③ 踏み出せない女(1)
外は桜の開花を待たずに暖かい空気が流れ込み、冬の終わりに歓喜をあげるように花粉が舞い始めていた。
桃子は校則ギリギリまで丈を短くしたチェック柄のスカートからポケットティッシュを取り出し、他の生徒たちの目を盗んで鼻をかむ。できるだけ音を立てないようにと注意を払い、勢いを抑えて力を入れたはずが、思いの外大きな音が鳴って肝を冷やした。が、幸い、その音に反応する者は誰もいなかった。
公立高校の受験日が間近に迫ってきているということもあり、教室の中は日を追うごとにピリつき度合いを増していた。休み時間には、ずっと机にかじりついたまま問題集を解き漁っていく者もいれば、あちこちで直近の学力テストの点数を聞き出しては自分の点数と比較し、それに一喜一憂する者もいた。
とにかくみんな、受験という荒波に飲み込まれてしまわないよう必死だったのだろう。一足先にスポーツ推薦で私立高校への入学切符を手に入れていた桃子には、彼らの不安や焦りの大きさを推し量ることはできなかった。
そんな大事な時期に、人と人との繋がりを大切にしよう、なんてことを受験生に向かって熱心に説き伏せようとしている先生のダラダラと長い話を聞いているのは、たぶん自分だけなんだろうなと思いながら桃子は授業を受けていた。実際、他の生徒はみんな机の下で単語帳やノートを眺めながら、ぶつくさと教卓には届かない声量で何かを唱えていた。
「この時期に道徳ってなんなの? 普通は自習でしょ。受験生の気持ち理解できないなんて、あいつ教師として終わってるわー」
授業終わりに早速そう愚痴っていたクラスメイトの
それに加え、色々と察しがいい。「そうだね」と同調しながら一瞬だけ目線を窓際の席に移した桃子の所作を、彼女は見逃さなかった。
「あ、またあいつのこと見てる」
「ねえ。洞察力すごすぎて引くんだけど」
ふんっと鼻を鳴らした美智香は「桃がわかりやすすぎるんだって」と笑い、下から舐めたくるように桃子の顔を見据えた。
「なに?」
「顔、真っ赤になってるよ」
「うそっ!?」
「うそ」
「なにそれ。うざっ」
「ごめんごめん」
「別にいいけど」
テンポのいい会話が続き、桃子は小休止を打つようにため息を吐く。今度は美智香に隠さず、堂々と窓際の席に座っている
肩幅が広く、学生服でも隠しきれない筋肉隆々の上半身からは、これまでに幾度となく強烈なスパイクが放たれてきた。間近でそのプレーを目の当たりにしてきた桃子にとって、彼の存在は憧れであり、また、それはいつしか恋心を孕むようになっていた。初恋だった。
「好きならとっとと告白すればいいのに」
「いやよ。だって、フラれるに決まってるもん」
「バレーしてる時の桃はあんな積極的にスパイク打つのに?」と美智香はいたずらっぽく笑った。
「いじわる」
桃子が軽く睨みつけると、彼女はその視線をひらりと躱すように話を逸らす。
「よくよく考えてみるとさあ、なんでウチのバレー部って桃がいるのに県大会行けなかったんだろうね」
美智香は試合があるたびに毎回応援に駆けつけてくれていた。
「そりゃまあ、圧倒的な層の薄さでしょ」と桃子は答える。
彼女がキャプテンを務めていた女子バレーボール部には、ほとんど運動経験者がいなかった。運動神経のいい子らはみんな何故かバスケ部や陸上部に奪われ、走らなくてもできそうだから、といった生半可な理由で入部してくる比較的運動が苦手な部員が大部分を占めていた。しかも部員数は各学年に五人前後しかいない小規模部隊。いくら桃子が親の優れた遺伝子を受け継いでいたとしても、たった一人で相手六人を打ち負かせるほど、チームスポーツは甘くなかった。
「みっちゃんがいてくれたら、もっといいところまで行けたのに」
ないない、と美智香はかぶりを振る。「私がどれだけ運動音痴か知ってるでしょう? もしバレー部に入ってたとしても、どうせ『最後の大会だから』って情けでベンチに座らせてもらうのがオチだったよ」
