にがくてあまい

彩川いちか

にがくてあまい

 満月みつきの自宅は広い。タワーマンションの高層階に位置する一室。リビングには大きなシャンデリアが下がりラグジュアリーな雰囲気を醸し出している。リビングの向こう側にある寝室も手前にあるキッチンも、そして脱衣所や浴室も。まるでモデルルームのような華麗さを誇っている。そしてこの家が賃貸でも何でもなく正真正銘満月名義の所有物モノだというのだから驚きだ。

「あ~。もう上がってたの」

 脱衣所に設置された洗面台の磨き抜かれた大きな鏡の前でドライヤー後の豊かな茶髪をひとつに纏めようとしている全裸の満月の姿を認めて小さく肩を落とした。一緒に入ろうと思っていたのに。

「え、だって琉太りゅうたタバコ行ってたから」

 満月はヘアゴムを口の先に咥えながらもごもごと声を発した。こちらを流し目気味で見つめている彼女のひどく艶っぽい表情。豊満な肉体にピンと張りつめたきめ細かい肌。世界中の男をも虜にするような突き抜けた美貌を持つ彼女はこれでも22歳。

 豪華絢爛とも云える自宅を所持する若い女。一見金持ちに囲われている愛人に見えるが真実は違う。

「今日の現場、どーだったの」

 首元のネクタイを緩ませながら何気ない雰囲気を装って満月へ問いかける。満月がこうして風呂上りに髪を纏めるということはOKサインと同意義イコールだから。決して少なくない付き合いの中で互いに暗黙の了解として成り立っているこのサインに昂らないわけがない。

「ん? 今日は夏ドラマの撮影現場。いっつも思うんだけど、春のうちから夏のカッコして仕事演技しなきゃいけない俳優さんたちって大変だわ~。私には無理だもん」

 満月は目の前の鏡を見つめて口に咥えたヘアゴムを右手に移し髪を無造作に纏め上げながら淡々と返答している。

「モデルさんとかもそうだけど、あの人たち季節がひとつ早いじゃない。今日は現場に着いてから『抜け感がありつつ夏っぽく爽やかなヘアスタイルで』なんて注文付けられて、ほんっとに疲れた」

 彼女が髪をヘアゴムで留め終え、華奢な腕をおろそうとする。彼女の背後に歩み寄っていた俺はそのタイミングを見計らいぱしりと彼女の両手首を掴んだ。

 鏡越しに互いの視線が絡み合う。鏡面に移るのは、解いたネクタイを手に持ったまま満月の手首を拘束する俺と、俺の行動の意味を図りかね目を瞬かせて――腕を持ち上げたまま、まろやかな頂を反射させている満月の姿。彼女の表情を視認し、ふっと口元をつり上げて自らの腰を満月の何も身に纏っていない腰の辺りに押し付ける。見なくてもわかる灼熱をはっきりと確認した満月は、呆れたように眉を顰めた。

「呆れた。待ちきれないの?」

「じゃぁ満月は待てるワケ?」

 俺の問いかけに反論出来る材料など彼女は持ち合わせていないだろう。だって、満月が欲しいものがコレだから。

「……で、これは何?」

 むっとしたような顔をした満月はやはり反論せずそれを誤魔化すようにわざとらしく怒ったような声色に切り替えた。そのままくいっと顎を動かし俺の手の内にあるネクタイを指していく。

「え? 満月、こういうの好きかなって」

 満月の咎めるような声色にも悪びれない俺を演じながら余裕ぶったようにニコリと笑みを浮かべた。

 偶然の出会いから身体を重ねるようになっても、満月はいつだって俺の望む言葉を口にすること無くするりと俺の腕の中から逃げていく。満月を逃がしたくない、という本音は――心の奥に押し込むしかないのだ。

◇ ◇ ◇

 出会いは車のクラクションの音さえも掻き消すような雨音が響く春の夜だった。仕事帰りに唐突な春雷に見舞われ、頭からつま先までずぶ濡れになっていた俺が雨宿りで走り込んだピンクネオン街のビル先。そこには俺と同じような全身濡れ鼠姿の満月の姿があった。視線が絡み合い、雹を伴った雷雨に似つかわしい冷たい空気が肌にぶわりと吹き付けた瞬間。

「ねぇ。私と寝ない?」

 肌に当たる冷えた風とは対照的に――熱っぽく、それでいて柔らかく微笑んだ彼女。

 濡れそぼって束になった髪は今春流行りのアッシュブラウンに染められていた。鮮やかな口紅ティントが引かれたようなくっきりとした口元。雨に濡れても滲んですらいない、強めのアイライナーが意志の強そうな瞳を彩っている。

