十六話

 嬉しいことなんて言っちゃいけない。でもブリスを逃がしてから、もうすぐ一ヶ月が経とうとしてた。冬の寒さはさらに進んで、太陽が見えてる日でも吹く風は身体の芯を震えさせる冷たさになった。曇った日には雪がちらつくこともあるけど、まだ積もるほどじゃない。だけどそれももうすぐだろう。


 都で恋人の遺体を捜しながら、こんな話を聞いた。ガルト一味の頭、ブリス・ガルト、山中で遺体見つかる――国や警察隊が公式に発表した話じゃないから、本当かはわかんない。その話じゃ、ブリスは都の西にある山の中で、猟師に発見されたらしい。遺体は獣に食い荒らされ、その周りには無数の足跡が残ってて、どうやら狼に襲われて死んだって話だ。幸い顔だけは無傷で、それでブリスだとわかったんだという。それが本当なら皮肉だ。ウルフと呼ばれた盗賊は、同じ狼と呼ばれる獣に命を奪われた。そして今はその腹の中……ティルに言ったことが自分に降りかかったわけだ。一味もこれで完全に消えるかもしれない。あたし達にはもう何の興味もないけど。


 最後が迫ってると感じてから一ヶ月、あたしとティルは都の隅々まで回って恋人の遺体の行方を捜した。まだ一緒にいられることは嬉しいけど、こんなに長く捜すことになるとは思ってなかった。喜びたいけど喜べない……あたしは毎日複雑な心境だった。そんなことはもちろん知らないティルは、連日精力的に捜してた。でも成果は一つも得られてない。遺体の行方の手掛かりはどこにもなかった。月日が経ってることもあるだろう。時間が過ぎるほど、見つけるのは難しくなってく。


 そんな中で、ティルは頻繁に向かう場所がある。都の側にある湖だ。恋人にプロポーズした場所であり、恋人の命を奪われた場所……気持ちを鼓舞するためなのか、行方につながる証拠を見つけるためなのか、聞く勇気がないからわかんないけど、数日置きに訪れては景色をぼんやりと眺めてた。ティルは付き合わなくていいって言うけど、あたしは毎回付いてった。新鮮な空気を吸えるからって理由にはしてるけど、何だか独りにしておけない雰囲気を感じた。あたしの胸にはまだ、ティルが恋人の後を追うっていう不安が残ってる。捜す当てがなくなって、希望が小さくなってる中、そんな思考に傾かないとは言えない。妙な衝動に駆られないように、近くで見守ってたかった。


 そして今日もティルは、湖のほとりにやってきた。晴れた昼下がり、風もなくて穏やかだ。遠くで響く鳥の声と、緑と青の景色を、ティルはただ静かに眺め続けてる。あたしはその後ろ姿を、少し離れたとこから見てた。言葉や態度には出さないけど、ティルは確実に疲れてる。出会った初めからそんな印象はあったけど、今はもっと感じる。でも恋人を絶対に見つけるっていう執念だけは強いままだ。もう諦めてもいいんじゃない? ――背中にそんなことを話しかけたくなる。恋人から解放されて、自分の未来を進んだほうがいい。でないと足が過去に引きずられて、誰もティルを助けられなくなる――言ってあげたいことはたくさんあるけど、あたしはどれも言うことはできない。最後まで力になるって言ったから。ティルが諦めないなら、あたしも諦めない。そうするしか今はないんだ……。


「……都へ戻ろうか」


 小さな声と共に振り向いたティルにあたしは頷く。微笑んだ顔でも、ここに来たティルはいつもどこか寂しげだ。それは失った恋人を想う気持ちなんだろう。ティルの心には彼女しかいない。四六時中、何をしてても……愛し続けてるんだ。悔しいけどあたしは、亡くなった彼女には到底敵わない。ティルの態度を見れば、そう認めるしかない。


