② 夢のない女
ゴールデンウィーク明けあたりから、春人は放課後の委員会活動に参加しなくなった。無事に入部届が受理されたらしい。有栖は頑張って欲しいと思う反面、日に日に彼のいない日常が、どこか味のしないガムのように無味無臭で退屈だと感じるようになっていた。
校舎の三階から二階に下りている途中、窓越しに一人だけ体操服姿でグラウンドを駆け回っている春人を見つけた。まだチームの練習着が届いていないらしい。下級生に混ざって走り込みをしていた。
はあ。
ぽっかりと空いた穴から空気が抜けるように、ため息が漏れた。別に春人の背中を押したことを今更後悔しているわけじゃない。それでもここ最近、何をするにしても気が進まないのは、きっと彼の存在がいつの間にか私の生活の中に定着していたせいもあるだろう。睡眠薬がないと寝付けないのとどこか似ている。いや、もっと何か適切な例えはないだろうか。踊り場から外を見下ろしていた有栖は、この違和感によりしっくりくる表現を頭の中で探していた。
「ねえねえ、有栖ちゃん。このあと暇?」
その声に振り返ってみると、一緒に掲示物を貼り替えていた他クラスの男子はいきなり目の前に立ちはだかり、そうかと思えば今度は下から顔を覗き込んできた。
「最近、この辺の近くに新しいカラオケできたらしいからさ、帰りに二人で寄っていかね?」
終始、男は整髪料で遊ばせた茶色の毛先から指を離そうとしなかった。彼が女たらしであることは、以前から風の噂で耳にしていた。
「ああ──」と言い淀んで窓の外に目を向ける。各方面から様々な部活動生たちの声が飛び交うグラウンドの中で、春人は未だにトラックの周りを走り続けていた。
「有栖ちゃんってめっちゃ可愛いよね。実は俺、ずっと密かに狙ってたんだよ」
「はあ、それはどうも」
有栖は視界に春人の姿を捉えながら、適当に相槌を打った。
「うそだろ。反応うすっ!」
隣でケラケラと過剰に笑い声をあげる彼を無視して、有栖は階段を下りる。何が面白いから笑っているのかはよくわからなかった。しかし、踊り場に響き渡るその大きな笑い声が、偶然近くを通りかかった第三者の耳には、まるで私たちが楽しく会話を交わしているかのように聞こえてしまいそうで不安だった。私は安物の餌に本気で食いつくほどチョロい女じゃない。それに、息を吐くように誰にでも「可愛い」と口にする彼のことがどこか苦手だった。万が一にも、彼と仲が良いと勘違いされるのは困る。
幸い、二階の廊下には誰もいなかった。有栖は手際よく掲示物を貼り替えながら廊下を進んだ。男はロクに仕事も手伝わず、ただただ後ろをついてくる。
ちょうど廊下の真ん中あたりで壁掛けの掲示板に画鋲を刺していると、不意に一年前の記憶が脳裏によぎった。当時の有栖は野球部のエースだった三年生の先輩と付き合っていた。
今更その過去を黒歴史にしようとまでは思わないが、冷静になって振り返ってみると、本当に自分が先輩に恋をしていたとは思えなかった。
告白された有栖は成り行きに任せて交際を始め、一緒に帰りたいと言い出した先輩を毎日のように正門前で待ち、部活終わりの汗ばんだ手を握って家に帰った日々が辛かったわけではない。野球部の練習に励んでいた先輩の姿は、確かにどこを切り取っても格好良く、実際に恋人として誇らしく思う時もあった。
でも結局、有栖は先輩に対する興味がほとんど湧かなかった。それは薄らと周囲にも伝わっていたらしい。だからきっと、彼女が愛想を尽かされた時でさえ、「やっと解放されたね」などと安堵してくれる者はちらほらと現れたが、フラれた有栖の身を案じてくれるような者は誰一人としていなかったのだろう。実際、自分でもなんともないと思い込んでいた。
しかし、春人だけは気付いてくれた。
──辛い時は無理して笑わないでいいと思う。
その言葉は、いつの間にか自分でも見落としていた感情をふっと蘇らせるように、熱いものをじわじわと身体の奥底から押し上げ、それはやがて目頭に達した。すぐにでも涙がこぼれ落ちそうになり、有栖は必死で堪えた。
この人の前では泣いちゃいけない。なんとなくそう思った。おそらく、咄嗟に私は春人にだけは引かれたくない、とそう考えたのだろう。