 妖しげなネオン街の光に包まれた空間の中、それらを上回る圧倒的な艶を放つ雰囲気の彼女は俺よりも幾ばくか年上のように感じられた。

「……オネェサン。意味、わかってる?」

 こんな状況で動揺を見せるのは、なぜだか男が廃る気がした。けれど、俺自身、彼女の口から発せられた言葉の意味を理解してもどう受け取っていいのかわからなかった。

 それでも。濡れた髪を掻きあげながら、呆れたような声色で。彼女の問いに問いを重ねるように、その言葉を絞り出した。

 柔らかな笑みを浮かべた彼女は目を細めて愉しげにコロコロと笑みを浮かべる。

「ココの前だもの」

 彼女の細い指先が示すのはこのビルの出入り口。長さも形も綺麗に整えられた赤いジェルネイルが目立つその先に、ピカピカと色を変えて点滅する妖しいネオン。彼女の濡れた横顔に映り込む複数の光。

 見ての通り、をする場所の前だから。自らが発した「寝ないか」という言葉の意味は隅々まで理解している、と。彼女の含んだような笑みにはそういった意図があるのだということは、先ほどとは違い瞬時に理解が及んだ。

 これまでこうして女と遊んでこなかったわけではなく、躊躇う理由もない。

 唐突に訪れた、甘く熱い夜の誘い。俺たちの周囲を覆っている空気は、春の宵闇にふさわしい冷たさを孕んでいるのに。

 俺と彼女の間だけは、まるで。ゆらゆらと揺れ動く、蜃気楼のような、そんな熱気が立ち込めていた。

◇ ◇ ◇

 それは、名前も知らない彼女と一夜を共にして――数日後のことだった。

 本当に久方振りに聴く、チリチリと鳴る軽いベルの音。ブラウンの扉を開くと白い壁紙が天窓から差し込む緩やかな春の夕陽に照らされ、一面がオレンジ色に染まっている。

、マスター」

 店内に足を踏み入れて、こてんと首を傾げながら店内に視線を向ける。すると、驚いたように見開かれた琥珀色の瞳と視線が絡み合った。白髪交じりの髪に深い緑色をしたベレー帽を被ったマスターが俺の顔を見て目を丸くした。

「おう。久しぶりだな、リュウ」

「まぁね……」

 はぁ、と。小さくため息をこぼしながら勝手知ったるという風にカウンターへ足を向け……店内の奥に人影があるのを視認し、思いっきり息を飲んだ。

「……あ。あの時の」

 満月の嬉しそうな声とともに、カラン、と。カウンターに陣取った彼女の目の前に置かれている、汗をかいたアイスコーヒーのグラスが軽快に音を立てた。

「なんだ、お前ら。知り合いだったのか?」

 マスターが俺たちふたりを交互に見遣り、ふたたび驚いたような表情を浮かべた。が、次の瞬間には揶揄うように瞳を細めていた。

「まぁ、メイクアップアーティストのお前とヘアメイクアーティストのこいつが顔見知りなのも当然っちゃぁ当然か」

 マスターの問いに俺は自分を失くしたまま、呆然と彼女の横顔を眺めるしか出来なかった。俺の視線の先の彼女は、あっけからんと。マスターに驚くべき言葉で返答していく。

「ううん。仕事場じゃなくて。一昨々日さきおとといだったかな、偶然この人とのよ」

「ちょっ……!」

 恥じらいも媚態も何も感じられない、あけすけなその言葉。俺と彼女の接点を正直に暴露されてしまう展開に、己の口から慌てたような声色が溢れ落ちてじわりと冷や汗が腋に滲んだ。慌ててカウンターに駆け寄ると、満月は芝居がかったように眉を跳ね上げさせていく。

「ちょっと。冗談だったのにそんなに慌てたらマスターに本当だって勘違いされるでしょう? 藤崎ふじさきさん」

 くすくす、と。目の前の彼女は明らかに俺を揶揄うような表情を浮かべ、口元に手を当てていく。指先は夜を共にした日から変わらない赤いネイル。彼女の口から紡がれた、紛れもない俺の苗字。あの夜、彼女に自己紹介した覚えは全く無いはず。――だというのに。