 湖のほとりから都への道へ戻ろうとした時、目の前を一台の荷馬車が通り過ぎた。と思ったら、その荷馬車はゆっくり止まった。そして手綱を握る老人がこっちに顔を向けた。


「あんた、いつもここで何をしてるんだ?」


 白いひげを生やした老人は、まるで知り合いに話しかけるように聞いてきた。これにティルとあたしは思わず顔を見合わせた。二人ともこの人とは初対面だ。


「何ということは……何でですか?」


「わしはこの道をよく通っててな。それであんたをよく見かけてた。ただの散歩でもなさそうだし、いつも気になってたんだよ。最近は二人のようだが、前は一人で来てたな」


「ええ。……そんな以前から見られていたとは」


「この辺りはあまり人が多くないから、ぽつんといるあんたは目に留まりやすかったんだ。……で、こんなところで一体何をしてるんだ?」


「今は、ただ景色を眺めに来ているだけで……以前は恋人を捜しに来ていたんですが」


「恋人? 行方不明にでもなったのか」


「すでに亡くなった恋人です。ここで殺されて……その遺体の行方を捜して――」


「遺体だと? それはもしかして、数ヶ月前のことか?」


「そうですが……何か心当たりでも?」


「あるも何も、わしはその遺体を知ってる」


 これにあたし達は降って湧いた情報に引き寄せられるように、老人の荷馬車に駆け寄った。


「知ってるとは、どういうことです?」


「誰かが遺体を運んでるのを見たの?」


「い、いや、そうじゃない。遺体はわしが埋めたんだよ」


「埋めた……?」


「前にここを通った時、倒れた女性を見かけてな。助けようと思ったんだが、胸から血を流して、すでに息絶えて時間が経った状態だった」


 ティルの話でも、恋人は胸を刺されて殺されたって……。


「放っておくのも悪いと思ってな。この荷馬車に載せて、埋めてやることにしたんだ」


 ティルは老人に詰め寄った。


「それは、どこですか?」


「ここからそんなに遠くない。……連れていってやろうか?」


 断る理由なんてない。あたし達は荷馬車に乗せてもらって、老人の案内でその遺体を埋めた場所へと向かった。それにしても、こんな偶然に出会えるなんて。遺体が恋人ローズなら、ティルはようやく目的を果たすことができる。そして側にいられる時間も終わる……。あたしは喜んであげなきゃいけない。やっと前に進めるんだから。でも急すぎて、まだ心の準備ができてない。その時は上手く笑えるといいんだけど……。


 荷馬車に揺られて五分ほど走ったところで老人は手綱を引いて止めた。周囲には木々が立ち並んで、冬の殺風景な自然だけがある。


「……ここに埋めたんですか?」


「ああ。こっちだ」


 降りた老人を追ってあたし達は付いてった。道の傍らから色あせた雑草を踏んで奥へ進むと、少し開けた場所があった。そこからは都の街並みの一端が望めたけど、それ以外は何もなく、何だかわびしい感じの場所だ。