「そうかな? みっちゃんって、ただ自分のことを低く見積もりすぎてるだけだと思うんだよね」
美智香は呆れたように深いため息を吐いた。
「その言葉、そっくりそのまま桃に返したいんだけど」
それがどういう意味だったのかよくわからず、桃子は小首を傾げるにとどめた。不意に沈黙が流れると、ついつい引力に吸い寄せられるように視線を窓際の彼に向けてしまう。やがて美智香の「んー」という唸り声が聞こえた。
「あれくらいの男ならいくらでもいる気がするんだけどなあ」
美智香は藤島大河の良さがさっぱり理解できないといった風に肩をすくめた。
「いやいや、毎年学生鞄に入りきれないくらい大量のバレンタインチョコをもらってる男子はたぶん、現実には彼しかいないよ? やっぱりみっちゃんは男を見る目がないなあ」
からかうように桃子がそう言うと、彼女は「いいもん別に。そんなの必要ないし」と開き直ったように下唇を前に突き出した。
美智香は女の子を好きになる人だった。いまどき、そう珍しいことでもない。
初めてカミングアウトしてくれた日は確かに驚いたけど、それを変だとは全く思わなかった。むしろ、胸を張って好きなものを「好き」と言葉にできる彼女が格好良くて仕方なかった。私には怖くて絶対に真似できない。
同じ塾に通っているという一つ年下の女の子に恋をしてしまったと相談を受けた時も、私は正直、告白することでさえ難しいと思ってしまった。しかし、彼女はそのわずか一週間後にその女の子にハッキリと想いを伝え、晴れて恋人となったその子を目の前で紹介してくれた。初々しい二人の姿は心の底から幸せそうで、見ているだけで自然と口元が緩んだ。
この子には逆立ちしたって敵わない──
その時、生まれて初めて桃子は誰かを憧れに据えた。
「私もみっちゃんみたいに、なんでもすぐ口にできるタイプの人間だったらなあ」
「あれ、どうしてだろ。小馬鹿にされているようにしか聞こえないんですが」
「真面目に言ってるんだってば」
桃子は真っ直ぐに美智香の濁りのない綺麗な瞳を見据えた。「やっぱり、卒業前に告白した方がいいと思う?」
うーん、とひとしきり考える素振りを見せた彼女は軽い口調で聞いた。「てかそもそもだけどさ、桃はどうして告白したくないの?」
「それはだって、フラれるのが怖いからじゃん」
「フラれたっていいじゃん」別に死ぬわけじゃないんだし、と続けた美智香は話の途中で、感情を露わにするように顔をしかめた。「それに、私的にはこのまま藤島と離ればなれになって、好きだった気持ちをずっと吐き出せないままでいる方が辛いような気がする」
藤島大河もまた、桃子と同じようにバレーの強豪校への推薦入学が決まっていた。ただ、その学校は県外にあるらしく、彼は三年間をずっと寮で暮らすらしい。会えなくなってしまう日が、すぐそこまで近づいていることは理解していた。
「でもさ、この気持ちをハッキリさせないまま卒業すれば、いつか私はこの恋を思い出しながら、『ああ、あの時告白していれば付き合えてたのかもしれないなあ』とか、都合よく妄想できるかもしれないでしょう?」と桃子は言う。「初恋は苦いよりも甘酸っぱいまま終わらせておいた方がいいような気がするのよ」
「なんか格言っぽく言ってるけど」と美智香は笑った。
「これってただの言い訳なのかなあ……」
桃子の声は誰にも処理されないまま空気中を彷徨い、居心地が悪くなってその場から退散しようとする上京したての田舎者のように、すっと消えていった。
「さっき先生も言ってたじゃん。人と繋がる上で傷つくことは避けられない、って。だから頑張ってみなよ、将来いい旦那さん捕まえるための練習だと思ってさっ」
美智香が言い終えた頃にちょうどチャイムが鳴った。
ほどなくして自分の席に帰っていこうとする彼女の姿を視界の隅に捉えながら、桃子はふと、先生の授業を聞いていたのは私だけじゃなかったんだなあ、とどうでもいいことを思った。
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