ハナモモ(No.9)

ユザ

① 諦めた男

 春になっても、桜と違って初恋は実らない──

 春人はるとは窓の外を眺めながらそう思った。

 白く霞みがかったような青空の中を泳ぐことには、さすがにもう飽きた。まだ小さかった頃はよく、雲に紛れてUFOがいるのではないかと夢中になって探していたが、ある時から、そんなものはきっといつになっても現れない、と何もかもが面倒くさくなり、夢や希望を抱く行為をどこかで諦めていた。

 母は決まっていつも、春人を窓側の席に座らせた。窓の外を眺めるフリをしながら静かに涙を流すようになった息子の姿に気付いていたのだろう。

 目下で孤独に浮かんでいる薄い雲が、まるで何かを悟ったかのように、風の流れにその身を委ねているように見えた。と同時に、その風景が、悲観することに疲れて抗うことをやめた自分の姿となんとなく重なるような気がして、今更、使い古していたはずの苛立ちが蘇った。

 ああ、ちくしょう。なんでいつも俺ばっかりこんな目に──

 そんな不満がつい声に漏れていたのかもしれない。不意に頭の上に肉厚の手が置かれ、隣から「いつもごめんね、春人。私たちの都合に付き合わせちゃって」という申し訳なさそうな母の声が聞こえてきた。

「いや、そういうことじゃないんだ」と春人は慌てて訂正し、ごめん、と謝った。できるだけ、母の悲しい顔は見たくなかった。

 ついこの間までよく家に遊びに来ていた父の会社の同僚の男は、ビールを片手に携帯電話を眺めながら、まるで拘置所に閉じ込められた受刑者が長年会っていない妻と子供を恋焦がれるように、自身が単身赴任であることを嘆いているようだった。

 親の仕事の都合上、転校をたびたび繰り返す子供は、世間的に見てもそれほど珍しいケースではない。以前、アメリカに住んでいた頃には自分と同じような境遇に立たされている同世代の仲間を何人も見かけた。自分だけじゃない。そう思えることだけが、春人にとって何よりの救いだった。

 これまで金銭的に何不自由なく暮らせてこられたのは、疑うことなく父のおかげだと、そう折り合いをつけることで、なんとか思春期真っ只中の自分を納得させていた。そうやって応急措置を施してきた傷口が、これまでに何度疼くことがあっても、彼は決して気付かないフリを貫いてきた。

 一体、俺はいつまでこんな我慢を続けなくちゃいけないのか。今度は確実に、漏れそうになった心の声を胸の中だけに押しとどめる。ああ、また嘘をついてしまった。

 母はまだ春人の頭に手を載せていた。趣味でガーデニングを営んでいる彼女は、人差し指に絆創膏を巻いていた。引っ越し先へ送ってもらう花や植木の鉢を梱包している最中に、葉で指の腹を切ってしまったらしい。内側から盛り上がった柔らかいパッドの部分が、春人の頭皮に触れていた。

「ねえ、春人」と隣から声が聞こえる。

 ん、とだけ返事をし、振り返らずに鼻を啜った。

「……ううん、やっぱりなんでもない」

 母は言いかけた何かを飲み込むように口をつぐんだ。やがて頭の上に置かれていた手が背中に回され、赤ちゃんを寝かしつけるようにトントンと叩かれた。

 泣いてないって、と微かに震える声で返した。窓の外に広がっていた青空が少しずつ滲む。どうしようもない悔しさとやるせなさが、嗚咽となって現れた。いつもより頬が濡れて熱いのは、気のせいだと自分に言い聞かせた。

 「どうかなさいましたか?」と歩み寄ってきたキャビンアテンダントは、母が無言で追い返してくれたのか、すぐにその場から遠ざかっていく微かな足音だけがやけに耳に残った。

 そういえば学校の廊下にもここと同じようなカーペットが敷かれていたな、とふと思い出す。つい一週間ほど前まで通っていたはずの学校の風景を、もうすでに懐かしんでいるなんて、なんだか変な感じがした。

