④ 踏み出せない女(2)

「後悔しないようにしなきゃね」

 家に帰った後も、桃子は告白するべきか、しないべきかを母に相談していた。

 ダイニングテーブルを挟んで向き合った二人の間には、淹れたてのカフェラテが入ったマグカップが二つあった。母が近くのスーパーでよく買ってくるスティックタイプのインスタントのものだ。甘すぎず苦すぎず、後味がすっきりしていて、飲み干した後に嫌なベタつきが口の中に残らない。近頃は、桃子が学校を終えると、父が帰ってくる時間まで二人で一緒にコーヒーブレイクを挟むことが習慣のようになっていた。

 まだ日は落ちていない。特にどちらかが観ているわけでもないのだが、最近買い替えたばかりのテレビからは夕方のニュースが流れていた。

 今日の夕食のメニューは父の好きなオムライスだという。大人になっても好きな食べ物がオムライスだなんて、なんだか子供っぽくてキモい。中学生になるあたりから徐々に突入していた桃子の思春期は、現在ピークを迎えていた。父に関することであれば、何故だかそれがたとえ些細なことであっても癪に障った。学校の話なんて、父の前では絶対にしない。恋の相談なんて、なおのことだ。

「お母さんだったらどうする?」

 母はマグカップに口元に引き寄せ、んー、と窓の外に向けていた視線をこちらに動かした。「これまで自分から告白した経験がないから、私には全くわからないかなあ」

「ねえ、親じゃなかったら今頃殴りかかってるところだよ?」

 呆れてため息を漏らす桃子の顔を見てからかうように笑っている母が煩わしかった。こっちは結構真面目に相談してるっていうのに。

 とはいえ、確かに母は年の割に見た目が若々しかった。これは決して贔屓目ではなく、授業参観に母が参列すると、よく周りの同級生たちから「誰、あの綺麗なお母さん」と噂されていた。学生時代は結構モテていたらしい。実際、今でもその面影は残っていたし、年齢を刻むごとに着々と増えていく目元の小ジワや頬にターメリックをまぶされたような薄いシミも、化粧さえ施せば魔法のように消えてなくなった。街中を一緒に歩いていて、姉妹と間違われたこともあった。

「せっかくだったらパパの意見も聞いてみれば?」

「えー、絶対いやだよ。どうせキモいことしか言わないんだもん」

 桃子がそう言って顔をしかめると、母はおもむろに席を立ち、マグカップを持ったままベランダに向かった。その背中を目で追っていると、不意にテレビで目が留まった。どうやら、ついこの間の大河ドラマに出演していた売り出し中の若手女優と、ここ最近SNSを中心に注目され始めているお笑い芸人の極秘交際が発覚したらしい。彼らが所属している芸能事務所はどちらもその報道を否定せず、『プライベートは本人に任せております』と同様のコメントを発表していた。

 やがて、ちょっとこっちに来てごらん、とベランダからこちらに手招きをしている母の姿が視界に入り、桃子はマグカップをテーブルに置いて席を立った。

 窓の外に出てみると、思いのほか冷たかった三月の風が桃子の髪を揺らした。部屋の中を振り返り、ダイニングテーブルの上で湯気立つマグカップを見て、やっぱり持ってくればよかったかな、と彼女は思った。

「ほら、見て。今年も綺麗に咲いてくれたのよ」

 マグカップを取りに室内へ戻ろうとしていた桃子を引き止めるかのように、ちょうど母の声が聞こえた。ほとんど手入れのいらない多肉植物が多く並んでいるベランダの中で、ひときわ存在感を放つ白い植木鉢の前に立っていた彼女は、ほんの僅かな風でも微かに揺れてしまうその頼りない細い幹から何方向にも枝分かれした先で控えめに咲いている桃色の花を、嬉しそうに眺めていた。

 品種を『ハナモモ』というらしいその花は、いつも桜の開花を待たずして、一足早く春の到来をこの家に教えてくれた。聞けば、桃子の名前の由来にもなっていたらしい。以前、小学生低学年だった彼女が『自分の名前の由来を聞いてみよう』という課題を家に持ち帰ると、母はどこか恥ずかしそうに「子供ができたら絶対に名前のどこかに『桃』を入れようって決めてたのよ」と言っていた。

 二人にとって大事な花なの、と最後に付け足す母の顔は、恋する乙女のそれにしか見えなかったことを、今でも覚えている。その時、桃子はまだ幼いながらに、親も自分と同じ人間であったことをなんとなく認識した。

「この花っていつ頃から家に置いてるの?」

「そうねえ、もう二十年近く前になるのかしら」

 そう言って母はその場に腰を落とし、まるで赤子の頭を撫でるかのように優しく花に触れ、隣でその様子をじっと見つめていた桃子の顔を見上げた。「私たちが結婚する少し前にね、お義母さんから譲ってもらったのよ」