当時の心境をどこまで正確に思い出せるかと問われれば、正直、あまり自信がない。ただ、この人だけはちゃんと私のことを見てくれているんだと、何故だか不思議と嬉しさで胸がいっぱいになったことは鮮明に覚えていた。
「おーい、有栖ちゃん。なにぼうっとしてんの?」
男の声で我に返った。その声が春人のものでないことに、有栖はついがっかりしてしまう。
「どうしたんだよ。急にため息なんか吐いて」男は眉をひそめた。「もしかして悩みごと?」
有栖は何も答えず、止まっていた手を動かした。生徒指導の先生が徹夜で作ったという『生活だより』の五月号をあと残り三枚、先月のものと貼り替えればこの日の仕事は終わりだった。
「俺でよかったら、なんでも話聞くよ」
「……ああ、ううん、大丈夫。ありがと」
有栖は愛想笑いを顔に貼り付け、次の場所に移動する。
「そっか。それならいいんだけど」と男もほとんど同時に歩き始めた。「まあ、気が向いたらいつでも相談してよ。俺、人の悩み解決するのが得意だから」
そう言うと、彼はおもむろにズボンのポケットに忍ばせていたウォークマンを手に取り、堂々とイヤホンを片方の耳につけた。やがて、垂れ下がったもう片方のイヤホンから音楽が漏れ始める。近くに誰もいなかったとはいえ、あまりに彼の行動は不用心が過ぎた。有栖は反射的に顔をしかめてしまう。
「ごめんけど、やめてくれないかな? 私も共犯だって思われちゃうから」
さっきまでよりも語気を強める。が、依然として彼はケロッとした表情のまま音楽を聴き続けていた。どうやら言うことを聞くつもりはないらしい。
有栖は若干歩く速度を上げ、彼との距離を離した。
「少しくらいイメトレさせてくれたっていいじゃんか。これから有栖ちゃんのために、たくさん歌ってあげなきゃいけないんだから」
「え、いや。私、行かないよ?」
有栖は足を止めて後ろを振り返った。男は「はっ? なんでだよ」と驚いた様子でイヤホンを外した。
「なんで、って言われてもね。そもそも行く気なかったし」
「え、じゃあなに? このあと予定でも入ってるってわけ?」
わかりやすくその喋り口調には苛立ちが含まれていた。
「別にそういうわけじゃないけど……」
有栖がそう言うと、彼はようやく諦めたように長いため息を吐いた。さっきまでの明るくて朗らかな笑顔の仮面を剥ぎ取ったように、途端につまらなさそうな顔が目の前に現れる。彼は頭皮を爪で抉るような勢いで、後頭部を掻きむしっていた。
わざわざ居残りしてまで手伝ってやったのによお。辛うじてこちらの耳にも届くほどの声量で、彼はボヤいた。誰もいない廊下の真ん中で舌打ちが響く。有栖はその場から逃げるように、早足で一階へと向かった。力強く前に進むごとに、廊下に敷かれた緑色のカーペットの厚みが足の裏に伝わってくる。男は後を追ってこなかった。
最後の一枚を貼り終えたのは、ちょうど17時を回ったあたりだった。職員室にいた生徒指導の先生に無事に全て貼り終えたことを報告し、先月分の『生活だより』を返す。その際、「あれ、マナベと一緒じゃなかったのか?」と聞かれたので、「家の用事があったみたいだったので、先に帰らせました」と適当な嘘をついた。あの人、マナベっていう名前だったんだ──
有栖は教室に残していた学生鞄を取りに戻り、昇降口を出てすぐの場所にあるベンチに腰を下ろしてサッカー部の練習を眺めた。
校舎の中にいた時とは違い、ほとんど同じ目線の高さに春人がいる。どうやら走り込みのメニューは終わっていたようで、彼を含めた下級生の部員たちも上級生に混ざって試合形式のメニューに移っていた。
声を張り上げ、足を振り、ぶつかり、高く跳び、手を叩いて必死に周りの部員たちを鼓舞している春人に向けて、有栖は誰にも聞かれないように「頑張れ」と呟いた。
有栖には昔から全力を注げるようなものが何もなかった。具体的な夢や目標もなかった。ただ毎日が楽しければそれでいい。そんな抽象的で保守的な未来図しか描けない彼女にとって、毎日汗をかきながら必死に歯を食いしばって生きている人たちの姿は格好良くて仕方なかった。ついこの間まで自分と同じだと思っていた春人も、今やそっち側にいる。胸と背中に『2年5組 白井』と記されたゼッケンが貼ってあるおかげで、どこに行ってもその姿を見失うことはなかった。
「お疲れさまっ」
