シュナとアミナ

倉名まさ

シュナとアミナ

 ふもとの村から南へ歩いて小一時間ばかり。田畑の広がる畦道を抜け、山間のみちを登り、最後に二十段の石段を踏破したその先に、一軒の家がある。

 屋敷と呼んで差し支えない規模で、寺のようにも見える造りだが、個人の邸宅だ。


 正面玄関の門構えには、堂々たる達筆で「アミナのアトリエ」と大書された表札が掲げられている。


 屋敷の規模に見合う広い庭で、掃き掃除にいそしむ一人の青年がいた。

 藍色の作務衣姿でほうきを両手で抱えている。背は高いがハンサムということもなく、寝ぐせのひどいぼさぼさ頭とあいまって、どこか薄ぼんやりとした印象の若者だった。


 手にしたほうきで落ち葉を集め、庭から正面玄関までの間を掃き清める。

 周囲を山々に囲まれた屋敷には、紅葉の季節を過ぎると際限なく枯れ葉が降り積もる。

 いくら掃き集めても無駄のように見えるが、青年は倦むことなく、さりとてさほど熱心さを見せるでもなく、黙然とほうきを動かし続けていた。


 秋も深まると急速に冷え込む地域だが、この日は秋晴れの抜けるような青空が広がり、日差しの心地良い一日だった。

 時折掃く手を休め周囲の景色をぼんやり眺め、あくびまじりに掃き掃除を再開する。

 そんなことを繰り返すうちに、日が山の向こうへと傾いていく。


「暗くなるのが早くなってきたなぁ」


 また手を休め、西の空を見上げてぼんやりつぶやく。

 真昼と夕方の中間くらいの頃、屋敷を訪れる者があった。

 軽快な足音を響かせ石段を登り、青年の姿を庭に見つけ、気軽に声をかける。


「やあ、シュナの旦那。ちょうどいいとこに」

「これはビガナさん。いつも精がでますね」


 名を呼ばれ、青年―――シュナはのんびりと応えた。

 対する訪問者、ビガナは配達業を生業とする中年の男だ。短く刈り上げた髪とくちひげがトレードマークで、小柄だががっしりとした筋肉質の体型をしていた。

 ビガナは軽い足取りでシュナに近づき、背に負ったかごから両手サイズの箱を取り出した。


「お届け物だ。珍しいな、あんた宛だよ」

「おお、とうとう入荷したんですね。待ってました!」


 シュナの顔がぱっと輝いた。

 箱を受け取ると、重さを確かめるように手に掲げ、満足そうに何度もうなずく。


「今、開けてもいいですか?」

「そいつは別に構わんが……」


 誕生日プレゼントを受け取った女の子のようなことを言うシュナに、少し呆れながらビガナが答えた。

 シュナはろくに返事も聞かずにべりべりと箱の蓋を開封した

 箱の中身を覗き込んだ二人は、同時に深々とため息をついた。


「素晴らしい! 注文通りの……いや、それ以上の逸品です」

「うーむ。俺にはこういうもんの価値は分からんが、なんというか……立派なもんだなあ」

「はい。素敵な品物をありがとうございます、ビガナさん」

「と言われても、俺はとどけもんの仕事をしただけなんだが……」


 全力で頭を下げるシュナに、やっぱり少し呆れてビガナは答える。


「そうか! 出品していただいた方にお礼の手紙を出さないと」

「今書くんなら待ってようか?」

「いえ。それでは悪いです。今度、郵便屋さんに持っていきますね」

「そうかい。それじゃあ、また今度だな」


 ビガナがきびすを返し、庭を出ようとした、その時だった。


「うがあああ! ダメだダメだ、ぜっんぜんダメだ!!」


 屋敷の中からすさまじい大音声で叫ぶ声が聞こえてきた。

 声は女の人のものだが、獣の吠え声のような響きがあった。

 シュナとビガナは思わず顔を見合わせた。


「……先生、スランプかい?」


 ビガナが苦笑気味にこそりとたずねた。

 同じような苦笑を浮かべ、シュナは返す。


「いえいえ、いつも通りですよ。ああやってわあわあ言いながら、なんだかんだで描き上げるんです」

「ほう。それならまあ、いいのかね」


 ひょいと肩をすくめ、今度こそビガナは庭を立ち去った。

 それを見送ってから、シュナはいかにも嬉しそうに箱を手に持って眺め、それを置きに屋敷に一旦戻った。

 再び庭掃除を開始した時も上機嫌なままで、軽く鼻歌まで歌っていた。


「いやあ、嬉しいな~。……けど、あの大きさだと失敗できるのは二度までかなぁ。がんばらないと」


 独り言をもらしながら、いつまでも終わりの見えない掃き掃除を続けていた。

 郵便屋のビガナが立ち去って、ほんの少し経ってから。

 入れ替わるように、他にも屋敷を訪れる者があった。

 今度は、石段を上る相手の姿にシュナの方が先に気づいて、声をかけた。


「おや、レンカさん。いらっしゃい」

「こんにちは、ビガナくん。今日はいい天気ね~」


 山道と石段にふうふう息をつきながらも、訪問者―――レンカは朗らかに笑いかけた。

 レンカはふもとの村の農家の主だ.。七十歳を超す女性だが、いまも広い畑を夫婦仲良く手ずから耕しているため、そこいらの若者よりも足腰はしっかりしている。いつでも笑顔を絶やさずエネルギッシュで、時には少女めいて感じられることすらあった。


