第31話 月夜(4)

 姫がもとのように身をせ、乱れたふすまを整えてから、うめは続ける。

 「姫からそのことを大王おおきみさまにお知らせ申し上げてはなりません」

 いっそう小さく、そして強い声だ。

 「いまは、お母上は、死ぬがよいとはおっしゃっても、姫をお殺しになることはありますまい。でも、姫が、大王にそれをお知らせすれば、姫の命もあやうくなります」

 「いや、それでも」

 いったい、どういう罪で、姫を殺すというのだろう?

 「何とでも言えます」

 梅は声を落ち着けたまま、言う。

 「幼武わかたける大王のおおきみは、押磐おしわのみこをお殺しになるより前、眉輪まゆわのみことおっしゃるみこが先の大王おおきみあやめられたと言い立て、その眉輪王を殺そうとなさいました。そのころ、眉輪王は姫やわたしよりも小さな子どもですよ! それが先の大王をあやめたと。追われた眉輪王はそのころの大臣おおおみであられた葛城かつらぎのおみのもとに逃れられましたが、幼武大王は軍を起こしてそのやけを囲まれ、その御宅ごと火をかけて眉輪王と葛城大臣を焼き殺されました。そして」

と、ことばを切り、さらに声を小さくして、続ける。

 「幼武大王は葛城大臣の姫を奪われ、きさきとされました。それが白髪しらか大王のおおきみの母君です」

 「ああ」

 姫も大きな声を立てないよう、声をおさえる。

 「つまり、眉輪王は幼武大王の前の大王を殺してもいないし、葛城大臣のやけを焼いたのも、葛城の姫が欲しかったため、というの?」

 「そうは申していませんが」

と梅が言う。

 そして、ささやく。

 「そうでないとも言えません」

 梅がこの話をしたのは、幼武大王の娘である姫の母も、同じようなことをするかも知れない、と言いたいからだろう。

 しかも、姫が望んだわけではないが、姫は、白髪大王の名代なしろというものを継いでいる。

 幼武大王に父を焼き殺された葛城の姫の子が白髪大王で、その名を継いでいるのが、白香しらかひめの名を持つ、この姫なのだ。

 「お父上の大王おおきみさまも、封建ほうけんがすぐにこの国でも行えて、それがすぐに国の成り立ちを変える、とは思っておられますまい。しかし、物部もののべのむらじ大伴おおとものむらじは、それでは成り立たない、と言ってすますこともできますが、大王さまはそうはいきません」

 幼武わかたける大王のおおきみいくさの力で大和やまとの国の勢いをひろげ、それまでのように国を成り立たせることができなくなった。しかし、もうつるぎを作るくろがねは大王の下には残っていないという。

 つまり幼武大王のやり方を続けることもできない。

 「あやふみで、梅の言う「封建ほうけん」で国の成り立ちを変える」

 父大王おおきみとしては、そう言い続けるしかないのだ。

 「鷦鷯さざきさまはよい弟君だと思います」

 「うん」

 播磨はりまにいたころは、暴れ者で、女の子いじめが過ぎたところがあったけれど、それを忘れるとすれば、すなおで頭のよい子だった。

 そのまま将軍いくさのつかさになれば、大王のためによく働く将軍になっただろう。

 または。

 大和の国が幼武大王のような大王を求めていたとしたら、よい大王になったかも知れぬ。人としていかどうかはくとして、大王に求められるつとめをく果たす大王にはなっただろう。

 しかし。

 あやふみで人を治める、ということは、いまの鷦鷯には向いていない。

 大人になればあるいはできるようになるかも知れない。しかし、母に文人ふみひとによく習うようにいられ、怒りをどこに向けてよいかもわからず、筆をすずりに叩きつけたり、小刀で木のふだを断ち割ったりしているようでは……。

 できるようには、なりそうもない。

 梅が言う。

 「父君の大王おおきみさまはもとより、鷦鷯さまの世までは、世が乱れぬことをわたしは願っています」

 姫も答えた。

 「わたしも、わたしが生きているあいだは、世が乱れるなんてことはあってほしくない」

 そして、梅を向いて、笑って見せる。

 「もちろん、梅が生きているあいだにも、ね」

 「ありがとうございます」

 梅がくすぐったい言いかたで答える。

 父も、鷦鷯さざきも、姉姫も、梅や強弓よしみなどの御言みことちたちも。

 姫を憎んでいる母でさえ。

 おだやかな世で、穏やかに命を終えられるようであってほしい。

 しかし、そうはいかなかった。

 このとき、その世の乱れというものは、姫のすぐそばまでしのび寄っていたのだ。

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手白香姫の冒険 清瀬 六朗 @r_kiyose

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