「今は冬だからな。植物は枯れちまってるが、当時は春で、ここらは草花で溢れてたんだよ。死んだ女性も、ここなら気に入ってくれるだろうと思って埋めたんだ」


 ティルは辺りの様子を見ながらゆっくり進むと、ある地点で足を止めた。


「……この下、ですか?」


 視線で示したとこは、他の地面よりこんもりと高くなってて、生えてる草の量も少ない。明らかに人の手で盛られた土だ。


「掘り返して確認してみるか?」


「できれば……」


「じゃあスコップを取ってこよう。わしは畑を持っててな。荷馬車には常に道具を積んである。ちょっと待ってろ」


 引き返した老人は間もなくしてスコップを手に戻ってくると、それをティルに渡した。


「悪いが、わしはこの後約束があってな。手伝ってやることはできないが、使い終えたらそのままここに置いといてくれればいい。明日にでも取りに来る」


「ありがとうございます」


「礼なんかいい。あんたの捜してる人だったら、ちゃんと弔ってあげな」


 老人はティルの肩をぽんと叩くと、踵を返して去ってく。木々の向こうで手綱を振る音が聞こえると、荷馬車の走る気配が遠ざかってった。優しくて親切な人だったな。


 ざくっと音を立てて、ティルは早速高くなった地面にスコップを突き刺した。


「あたしも手伝うよ」


 近付こうとするとティルは止めた。


「大丈夫だ。土は柔らかいから一人で十分掘れるだろう。エドナはしばらく待っていてくれ」


「でも片腕じゃ――」


「平気だ。俺がやる」


 スコップが一本しかないからか、それとも自分の手で恋人を掘り起こしたいからか、ティルは助けを求めずに黙々と土を掘ってく。一見冷静ではあるけど、動かす手ははやる気持ちを表すかのように速い。左手だけだからすくえる土の量は少なめだけど、その分動きは素早く、盛られた土は見る見る低くなってく。あまりに集中した表情に、もう一度手伝おうかとは言いづらかった。ティルの必死な様をあたしは眺めるしかなかった。


 掘り始めて一時間以上は経っただろうか。寒い中でもティルの額や頬には汗が流れ始めてた。そりゃそうだ。一人で、しかも片手で掘るなんて相当な体力が要る。でもティルは疲れた様子はまったく見せない。ただひたすらに、土の下で眠る恋人との再会を願って手を動かし続ける。それを見てると、あたしの胸はなぜか苦しくなってくる。多分、この後のことを想像してんだ。避けられない別れを……。この期に及んで、あたしはまた悪いことを考えてる。人違いならいいのに――でもきっと、そうはならない。


「……あった」


 そう呟いたティルは掘った穴の中に下りると、そこからさらに掘り進める。あたしはそれを横からのぞき込んだ。確かに、土に埋もれた白い物が見えてる。ティルはそれを傷付けないよう丁寧にスコップを振る。徐々に白い物の正体が見え始めた。固唾を呑んで見守ること三十分……ようやくその全体があらわになった。


「……これが、捜してた恋人、なの?」


 穴の中には、白骨の遺体が横たわってた。皮も肉も消え落ちた顔は、ぽっかりと空いた二つの穴が宙を見てるだけで、女か男かも判別できない。でも身体にはかろうじてぼろぼろの布切れがまとわり付いてた。おそらく服だと思うけど、土の汚れと水分を吸って、元の色はほとんどわかんない。原形のない布切れからも男女の判別は難しそうだ。


「ティル、あたし達は遺体を見つけたの?」


「……わからない……」


 ティルにもこれが恋人なのか判断がつかないらしい。愛してる人でも、骨だけの姿じゃさすがにわかりようがない。ブリスは装飾品を盗ってったから、本人につながる証拠もない。これじゃ一体どうやって確かめれば……。


 黙って横たわる骨を見てたティルは、おもむろに骨に手を伸ばした。胸に重ねられた手の骨に触れて、まじまじと見つめ始める。


「どうかしたの?」


「おかしい……右手が、二本ある……」


「え?」


 あたしは手の骨を凝視した。遺体の両手は胸の前で重なってるみたいだけど、言う通り、その下にはさらにもう一本の手の骨があった。三本の腕を持つ人間なんてあり得ないわけで、何とも奇妙なことだ。