「あら、お庭掃除してるの? ちょうどよかったわ」

「ちょうどよかった?」

「ほら、うちの畑でたくさん採れたの、これ」


 レンカは郵便屋と同じような大きなかごを背負っていた。

 かごを庭に下ろすと、中にはたくさんのサツマイモがぎっしり敷き詰められていた。


「おお~、おいしそうですね!」

「でしょでしょ。落ち葉、まだ捨ててないわよね?」

「ええ、まだです。さっそく焚火にして、焼き芋を作りましょう」

「いいわね、最高!」


 レンカは親指を立て、笑顔で同意を示した。

 シュナはほうきをしまい、屋敷の中へ呼びかけた。


「アミナせんせ~い。ちょっと休憩して、庭で焼き芋食べませんかー!?」


 しばらく返事はなかった。

 シュナがもう一度呼びかけようか迷っていると、建物の中からどかどかと乱暴な足音が聞こえてきた。

 ぴしゃりと鋭い音を立て、縁側のふすまが勢いよく開く。


「焼き芋だ~?」


 ふすまを開けた人物は、不機嫌極まりない声音でうなるように問い、ギロリとシュナを睨みつける。

 先生、と呼ばれていたが、シュナとさほど歳の変わらない若い女性だった。


 化粧っけは全くなく、シュナに負けず劣らずぼさぼさの長髪だった。

 そして、目つきが強烈に悪い。寝不足なのか目の下に大きなクマがあり、充血して真っ赤な眼をしていた。

 アミナ、と呼ばれたその女性は、ドスの効いた声でシュナに迫る。


「人が心血注いで創作活動に打ち込んでる時に、気の抜けたこと抜かしてんじゃねえぞ」

「あら、お邪魔だったかしら?」


 アミナの言葉に、横からレンカがやんわりと答えた。

 アミナは初めてレンカの存在に気づき「えっ」と声を上げた。

 無言でシュナに歩み寄り、その頭を思いっきりはたく。


「バカ野郎! レンカさんが来てるなら先に言え!」

「いってててて……」


 頭を抱えて悶絶するシュナを放って、アミナは庭に降り、レンカに向かって歩く。

 打って変わってにこやかに笑い、親しげに話しかけた。


「よく来てくれたな、レンカさん。いつもながら、山道は大変だろう」

「いいえ、いい運動になるわ。年取ると、歩くのをサボってたらどんどん足腰が弱っちゃうもの」

「そうかそうか。なんにせよ、ありがたい。ちょうど少しばかり煮詰まっていてな。気分転換したいと思っていたとこなんだ」


 と、サツマイモの詰まったかごが目にとまり、アミナは感嘆の声をあげた。


「おお、これは見事なできだ。よく育ったなあ」

「ええ。今年は豊作すぎて、少し困ってたくらいなの。たくさん食べてちょうだい」

「さっそく焼き芋にしよう。シュナ、レンカさんにお茶の用意。あとせっかくこんなにたくさん上等の芋をいただいたんだ。なにか旨いおやつでも作ってくれ」


 シュナがのんびりとうなずき、屋敷に戻ろうとしたがそれをレンカが手で制した。


「あら。それだったら私がやるわ。二人は焼き芋をよろしくね」


 軽い足取りで、ひょいと屋敷に上がり込んでしまう。


「いや、レンカさん。お客さんにそんなことさせるわけにはいきませんよ」

「いいからいいから」


 と、レンカに笑顔で押し切られ、結局シュナはおとなしく焚火の準備に取り掛かった。

 勝手知ったる様子で屋敷の中に入っていくレンカ。