練習後、下級生たちと一緒に最後まで後片付けをしていた春人が正門から姿を現すと、有栖は思い切って彼に声をかけた。
近くにいた下級生の何人かは、春人を茶化すように「いつからそんな可愛い彼女できたんスカ」とニヤついた。すると彼は動揺を隠せない様子で「ば、ばかっ。ありえないっつうの」と大声を出し、かぶりを振って恋人であることを否定する。そのあまりの必死さに、チクリと身体のどこかが痛んだ。
「春人さん、そこまで必死に嫌がる必要ありますか?」と後輩の誰かが言った。
「ち、ちがうっ。そういう意味じゃなくて」
慌ててさっきの発言を訂正しようとする春人はチラッとこちらを見た。有栖はつい目を逸らしてしまう。
「だからそのっ」彼は途端に歯切れの悪い喋り方で言葉を紡ぎ始めた。「北川さんはほら、かっ、かわいいからさ……その、お、俺なんかが釣り合うような相手じゃないって言いたかっただけなんだよ」
「ふうん。そういうことですかあ」
妙に含みのある返事をした後輩の一人がこちらに視線を移し、「ですって。良かったですねっ」と微笑む。「じゃあお二人とも、頑張ってくださいね」
そう言い残してさっさとその場から立ち去っていく下級生たちは、まるで空気を読んであげたとでもいうように、それから一度もこちらを振り返らなかった。
正門の前に取り残された二人は、互いにしばらくその場から動き出せず、やがて校舎の方から聞こえてきた「早く帰れよー」という誰先生かもわからない野太い声に、無理やり背中を押されたように、ほとんど同時に歩み始めた。
「……さっきはその、ごめんっ」
二、三歩進んだあたりで春人が沈黙を破る。「変なこと言った」
有栖は顔を上げられなかった。歩道を照らす青い街灯の明かりを煩わしく感じてしまうのは、さっきからずっと紅潮していた頬を照らしてほしくなかったからだ。どうして春人はいつも、不意に身体のあちこちがこそばゆくなるようなことを平気で言ってくるのだろうか。
とはいえ、このまま何も反応しないでいるのも、なんだか負けたような気がしてしまい、有栖は胸の高鳴りが声に漏れないよう用心しながら、「別に気にしてないし。私が可愛いのは千年前から決まってるって前も言ったじゃん……」と強がった。
まだ五月なのにもう暑い。チラッと隣に目を向けると、春人がスクールシャツの胸元を
またしばらく無言のまま二人は歩く。
「そういえば今年の中体連だけどさ」春人の声は落ち着きを取り戻していた。「たぶん、登録メンバーには選ばれないと思うんだ」
とっさにどんな反応をすればいいのかもわからず、「そっか」の一言がワンテンポ遅れてしまう。
「うん、ごめん」
「なんで春人が謝るのよ。だってまだ──」
見上げると、春人は悔しそうに唇を噛み締めていた。その表情を見た途端に、じんわりと込み上げる何かが胸の中を侵食していくように広がっていく。心臓を何者かに鷲掴みされたような息苦しさが、有栖に次の言葉を紡がせなかった。
まだ入部したばっかりなんだから仕方ない。そんな安い慰めは、本気で何かに打ち込んでいる人に向けるべき言葉じゃないと踏みとどまった。
「俺、もっと頑張るから」
春人は急に何かを決意したような目でこちらを見下ろした。「約束する。もっともっと頑張って、来年の中体連では、絶対に北川さんの目の前でゴール決めて勝つから。だからその時は──」
有栖は真っ直ぐで眩しいくらいのその眼差しをずっと見ていたかった。
春人の後ろを車が通る。
「……いや、やっぱりその続きはまた今度にするよ」
また一台、車が通る。今度はそのヘッドライトが彼の照れくさそうな顔を照らした。
「約束だからね?」
有栖の声に春人は肯き、二人は示し合わせたようにそれぞれ小指を前に差し出した。緊張で手が微かに汗ばんでいたことなど、結んでしまえばさほど気にならなかった。
それからあっという間に時は流れた。
その知らせを聞いた時、私はついに運命に突き放されたのだと悟った。
春人と出会って二度目の冬が明ける直前、彼は一通の手紙を残してこの町を出て行った。『ごめん──』から始まるその手紙の最後には、麗らかに咲く一輪の桃の花が、セロハンテープで留められていた。
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