 知らない土地の上を泳ぎながら、春人は昨日まで続いていたあの町での日常が着実に遠のいていく気配を感じていた。後を追うように襲ってくる寂しさに、また目頭が熱くなる。涙がこぼれ落ちる前に、春人はゆっくり目を閉じた。

「きっと、やり残したことがたくさんあったんだよね」

「……そんなことないよ」

「ごめんね、春人。せっかくあんなに頑張ってたのに」

 ほんとにそんなことないから、と首を振る。

 ふと、瞼の裏に桃の花が咲いた。

 春人はその花をそっと摘み取り、いつまでも枯れないようにと願いながら、胸の奥にこの気持ちを仕舞い込んだ。


 転校の手続きが済んだのは、ちょうど新学期が始まる前日のことだった。先に新居で新生活の準備を進めていたはずの父が、急な熱発に見舞われていたこともあり、荷解きや役所関係の手続きが予定よりも大幅に遅れてしまったのだ。

 両親と初めて挨拶を交わした担任の先生は、大卒一年目の新米教師だったらしく、大手商社に勤めている父の肩書きにどことなく緊張しているようにも見えた。「一年という短い期間ではありますが、春人がみんなと仲良く卒業できるよう、どうぞ温かく見守ってあげてください」と両親が揃って頭を下げると、先生も慌てて腰を直角に折り曲げていた。

 そして、その年が明けた次の三月。無事にクラス全員の卒業を見届けることができた担任の先生の目には、おそらく安堵感からきたであろう大粒の涙が浮かんでいた。だが結局、春人はクラスに馴染めないまま、小学生という長い任期を終えてしまった。

 四月──

 春人は中学生になった。

 部活には入らなかった。クラスメイトともやっぱり交流を持とうとしなかった。どうせ転校してしまえば全てを失ってしまうのだ。

 恋愛だってそう。六月に青少年自然の家で行われた集団宿泊研修で、しきりに話題に挙がっていた「二組のアリスちゃん、野球部の三年生と付き合ったらしいよ」という噂話にも、まるで興味が湧かなかった。

 どうせ転校してしまえば──

 それはまるで引力のように、どんな時でも作用していた。

 春人とは違うクラスだった北川有栖ありすは、入学当初から校内でも男女問わず人気のある、明るくて元気な女の子という印象だった。肩にかからない程度に切りそろえられたミディアムボブの髪型はその丸みが可愛らしく、時々チラリと見える意外にも大ぶりな耳はかなりの福耳で、本人曰くそれはコンプレックスだったそうだが、周りからの評判は軒並み高かった。学校イチとまでは言わないが、その容姿は春人の目にも立派に整っているように映っていた。

 彼女と喋るようになったのは、同じ生活委員会の活動で定期的に顔を合わせるようになったことがきっかけだった。互いに帰宅部だったこともあり、放課後、よく二人で廊下に貼り出された掲示物を新しいものに貼り替えて回った。半年以上付き合っていたという、二つ上の野球部の先輩にフラれたらしいことも、その仕事をしている最中に聞いた。

 突然の暴露に驚いた春人に向かって、北川さんは呑気にこめかみ辺りを指で掻きながら、「へへへ」と笑うばかりだった。そんな彼女に春人は「辛い時は無理して笑わないでいいと思う」と、素直な気持ちを伝えた。

 しかし、彼女はそれでも涙を流さなかった。

 ややこしい性格をしているなと、春人は彼女にそう思った。

「春人ってさ、これまでどこに住んだことがあるの?」

 いつしか当たり前のように春人は呼び捨てされるようになっていた。

「日本だと東京と京都、あとは沖縄かな。それとまだ小学生になりたてくらいの頃は、アメリカのテキサス州ってとこに住んでたよ」

「アメリカ!? すごっ。帰国子女じゃん」

 身の上話をするのはあまり好きではなかったが、顔の筋肉を全て使って感情を示してくれる北川さんの反応はいつも新鮮で、話していて楽しかった。

「ハロー! ハウアーユー?」

「ごめん。俺、英語喋れないんだよ」

 え、うそ、と残念そうに声を漏らす彼女の顔が可笑しくて、つい笑ってしまった。鳩が豆鉄砲を食らったような顔って、きっとこのことを言うんだと思った。

 長いため息を吐いてわかりやすく落ち込む彼女に「ごめんって」と謝ると、しばらくふくれたままの顔で睨みつけられた。

「……やっぱり北川さんって可愛いよね」

 二、三秒経ってからようやくハッとした。何を言っているんだ俺は。

 春人はすぐに彼女から目を逸らし、足元に視線を落とした。絶対に変な目を向けられているに違いない。いきなりあんなことを言い出すなんて、キモいと思われているに決まってる。やがて脇の下に嫌な汗を感じ、顔が燃えるように熱くなった。