「まあ、僕たちが用意するより、レンカさんが料理してくれるほうが十倍おいしいですからね」

「お前の味付けはおおざっぱ過ぎるんだ。そういう適当さが作品にも影響してるんじゃないか? 芸術家たるもの、料理も修行の一環と思え」

「それ、特大のブーメランですよ、先生」


 そんな益体もない会話を交わしながら、シュナはたき木を集め、落ち葉を敷き詰め、火を入れ始めた。アミナはその様子を、腕を組んで見下ろしていた。


 カラメルをたっぷりまぶし、表面を軽く焦がしたさつまいもの甘煮。

 ケーキのようにふわりと焼きあがったスイートポテト。

 秋の野菜と和えたさつまいものサラダ。

 そして、焚火の中で焼いた、ほくほくの焼き芋。

 ほんの短い間で、屋敷の縁側に所せましと華やかな芋料理が並んだ。


「旨いなあ」

「おいしいですねえ」


 様々な芋料理を口にして、心底幸せそうな顔でつぶやくアミナとシュナの二人。


「うんうん、今年もいいできだわ」


 レンカも満足げに笑っている。

 しばらく言葉を交わすことすらせず、黙々と焼き芋をほうばる二人。

 温かいお茶をすすって、ようやく一心地ついたころ、レンカが口を開いた。


「作品の調子はどう、アミナ?」

「ん~、どうにもこうにもだな。こう、何か掴めそうだと思うと、するりと手のひらから逃げてく感じだ」

「そう。画商さん、心配してたわよ。もう自分が生きているうちに、あなたの新作を扱えないんじゃないかって」

「放っとけ。あいつは言うことがいちいちおおげさなんだ」

「新しいのができたら、シュナくんの次に私に見せてちょうだいね。私があなたのファン第一号なんですもの」

「当然だ。レンカさんが絵を買ってくれなかったら、いまのあたしはないも同然なのだからな」


 そんな二人のやり取りが聞こえているのかいないのか、シュナはひとりまだ食べきれずにいた焼き芋をほおばり続けていた。


「それにしても旨いな。毎日芋でもいいくらいだ」

「あら、それじゃ栄養が偏りすぎよ。シュナくん、ちゃんとアミナに野菜も食べさせなきゃだめよ」

「任せてください。先生の健康管理も弟子の務めですから」


 焼き芋で口をもごもごさせながら、胸を叩いて請け負うシュナ。

 そんな弟子を、アミナがぎろりと睨みつけた。


「偉そうなこと言うのは、あたしを満足させる作品の一つも作ってからにしろ」

「ふふっ、どうかしら。最近のシュナ君の上達ぶりは?」

「まるでなってないな。大体こいつは、創作に対する気概ってもんが足りないんだ。あれこれ気を散らして集中しきらん」


 アミナの言葉に、少し間があってから、当のシュナが返答した。


「なるほど。先生のおっしゃる通りかもしれませんね」

「あ?」


 思わぬ弟子の反応に、アミナは怪訝そうに眉をひそめた。

 いつものシュナであれば、「いやいやまあまあ」などとへらへら笑って受け流すような場面だ。

 シュナは、彼にしては真剣な面持ちでまっすぐアミナを見つけ、告げた。


「たしかに僕は、今まで一つの作品に全身全霊を込めきれずにいたように思います」

「お、おう」

「どうでしょう。僕もここいらで一つ、先生に『これは』と唸っていただけるよう、創作に全神経を集中させて挑んでみたいと思います。もちろん、家事等はきっちりやります。ですが、創作中は集中したいので、部屋をのぞかないでいただけますか」

