも、もう遅かった。この冷めきった関係じゃ、そんな望みないって分かってた。分かってたのに、私は期待してたんだ。
会話だってなくなって、付き合ってる意味も、理由も、なにもかもわからなくなって。こんなに苦しいくらいなら私から別れを切り出そうって決めたんだ。ちゃんと、自分で決めたのに。
……私はまだ、ここから動けないでいる。まだ放課後は始まったばかりだ。校舎裏ということもあって誰も人は来ない。ただ遠くから部活動生の声が聞こえるだけ。
伝えたいことは伝えられたはずなのに、私の心の中は空っぽで。
ああ……早く帰らなきゃ、空っぽの器まで壊れちゃう。
放課後にもなれば教室に残っている人も少なくなる。クラス内のカースト上位の女子たちだけが扉の奥でわいわいと騒いでいた。
「春川と白石さんって別れたらしいよ」
「あ見た見た、春川がストーリーで言ってた」
「うわなんかやだわー、うざあ」
私達のことは、既にクラス内で共有されていたみたいだった。しかも、彼が、私の知らない所で。
「そういやあいつって二組の子とも付き合ってるんだって?」
引き戸の取手に伸ばそうとした手は、動きを止めた。
「私は五組って聞いたんだけど」
「まさかの三股か」
あははは、と女子特有の甲高い笑い声が辺りにうるさく鳴り響く。え、なにそれ、私、知らない。
「ほんと見る目無いねあの子、かわいそー」
嘲笑。見下したようなその声と、広がっていく笑い声。私、騙されてたんだ? なんで教えてくれなかったんだろう。なんで、みんな分かってたんでしょ? 面白がられてたのかな、なんて。
なんで私が知らなくて、みんなが知ってるの。嫌悪感と劣等感、他にも自分では説明しようのない感情が私の中をぐるぐると渦巻く。
私は、ドアに手をかけることすらできない。
「女癖悪いらしいよねえ」
「一時期噂になってたし」
向こう側の彼女たちは私に気づいていないらしい。笑い声と、がちゃがちゃとうるさい椅子やら何やらの音。
踵を返して、私はトイレに逃げ込んだ。
なんで? どうして、こうなるの? 私が知らないことをみんなは知ってて、それで、私は……私は……?
……帰らなきゃ。もう、なにも知りたくないから。
帰り道にある空き家の庭の紫陽花。荒れ果てていて誰も世話している様子はないのに、あざやかなピンク色に咲き誇っている。
確か紫陽花って土壌によって色が変わるんだっけ。……浮気性の貴方みたいだと思った。
ああ、なんでだろう、死んでほしい。切実に。どうしてこうなったんだろうとか、そういうことを考えてるだけでもう頭がいっぱいいっぱいになってしまう。
貴方の気持ちが知りたいとか思ってみたけど、わかる方がおかしいか。あんな人の考えることなんて理解できなくていいんだ。本当に気持ちが悪い。地獄に落ちてほしい。
私は初めて人に死を願った。こんなこと思うなんて、相当未練が残ってるんだろうなあとは思うけど。だって、仕方ないでしょ。……仕方ないんだよ。
ああ、そうだ。彼との思い出はこの紫陽花に遺そう。置いていこう。そうすればきっともう辛くなくなるから。
もう大丈夫、大丈夫……私は一人だって大丈夫。別れて正解だったんだ。そう言い聞かせながら、私は彼との全てを捨てる準備を始めた。もらったものとか捨てようって思ったけど、思っていたほど無くて。
なんだ、やっぱり私ばっかり好きだったんだね。本当に……惨めだった。
――――それからしばらくが経っただろうか。遺棄には無事成功した。もう二度と私が彼のことを想うことはないだろう。そして、その姿を見ることも、絶対にない。
ついこの間まで綺麗なピンク色だったはずの紫陽花はいつからか真っ青に染まっていて、風に吹かれがさがさと音を立てていた。
――――ハイドレンジア「冷淡」
あなたに花を、私に言葉を 冷田かるぼ @meimumei
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