第6話 研修医世間話
麻酔科研修も折り返し地点に近づき、来週から始まるゴールデンウィークに向けて俺は今日も手術麻酔の仕事をしていた。
「喉頭鏡受け取ります」
「どうぞ!」
患者さんの口内を右手で押し広げた状態で看護師さんから左手で喉頭鏡を受け取り、喉頭鏡のブレードが患者さんの歯に当たらないようにしながら喉頭内に先端を進めていく。
今回の患者さんは比較的喉頭内を確認しやすく、続いて気道チューブを受け取ると患者さんの身体の向きに対して90度の角度から先端を喉頭内に挿入する。
先端が黒い線の所まで入ったら看護師さんに気道チューブ内部のスタイレットを抜いて貰い、その際には気道チューブごと抜けてしまわないよう注意して気道チューブを右手で押さえておく。
その後はテープで気道チューブを患者さんの口の端に固定し、気管挿管は無事に成功した。
「よくできました! 物部先生、胃管の準備をしておいてください」
「分かりました!」
今回の麻酔指導医である准助教の
研修1週目からやることが何も変わっていないが、業務内容が高度である一方で一度やり方を覚えれば毎回応用が効くのが麻酔科研修医の仕事である。
その後タイムアウトを経て手術開始となると石森先生は研究作業のため一旦手術室を離れることになり、その際俺に麻酔科の薬剤投与量に関する練習問題を紙に書いて渡してくれた。
麻酔科研修医は手術中にも常に仕事がありモニターや患者さんの様子には常に気を配る必要があるが、ヘルニア修復術である今回の手術のように急変のリスクが低い手術では術中に麻酔科研修のハンドブック等を読んで勉強している研修医も多い。
俺は本を読んで勉強しながらモニターや患者さんの様子に気を配れるほど器用ではないので術中はいつも椅子に座ったままモニターと患者さんを凝視していたが、石森先生はそんな俺のために公式を与えた上で薬剤投与量の練習問題を提示してくれていた。
「いつもながら勝手に仕事を増やしてしまって申し訳ない。僕はこういうことをするから研修医からはハズレとよく言われるんだ」
「いえいえ、俺は石森先生がいつも色々教えてくださるのがすごく嬉しいですよ。計算式も書くので後で添削お願いしたいです」
石森先生はまだ32歳らしいがとても教育熱心な先生で、今日のように練習問題を考えては研修医に与えたり自分専用のカルテに保存してある輸液に関する説明文を見せて術中に簡易的な講義をしてくれたりと熱意に溢れた先生だが研修医によっては面倒だと敬遠されることもあるという。
俺自身はわざわざ自分の時間を割いて研修医に教育をしてくれる先生には感謝しかないが、これについては研修医のキャラクターによって合う合わないがあるのだろう。
その日は午前中に上記のヘルニア修復術、午後に泌尿器科での尿管鏡検査という比較的軽めの手術に入り、全体の手術件数が少ない日だったこともあって俺は16時にはフリーとなっていた。
こういう場合は定時である16時50分までに緊急手術が入ればそれに参加し、入らなければそのまま定時退勤となるがどちらにせよ仕事中は手術棟から出られないのが麻酔科研修なので麻酔のシミュレーターや書籍による学習をしないならばひたすら研修医待機室で待つことになる。
といっても暇な研修医が待機室に数名集まって何も起きないはずはなく……
「お疲れ~。外山先生から聞いたけどサクラちゃんって解剖学の先生志望なんでしょ? でもすっごく仕事できるって先生方に噂されてたよ! 仕事めちゃめちゃ早いから看護師さんから氷の女神って呼ばれてるんだって~」
「そうなんだ。私無愛想なだけだと思うけど……」
研修医待機室で剖良君に話しかけているのは山陰大学出身の1年目女子研修医である西川さんで、西川さんは実家が大阪府内であることもあって他の地方の国立大学出身にも関わらずこの大学での研修に何の問題もなく溶け込めていた。
「西川さん、実はここにいるマレーも研修終わったら微生物学教室の先生になるんだよ。別の班だけど病理医志望のヤミ子とか薬理学の先生になるヤッ君とか色々いるんだ」
「へえー、噂に聞く研究医コースってやつかな? マレー君って背高いし真面目そうだしすっごく好感度高そう。彼女とかいるの?」
「あの……実は俺既婚者なんです。妻は畿内歯科大で歯学部の6年生やってます」
「マジで!? ねえねえサクラちゃんマレー君の奥さんってどんな人なの!? やっぱり美人?」
「ノーコメントで」
剖良君は学生時代色々あったせいで未だに美波に対して苦手意識があり、回答を拒否した剖良君を見て桜木君が簡単な特徴を西川さんに説明してくれた。
「いいなあ~、私も5年生の時彼氏に振られてそれっきりだからいい加減相手探したいかも。でもこの班は奥さんとか彼女いる男子ばっかりだし。私もできることなら峰原先生みたいなイケメン指導医とお付き合いしたいなあ~」
「峰原先生って男の俺らから見てもイケメンすぎてすごいよな。バスキンのおばさんの中には峰原先生を廊下で見かけたら大喜びする人もいるらしいぞ」
「確かに、峰原先生の手術の時は看護師さんたちもご機嫌みたい。私もその方が助かるけど」
182cmの高身長と真っ白な肌にスマートな体型、後方で一本に括っている茶色の長髪が特徴的な男性である峰原先生は麻酔科に限らずこの大学の医師全体で見ても相当なイケメンと評判で、
「男の先生はもちろんだけど男性陣から見て麻酔科の女性の先生ってどうなの? 2人とも奥さんとか彼女いるけど麻酔科で魅力を感じる女医さんとかいない? もちろん誰にも言わないからね~」
「という訳で既婚者の物部からどうぞ」
「俺に振るのか!? そうだなあ、年齢はかなり離れてるけど
「私も女だけど外山先生は綺麗だと思う。外山先生を落とした男の人ってどんな人なのかな」
「ああー、お前らこれは誰にも言わないで欲しいんだが……」
麻酔科の講師にして科長である外山先生のことを俺と剖良君が褒めていると、桜木君は外山先生について知っていることを語り始めた。
「外山先生は今は本当に素敵な女医さんだけど、この大学の学生やってた頃は何というか恋多き女性だったらしくてな。本人的には二股とかいうつもりはなかったらしいんだが同時に複数の同級生男子と交際して、そのせいで同級生男子たちが殴り合いの修羅場になったこともあったらしい。結婚されてからは落ち着いて浮気したりは全然なかったらしいけどな」
「そ、そうなのか。人に歴史ありだな……」
外山先生に限らず大学病院で働いている先生方には昔やんちゃだったが今は落ち着いていたり今は激しい性格だが学生時代は地味だったりと生き様が個性的な人がおり、こういう世間話の機会にそういった人々の話を聞けるのは興味深いと思った。
昔は精神的に不安定だったが今は落ち着いている美波のことを思い出し、ともかく俺は学生時代から変わらないキャラクターを貫きたいと思った。
気分は基礎医学 輪島ライ @Blacken
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