「……あ、ティル、その骨のとこ、何か光る物ない?」


 あたしは三本目の手を指差して言った。指の骨の間に小さな金属らしきものがある。すぐに見つけたティルはそれをつまみ上げて土を払った。


「……!」


 見た途端、ティルの表情が驚愕に変わった。もしかして、やっと証拠が――


「……間違いない。ローズだ」


 ティルは悲痛な表情を浮かべ、震える声で言った。でもそこに安堵や満足感は見えない。ついに見つけたっていうのに、どこか様子がおかしい。


「それ、何なの?」


「……ローズに贈った指輪と対になっている、俺の指輪だ」


「ティルの、指輪……?」


 何でそれを彼女が持って……だとしても、それだけブリスに盗られなかったっていうのも不思議な気がするけど――首をかしげるあたしを見て、ティルは静かに言った。


「俺はあの時、すでにこの指輪を付けていたんだ」


「だったら、何でここにティルの指輪が――」


 そう言って三本目の手の骨を見て、あたしははっと気付いた。


「……まさか、この骨って」


 ティルに視線を向けると、悲痛な顔は小さく頷いた。


「俺の、右腕だ」


 三本目の手は、ティルの失った右腕の骨――驚いたと同時に、なぜという疑問も湧いてくる。


「どういうことなの? だって、彼女は刺されて……」


「即死だった。さっきの老人も、この腕のことは何も言っていなかった。つまり、血まみれの胸に抱えられていたことに気付かなかったのかもしれない。……この意味がわかるか?」


「い、意味って?」


 ティルは横たわる骨に視線を落とした。


「ローズは、即死じゃなかった。俺の腕が切られたのも、おそらく見ていたんだろう。ブリスに刺され、俺は逃げ、そしてやつらが去った後、俺の右腕を抱えてしばらく生きていたんだ。助けに来てくれると思って、痛みと苦しみに耐えながら……」


 歪められたティルの表情に、あたしは何も言えなかった。彼女の最後を想うと言葉が見つからない。


「俺は、ローズを見殺しにしてしまったんだ。自分の命惜しさに……すまなかった。許してくれ」


 ティルはしゃがむと、マントの下から彼女に贈った指輪を取り出して、それを骨の指にそっとはめた。


「指輪は取り返した。ローズ……俺はずっと君の側にいる」


 ティルの顔にようやく穏やかさが戻った。恋人に再会し、辛い事実は知ったけど、それを詫びて、変わらない気持ちを伝えた。ティルの目的はこれで達成されたんだ。これで……。


 静寂があたし達を包んでた。横たわる恋人にティルは目を瞑って、心の中で言葉を送ってる。これであたしがするべきことは終わったんだ。別れの時が来た……でも、暗い顔は見せられない。お互いまた前へ進んでいかなきゃいけないんだから。悲しい別れじゃないんだ。できるだけ笑顔でいたい――祈りを捧げるティルをしばらく見守ってから、あたしは笑みを作って声をかけた。


「ティル、別れが済んだら教えて。今度はあたしがスコップで――」


「エドナ、最後に一つ頼みがある。聞いてくれないか?」


 ティルは立ち上がると微笑みながら言った。


「何? 何でも言って」


「俺を一緒に、ここに埋めてほしいんだ」


「……え?」


 すぐには意味がわかんなかったあたしは聞き返した。


「それって、いつかティルが人生を終えたらってこと? それまであたしが生きていられればいいけど――」


「人生はもう終えてる。今すぐ埋めてくれ」


「つ、つまんない冗談はやめてよ。ティルはまだ生きてるじゃ――」


「これは仮初めの命だ。俺はもう死んでいる身なんだよ」


 ……恋人への罪悪感で、どうかしちゃったの?


「ティルは死んでない。あたしともこうやって話してるし、立って歩けてるじゃないか。どこが死んでるっていうのさ。変な考え起こさないでよ」


「変でも何でもない。事実なんだ。……前に俺が言ったことを憶えているか? 魔法がかけられていると言ったことを」


「う、うん……」


 ブリスが現れるのを待ってた時に、そんな話をしてた。でも――


「あれはたとえ話でしょ? 自分の気持ちを魔法にたとえただけのことでしょ?」


 これにティルは緩く首を横に振る。


「違う。俺は実際に魔法をかけてもらったんだよ」


 真面目に言うもんだから、あたしは不安を消したい一心で笑って言った。


「魔法なんて、そんな便利なものがこの世にあるわけないよ。そんなものが使える人がいれば、ぜひ会ってみたいけどね」


「信じられないのはわかるが、俺は本当に、魔法使いに会ったんだ」


「一体、どこで……?」


「腕を切られ、逃げ出して必死に駆けて入り込んだ森の中だ。そこで助けられたことも話したと思うが、その時に助けてくれたのが魔法使いだったんだ」


 確かにそんなことを言ってたけど、やっぱり魔法使いなんて簡単には信じられない。


「絵本に出てくるような、長いひげで、しわしわのおじいちゃんだったわけ?」


「いや、見た目は若く、色白の青年だった。服装も普通で、魔法使いと想像させる要素は何もなかった。だが案内された家には見たことのないものばかりが置かれていて、少し世間離れした雰囲気もあった」