 カウンター内のマスターが眉を顰めて彼女をきつく窘めていく。

「あのなぁ、満月。歳上の大人ふたりを揶揄うもんじゃねぇ」

「えぇ~。ハタチ超えたから私も十分大人だと思うのだけど」

 マスターの声に満月はことも無さげに身体を揺らす。程よくルーズな雰囲気に纏められたアッシュブラウンの髪が、彼女の身体の動きに合わせてふわりとしなやかに動いた。

 俺は、マスターの言葉で彼女が『満月』という名前であることを知った。あの夜に妖しげなネオンの光を浴びていた彼女は俺よりも歳上だと感じたけれど、実際は俺よりも歳下だということも。

 そして、マスターから小出しに与えられた情報で、目の前の彼女が――メディア取材を絶対に受けない、成人したての稀代の天才ヘアメイクアーティスト『MITSUKI』その人である、ということも、理解してしまった。

 戯けたような満月の様子をカウンターの内側から眺めていたマスターが憮然たる面持ちで真っ直ぐに言葉を放っていく。

「ハタチなんざまだ子どもだろうが。満月、お前仕事場でもそんな感じなんだろう。いつか信頼失くすぞ」

「ひっど~い。私、仕事場ではきちんと弁えてるわよ? 今はプライベートなのにそんなこと言わなくていいじゃない」

 彼女はぷうと頬を膨れさせ、不満げにカウンターに肘をついた。椅子に腰掛けたまま足をふらふらと前後に動かす様子はまさに子どもが拗ねているようで、大人びた見た目にそぐわない仕草に呆気に取られた。

「全くマスターったら失礼しちゃうわ。ね、そう思わない? 藤崎さん」

 満月はやんちゃな子どものように、それでいて意味ありげな笑みを浮かべてこちらに顔を向けた。強そうな意志を表すようなアイラインに囲まれた瞳がゆっくりと細まっていく。

 無所属でありながら類い稀なる才能を武器に一気に業界のスターダムを駆け上がった、有名人である彼女の名前こそ知っていた。が、仕事場が一緒になったことは一度もない。メディア取材を絶対に受けない彼女の顔も、俺は知る由もなかった。

 けれども――彼女の方は、俺のことを知っている。業界紙や雑誌の取材を受ける時にも一切出さないはずの、俺の本名である苗字までをも把握している。

 ……どうやら俺は完全に彼女に掌握されているらしい、と、今更気が付いた。あの日の俺も今日の俺も、きっと彼女の手のひらの上を転がされているだけ。心の中で両手を上げた。

◇ ◇ ◇

 満月の返答を待たず持ったままのネクタイで捕まえた彼女の腕を軽く縛り上げると満月の唇から熱っぽいため息が小さく漏れ出ていく。その動作に思わず揶揄うように声を上げた。

「ほら、好きじゃん」

 きゅっとネクタイの端を緩い固結びにし、空いた手で豊かな膨らみの頂きを鏡の中の満月に見せつけるように嬲っていくと、満月は俺の腕の中で甘く吐息を吐き出しながら身体を捩らせた。

「……ね。も、ちょうだい?」

 彼女から熱っぽい声が零れていく。ふっと視線を上げて鏡の中の満月に視線を向けると、俺を見つめる瞳は待ち焦がれた快楽にどろりと溶けていた。

「ダ~メ。俺、シャワーまだだもん。残念、俺のことちょっと待ってたらお風呂でヤれたのにね」

 窮屈なスラックスもジャケットも何もかもを脱ぎ捨ててそのまま欲望の塊を彼女の中にぶち込んでしまいたい衝動を、彼女を翻弄する余裕ぶった笑みを浮かべることで強引に押さえつける。

「あんっ……」

 拗ねたような声色。俺に甘えるような満月の声が俺の脳髄を溶かす。たった一言だというのに、強烈な感覚にぞくりと震える背筋。

「……や~らし。やっぱ好きでしょ、縛られるこーゆーの」

 煽られたお返しと言わんばかりに耳元で低く囁きながらふたたび腰を押し付けた。彼女は恍惚とした表情を浮かべて鏡の中の俺を見つめていた。

「……好き」

 満月の潤んだ唇から紡がれる言葉は呪いのよう。彼女が今しがた口にした『好き』は『セックス行為』に関する言葉だ。

 俺は満月の心が欲しいのに。満月が求めるのは、あくまでも――快楽、のみ。

 強烈な淋しさのやり場を探すように、そろり、と。鏡の中の彼女の、大粒のダイヤモンドピアスが煌めく耳元に、始まりのキスを落とした。

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