「お前は鶴の恩返しか」


 などと返したが、創作中邪魔するな、とはアミナ自身が常日頃から要求していることだ。否とは言えなかった。


「ばかに気合いが入ってるじゃねえか。まさかあたしの作品に挑戦しようってんじゃないだろうな」

「そう受け取っていただいてかまいません」

「ほう……」


 なんでもないように答えたシュナの言葉に、アミナの瞳の奥にちろりと炎が燃えた。目の錯覚か、ぼさぼさ頭が一瞬逆立ったようにすら見える。

 芸術家というよりも、戦場の戦士か、さもなくば獲物を前にした猟犬のような獰猛な笑みを浮かべる。


「おもしれえ。そこまで吠えたんだ。半端なもん作ってがっかりさせんじゃねえぞ」

「ご心配なく。先生はご自身の創作にどうぞ集中なさってください」


 殺気にも似たアミナの剣幕にも気圧されることなく、シュナは茫洋と応じた。

 二人のやり取りを見ていたレンカが「あらあら」と楽しそうに声をあげた。


「そしたら、シュナくんの作品もぜひ見せてもらいたいわね」

「はい。先生の新作と同時にお見せできると思います」


 シュナが笑顔でそう請け負う。

 弟子からの思わぬ挑戦を受け、頭に血を昇らせていたアミナは、その言葉の意味を深く考えることはなかった。


 🍁🍁🍁


 それからまたたく間に三か月が過ぎた。

 ひとたび創作に打ち込みはじめると、アミナの頭の中から弟子からの挑戦などきれいさっぱり消え去っていた。

 ただひたすらに己と向き合い、模索し、挑む。その繰り返しの月日だった。

 一方のシュナも、宣言通り部屋に引きこもる時間が多くなった。

  木々の葉は全て落ち、代わりに雪がちらつく日が多くなった。

 周囲の山々もすっかり冬のよそおいとなり、生き物たちもひっそりとなる頃。

 冬の静寂を打ち破り、空気を震わせるほどの喝采があがった。


「完成だー!」


 アミナのものだった。

 それを聞いたシュナも、すかさず部屋に駆け込んだ。


「シュナよ、完成したぞ!」

「おめでとうございます」


 二人の目の前には、床一面を使うほど大きな絵があった。

 水墨画である。


 絵の中央には、断崖を堕ちる大滝が描かれている。

 幅ひろく、天から降り注ぐような滝の姿は、絵からでも巨大なものであることが伝わる。

 しかし、水の筆致はあくまで淡くやわらかで、圧巻の高さを誇りながらも威圧感はない。

 まるで時が凍りつき、水の流れが空中で静止しているようにすら見えた。

 滝のふもとには、様々な獣たちが描かれている。

 虎、兎、鹿、猪、鼠。彼らは戯れているようにも、争っているようにも見えた。

 そして、河のほとりに一人の女性。

 天女であろうか。滝との比率で考えれば、常人ではありえない大きさで描かれているが、その姿は繊細にしておぼろげで、巨大であるという印象を与えない。

 髪がとてつもなく長く、絵画の中で滝の流れと同化していた。

 その表情はくつろいでいるようでもあり、何かを憂いているようでもあり、泰然自若と瞑想しているようでもあった。


 どこかにありそうでどこにもない、新鮮に見えて、懐かしさもこみあげてくる。

 互いに相反する印象を同時に抱かせて違和感がない。幻想的な水墨画だった。

 見る人によって、あるいはその時の心持ちによってすら見え方が変わるような一枚だ。


 シュナは何も言うことができず、完成したばかりのその絵にただ見入るばかりであった。

 アミナはその横で、誇らしげに腕を組んでいた。

 その頬は疲労困憊でげっそり瘦せこけていたが、目だけは達成感にぎらつくほど輝いていた。


「これが最高傑作とは思ってないがな。ひとつ、こう、どこか突き抜けたんじゃないかとは思う」

「ええ。まったく。……まったく、その通りだと思います」


 こみあげてくるものをこらえ、シュナはなんとかそれだけを答えた。

 弟子として、師の作品を一番に拝見できる喜びを、深々と噛みしめる。


 感動に我を忘れ、危うくこの部屋に来たもう一つの目的を忘れるところだった。