「そんな人、どこにだって、いくらでもいるよ。妙な暗示にでもかけられたんじゃないの?」


「本当なんだ。彼は魔法で俺を助けてくれた。それがなければ、俺はこうしてローズを見つけることはできていなかった」


 真っすぐな青い目がこっちを見据えてくる。


「……本当に、冗談じゃないの?」


 ティルは頷いた。


「右腕を切られた数日後に、俺は死んでいるはずだった。彼に介抱される中で、どうやら俺は切断の傷が元で感染症にかかったらしいと聞かされたんだ。身体は高熱を出し、麻痺を起こし、自分でも死の恐怖を感じていた。彼の見立ても長くは持たないというものだった。だが俺はローズを迎えに行きたかったんだ。置いてきてしまった罪悪感もあり、どうしても戻りたかった。すると彼は一本の糸を取り出し、それに呪文らしきものを唱えた。そしてそれを俺の首に付けた。途端に全身の辛さが軽くなったのを感じた。薬を飲んだわけでもないのに、まさしくそれは魔法としか思えない奇跡だったよ」


「糸を付けただけで、元気に? そんな、まさか」


「元気と言っても長続きはしないものだった。数時間経てば効果は消えてしまい、ローズの元へ戻るのは難しかった。さらに長く歩くにはもっと材料が必要だと言われ、俺はその材料集めに協力し、北の地まで付いていった」


「北の地……それって、あたしと会った……?」


「ああ。俺があそこにいたのは、材料を集めに行っていたからだ。そして多くの魔法の糸ができあがると、彼は去っていった。おかげで俺は数ヶ月は動ける身体になった」


 そう言うとティルはシャツの襟元の下から糸でできた首飾りを取り、あたしに見せてくれた。


「これが、俺にかけられた魔法だ」


 確かに色とりどりの糸のようで、数本ずつまとめられた糸がさらによられて、一本の縄みたいになってる。でもところどころから切れた糸が飛び出して、ずいぶんとぼろぼろな印象だ。


「切れている糸は俺が過ごした時間。つながっている糸は俺に残された時間……この本数だと、あと半月くらいだろうな。すべて切れる前に見つけられて本当によかったよ」


 残された時間は、半月だけ……?


「そ、それなら、もう一度その魔法使いに頼めば、ティルはもっと長く――」


「エドナと再会する前、森へ行って捜してみたこともあったが、彼はなぜか見つからなかったんだ。確かに家があった場所なのに、忽然と消えたように何の跡もなく、彼は消えていた。魔法が使えるならそんなことは簡単なのかもしれないが。けれど俺にはもう魔法の力は不要だ。ローズを見つけられたからね」


 ティルはマントの下からダガーを取り出すと、その切っ先を糸の首飾りの内側に添えた。


「それでエドナ、俺の頼みは聞いてくれるのか?」


「ティルを、埋めろっていうの? 生きてるティルを……」


「違う。俺はすでに死んでいるし、この糸が切られた姿が本来の俺なんだ」


「そっちこそ違うよ。ティルはあたしと旅して、都で恋人を弔って、新たな道に進み出すはずでしょ?」


「俺に進む道はもうないんだ。ローズの元で終わっている。それは俺が望んでいたことだ。この望み通りにさせてくれないか」


 あたしの脳裏には今までのティルのあらゆる言動がよみがえってきた。くたびれた雰囲気も、金に執着しない姿勢も、危うさを感じさせる言葉も、全部終わりが見えてたからなんだ。残された未来なんてなくて、ただ眠る恋人の側に行くためにティルは歩き続けてただけ……待ってる死を、素直に受け入れて。