 祖母がガーデニングを趣味としていることは桃子もよく知っていた。毎年お盆休みに父の実家へ訪れた際には、欠かさず庭一面に広がった色とりどりの花々を背景に父と母と三人で記念撮影を行っていたのだ。その写真は決まって翌年の年賀状に印刷されていた。

「そういえば、ハナモモの花言葉って知ってる?」と母は言った。

 知らない、と答えると、母は年甲斐もなく照れを含んだ笑みを浮かべた。

「あなたに夢中、だって」

 桃子は想像した。どうして母が目の前で照れているのか。そして、どう考えても告白に似た『あなたに夢中』という花言葉を持つハナモモのことを。以前、母はそれを二人にとって大事な花だと教えてくれた。だから、もう一人にあたるのはきっと父なのだろう。ということはつまり、彼らの間では、少なからず一度はハナモモを介したやりとりがあったというわけだ。ここで桃子は、母が自分から告白した経験が一度もないことを思い出す。ああ、そういうことか。

 ようやく、小学生の頃に見た母の恋する乙女のような顔にも合点がいった。

「ちょうどあなたと同じ中学三年生になる直前のことだったかしら」

 母はそのうちこちらから視線を切り、懐かしげな表情で遠くを見つめた。住宅街の隙間を縫うように西日が差し、目を細める。「パパがくれたの。手紙と一緒に」

「へえ。相変わらずキモいね、お父さん」

 いつもの癖で、つい反射的に声に出てしまったその感想に、ふふっと隣から笑い声が聞こえる。ほとんどその声と同時にこちらを振り向いた母の顔には、悪だくみを思い付いた子供のような笑みが浮かんでいた。

「見る? その時の手紙」

「え、見たいっ!」と桃子は声を弾ませた。

 母もその食いつきっぷりには満足したのだろう。「ちょっと待ってて。すぐ持ってくるから」と言い残すと、早速腰を上げ、軽く手の埃を払い、駆け足で手紙を取りに家の中へと戻っていった。リビングを抜け、廊下の途中で寝室へ曲がった彼女はしばらく部屋から出てこない。ダイニングテーブルに取り残されたマグカップの片方は、母が乱暴に置いたせいか容器の中でカフェラテが暴れ、同じ重さの分銅を時間差で載せた秤のように、水面にうねりが生じていた。やがて底の深い容器が防波堤の意味をなさなくなったように、茶色の液体はあふれる。それからほどなくして、彼女は慌ただしい足音とともにベランダへ姿を現した。

「お待たせお待たせ」

 早口に繰り返す母は右手に提げていた白い封筒の中から、三つ折りにされた便箋を取り出し、はいこれ、とそれを何の躊躇いもなくこちらに差し出した。

「ほんとに読んでいいの?」と桃子が聞くと、母は肯いた。

 長年押入れの湿気を吸い込んでいたせいなのか、その三つ折りされた便箋は端をのり付けされたように、紙同士がくっついていた。ぺりぺりぺりと、小気味のいい音をたてながら徐々に紙がめくれていくと、そのうち若干カビ臭いような、でもどこか懐かしいような匂いが鼻先に触れた。それを起点に桃子は不思議と胸が躍った。

 まだ中学生だった父はいったいどんな手紙を母に送っていたのだろう。抑えきれない好奇心にいざなわれるように、桃子はその手紙を慎重に開いた。

 全体的に日焼けしていたその便箋には、何故か右下のあたりにだけまだ青々とした紙本来の白さを微かに残していた。「これって何の跡?」とその部分を指差して聞くと、母はそれを見て「ああ、それね」と何度か肯き、「そこにハナモモが一輪だけテープで留められていたの」と教えてくれた。

「まあ、さすがにそれは枯れちゃったからもうないんだけど」

 ああこれが例の、と桃子は思った。まさか父も時を超えてこの手紙が娘に読まれるだなんて思ってもみなかっただろう。中学男子にしては綺麗な字で紡がれているその文面を、桃子はじっくりと、一語も見逃さないように目で追っていく。

 しかし、その手紙を読み終えた直後、桃子はつい拍子抜けしてしまった。そこにはなにやら約束を果たせなかったことへの丁寧な謝罪文と、親の転勤で引っ越すことになったという説明がつらつらと綴られているだけだったからだ。告白はおろか、父が母に好意を抱いていたということさえも、その文面を見る限りでは一切感じられなかった。