 アミナの頬をちらちらと横眼に伺い、あくまで絵画の方を向きながら、さりげなさを装いぽつりと言う。


「しかし……。しかしですね先生。この作品を完成させるには、まだ何か足りないと思いませんか?」

「なにっ!?」


 とたん、アミナの形相が一変した。

 獲物に飛び掛かる寸前の猛獣の顔だ。

 思わずシュナは、数歩後ずさった。


「ほう、面白いことを言うな。あたしは寛大だからな。一応、続きを聞いてやろう」


 震える声で、一語一語を絞り出すように低く言う。

 返答次第では即座に八つ裂きにされかねない、と思わせる声音であった。


「そ、それはですね。……これです!」


 シュナは、後ろでに持っていたものをアミナに向けて差し出した。

 乳白色で、細長い立方体をしている。掌に収まるサイズながら、ずっしりと重量感があった。


「なんだこれは。……印鑑?」


 受け取ったアミナは、不審げに眉をひそめた。


「はい。その通りです」

「はいって、お前。これ、稀海獣の牙の削りだしじゃねえか。ばか高い高級品だぞ」

「さすが、先生。よくご存知ですね。ちょうど取り扱いの広告を目にしまして……。貯金をはたいて、なんとか届きました」

「お前、絵も描かず、ずっとこれを彫ってたのか?」 


 思わぬものを受け取って、アミナは少しうろたえ気味だった。

 どんな表情をしていいか分からず、落ち着かなげに言葉を交わす。


「いやあ、まあ。先生、いつも作品に安物の印をぽんと押しちゃうじゃないですか。あれ、勿体ないな~とずっと思ってたんですよね。画竜点睛を欠くといいますか……。だから、これは僕からの贈り物です」

「呆れた奴だ。しかし、まあ、画家にとって判子づくりというのも悪くない経験かもしれんな。うん、悪くない。悪くないぞ、これは」


 呆れた、と言いながらもその顔は次第にほころんでいた。

 師の嬉しげな様子に、シュナもほっと胸をなでおろす。


「僕なりに全力を尽くして制作したつもりです」

「それくらい見れば分かる」


 芸術家らしく、アミナは彫刻面を角度や距離を変えながら仔細に観察し、やがて満足げにうなずく。


「ちょうどこれから印を入れるつもりで朱肉も用意していた。さっそく使わせてもらおう」

「えっ」


 アミナは手早く判子に朱を入れ、自身の作品に向けてかかげる。


「ちょ、ちょっと先生。別の紙で試し押ししないと……!」

「必要ない」


 慌てるシュナをよそに、いっそ無造作と言えるほどあっさりと、自身の新作に判子を押した。

 シュナは恐ろしさに目を覆いたい心地だった。


「うむ、見事だ」


 アミナの言葉に、おそるおそる印鑑の押し跡を見る。

 朱の印は、水墨画の雰囲気を壊すことなく、絵に調和して製作者の名を誇っていた。


「うん。なにかこう、あたしの絵がさらに一段引き締まった感があるな」

「……よかったです」


 心底ほっとしてシュナも応じた。

 判を見ていると、まるで自分も作品の一部を手掛けたかのようで、嬉しくなってくる。


「しかし、お前は判子職人を目指すわけではあるまい。明日からばりばり絵を描けよ」

「はい。ばりばり描きます」

「しかし、なんだ。そのう……ありがとう」

「えっ、なんですか?」


 ごく小声でつぶやかれた師の言葉が聞き取れず、シュナは聞き返した。

 しかし、アミナがもう一度同じ言葉を繰り返すことはなかった。


「よしっ。ともかくだ。きょうのとこは大いに飲むとしよう」

「はい。飲みましょう、先生」


 少しきょとんとしながらも、シュナも笑顔でうなずいた。

 けれど、二人はその場をなかなか動こうとしない。


 いつまでも、茫漠と流れる滝と、その横で誇らしげに浮かぶ作者の名に、見入っていた。


                            ―――了

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シュナとアミナ 倉名まさ @masa_kurana

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