 震えそうな声であたしは言った。


「ティルの死を看取るために、あたしは手伝ってたんじゃない。まだ時間が残ってるなら、最後まで生きてよ」


「半月生き永らえたところで、俺には意味がない時間だ。何もすることがなく、持て余すだけだろう」


 その言葉が寂しかった。ティルの眼中にあたしは微塵もいないんだ。とっくにわかってたことだけど、まるでとどめの一撃みたいに胸を貫いた。あたしの言葉じゃ、ティルの意志は変わってくれない……。


「だが、エドナは俺とは違い、未来があり、道がある。その道はこれから先、いくらでも選べるんだ。時には過ちもあるだろうが、俺のような後悔だけは残すべきじゃない。自分の行動は二度と取り返せない」


 ティルがあたしに目をかけて、世話までしてくれたことがわかった気がした。スリをして暮らすあたしに、後悔を残した自分のようにはなってほしくなかったんだろう。犯罪で一生生きてくなんて無理なことだ。いつか必ず後悔する目に遭う。そうなる前にティルはあたしを正しい道に戻そうとしてくれてたんだ。金を渡そうとしたり、仕事をさせようとしたりして……。元警察隊らしいお節介だ。あたしは、そんなティルに応えなきゃいけないよね。


「……本当はこんなこと、したくない。でも、最後まで付き合うって言ったからには、あたしは、やるしかないんだろうね」


「すまない」


「謝るぐらいなら頼まないでよ。あたしは、こんなこと、望んでないんだから……」


「エドナ、ありがとう……さようならだ」


 安心した笑顔を浮かべたティルは、直後、何の躊躇もなくダガーで糸をすぱっと切った。


「ティル……!」


 思わず呼んだあたしの目の前で、ティルは笑みをたたえたまま、恋人の亡骸の横に倒れ込んだ。一瞬の出来事に、あたしは呆然となって見つめた。話を聞かされても、魔法なんてまだ信じられない。でもティルは足下で倒れたまま動くことはなかった。


「……本当、なの?」


 恐る恐るティルの顔に手を伸ばした。肌にはまだ体温が残ってるけど、鼻や口に手をかざしても呼吸してる気配はなかった。次に服の上から心臓に手を重ねてみる。寸前まで鼓動を刻んでたはずの音は、すべてが停止したかのように静かだった。本当に、死んでしまった――切れた糸の束だけが、魔法はあるんだと言ってるようだった。


 あたしに悲しさと寂しさを残してティルは逝ってしまった。でもこれが最初からの望みだったんだ。この死に後悔はないはず……証拠にティルの顔はうっすらと微笑みを浮かべて、苦痛や恐怖はどこにも見えない。恋人との安らぎを再び手に入れて満ち足りてるようだ。そんな顔を見つめてると、何だか不思議に思えてくる。あたしはこれまで、魔法にかけられた死者と旅してきたんだろうか。スリをしようとしたり、ときめいたり、助け、助けられたり……。だけど、どの記憶も感触があって温もりがある。ティルという男は確かに生きてたんだ。あたしの目の前で。


「……見返りはいらないって前に言ったけど、やっぱ貰うね」


 あたしは穴に入ってティルのマントに手をかけた。身体を動かして剥ぎ取り、肩にかけてみる。薄汚れたぼろいマント……でもそこにはしっかりとティルの体温が残ってた。死者なんかじゃない。ティルはこんなにも熱を持ってここにたどり着いたんだから。間違いなくこの世にいたんだ。あたしの見てきたことすべてが証明になる。


「ティル、おやすみ。それと……さよなら」


 乱れた前髪をちょっと直してやって、あたしは穴から出る。二人の遺体を目に焼き付けて、心の波が収まるのを待つ。泣いたりなんかしない。ティルがいなくなっても、あたしはまだ進まなきゃいけないから。進んで、新しい道を見つけなきゃ――心だけは笑顔に変えて、あたしはスコップを握った。

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ある男との旅 柏木椎菜 @shiina_kswg

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