「え、なにこれ」

「ねっ。変わってるでしょう?」と母はまるで他人事のようにクスクス笑った。

 桃子は想像した。当時、この手紙を受け取った母はこの文面を見て、ただの謝罪文にしか思えなかったのではないだろうか。確かに、現役時代は大手商社に勤めていたという祖父の仕事柄、父が幼い頃から全国各地を転々としていたという話は薄らと聞いていた。だから、そのせいで二人が交わしていた約束を果たせなかったことに対する謝罪文は理解できる。引っ越すことになったという説明文にも同様に納得した。でも、それで? だからなに? 結局、父はこの手紙の文面で何を伝えたかったのだろう。本当にただ謝りたかっただけなのだろうか。あるいは──

「お母さんはどうして、こんな手紙をずっととっておいたの?」

「そりゃだって、当時の私はこの手紙だけで十分救われたんだもの」

 母は恥ずかしげな表情を浮かべ、二、三秒のを空けて続ける。

「それになんかちょっと似てると思わない? 当時のパパと今の桃子」

「はっ? やめてよ。私とあのキモ親父とじゃ全然似てないんだから」

 桃子が必死でそう否定すると、母は「そんなにパパのこと嫌いだったの?」と笑った。いや、と言いかけて桃子は口を噤む。

 正直なところ、父の存在自体を本質的に嫌っているかと言われればそうでもなかった。だからと言って、別に好きというわけでもない。ただ単純に、これまで父という枠組みで捉えていた人間が、突然ある日を境に男という枠組みの人間として意識するようになり、その変化に心が追いつかずに戸惑い、その得体の知れない生き物をできるだけ自分のテリトリーに寄せ付けまいと過剰に警戒しているのだ。だから、似ていると言われれば否定したし、得体の知れない父の意見には賛同したくなかった。

「パパはね、本当なら、その年の夏に告白するつもりだったんだって」

「ふうん」と桃子は、あくまでそんな話は興味がないと言わんばかりの相槌を打った。

「でも、お義父さんの転勤でそれは叶わなくなった。それに当時はまだお互いに中学生だったから、遠距離恋愛なんてできるはずもないでしょう?」

「まあ、そうだね」

「だからパパはこの恋が叶うわけがないと諦めてた。でもせめて、自分の想いだけは伝えておきたい、って思ったんじゃないかな。意外と臆病なところがあるから、きっと面と向かって告白する勇気はなかった。だから何かしら、カモフラージュになりそうな方法を考えた」

「それがあの手紙ってこと?」

 だと思うよ、と母は肯いた。「というかまあ、ハナモモに全部想いをのっけたんじゃないかな」

 あなたに夢中──

 決して叶わないとわかっていても、そんな、口にすれば全身がむず痒くなってしまいそうな真っ直ぐな恋心をどうにかして伝えたい。返事はいらない。たとえ気付かれなくてもいい。ただ、好きだったという事実を心に刻みたい。

 当時、父が果たしてそんなことを考え、悩んだ末に、この手紙を母に送ったかどうかなんてわからない。全部桃子の想像だった。しかし、あながち的外れだとも思わなかった。やたら丁寧な謝罪文や、つらつらと長いだけの説明文も、今ならなんとなく腑に落ちる。臆病で前に足を踏み出せないのは、彼女も同じだった。

「初恋は案外実るものなんだってさっ」

 母は言った。全てを見透かしているかのような視線をこちらに向ける。

 桃子はそれがなんだか悔しくて、つい目を逸らした。「なにそれ。初恋は普通、実んないんだよ?」

「でもパパが大泣きしながら言ってたんだもん。大学生の時に」

「二人は大学で再会したの?」

 奇跡的にね、と母は笑った。「でも心のどこかで、また出会えるって信じてたのかもしれないね。だから私も、高校からずっとサッカー部のマネージャーをしてたわけだし」

「サッカーしてる時のお父さんって格好良かった?」と桃子は聞いた。

 そりゃあもう、と肯く母の横顔がいつもより眩しく見えた。

「でもまあ、大泣きしながら『初恋は案外実るもの』、だなんてクサイ台詞を吐いた時はさすがに少し引いたけどねっ」

 冗談っぽく声を弾ませる母に便乗し、桃子は「だよね。やっぱりあいつってキモイよね」と高らかに笑った。

 徐々に日が落ちていく。手元の父の手紙をすっぽりと覆うように、頭の影が落ちた。

 桃子はもう一度手紙を読み込み、また想像した。絶対に叶わないと諦めていた父は、いったいどんな気持ちでこの文章を書いていたのだろう。きっと、その何年後かに初恋が叶うなんてことは、夢にも思っていなかったはずだ。そんなことを考えているだけで、何故だか自分の初恋までもいつかは叶ってしまいそうな気がして希望が抱けた。せっかくだからこの際、直接当時の心境を聞いてみるのもいいかもしれない。

 いつもよりほんの少しだけ、父の帰りが待ち遠しくなった。

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ハナモモ(No.9) ユザ @yuza____desu

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