「どういう意味?」

 恐る恐る顔を上げてみると、北川さんはわざとらしく細めた目でこちらをじっと見つめていた。その視線が否応なく春人の心臓を斬りつける。それが軽蔑か嘲笑か、それとも嫌悪だったのか、瞬時には判別がつかなかった。

「いや、別に変な意味じゃなくって──」とすかさず春人が弁解しようとすると、今度は彼女がその声に覆い被さるように、

「ばーか。私が可愛いことなんて千年前から決まってるっつーの。今更そんなこと言ってこないでよ」と彼女の声が廊下に響いた。

 それを聞いて少しだけ安心したのは、最後に北川さんがいつも通りの笑顔を浮かべていたからだった。どうやら、怒っていたというわけではなかったらしい。

 二年生に進級してからも、二人はなぜか成り行きで、また同じ生活委員会に入ることになった。

「今年も部活入らなかったんだね」

 春人が放課後に階段の踊り場から校舎の外を眺めていると、北川さんは後ろからそう声をかけてきた。

「北川さんも入ってないじゃん」

「私はいいのよ。だって本当にスポーツとか興味持てないんだもん」

「でも、去年は野球部の先輩と付き合ってなかったっけ?」

 間髪入れず、背中を思い切り叩かれた。

「それとこれとはわけが違うの。確かに自分でするのは苦手だけど、誰かが一生懸命になってる姿を見るのは割と好きな方だし」

 窓の外ではサッカー部の部員たちがシュート練習をしているところだった。春人は後ろに回した手で背中をさすりながら、そんなものかなあ、と物思いにふける。どちらかといえば俺はその逆かもしれない。彼らが必死にボールを追いかけている姿を見ていると、どうも胸が詰まってしまうみたいだ。いいなあという声は、知らず知らずのうちに漏れていたらしい。

「やってみればいいじゃん、サッカー。興味あるんでしょ?」

「なんでそうなるのさ」春人は笑って誤魔化した。

 引き出しの奥に隠していたものを勝手に覗かれたみたいで、少し嫌だった。それに、一度は親のせいだと折り合いをつけて諦めたはずの過去に、自分が未だにしがみつこうとしているようで、なんだかみっともない気がした。

 初めて春人がサッカーボールに触れたのは、まだ小学三年生の時だった。当時のクラスメイトの父親が、都内のサッカークラブでコーチをしているというので、試しに練習を見学しに行ったのが始まりだった。

 そこで試合形式の練習に混ぜてもらった春人は、終始、相手ゴールに近い最前線の位置で仲間のパスを待っていた。初めて訪れたシュートチャンスには身体が全く反応できず、ボールに触る前に相手キーパーにキャッチされた。続けざまに訪れた二度目のチャンスは豪快な空振りを披露し、相手ディフェンダーに「大丈夫?」と心配されてしまった。

 そして終了間際に舞い込んできた最後のビッグチャンス。春人は、右足を思い切り振り抜き、見事、ボールはキーパーの手をかすめてゴールのサイドネットに突き刺さった。みんなが「ナイスゴール」と喜んでくれた。付き添いで来ていた母も、ピッチの外で飛び跳ねながらこちらに手を振っていた。

 サッカーを始める動機なんて、その時に味わった快感だけで充分だった。家に帰った春人はすぐさま父に頼み込み、次の日からそのサッカークラブに入れてもらった。

 毎日サッカーボールを追いかけ回っていた日々は楽しかった。サッカーを通じて友達がたくさんできた。練習のない日には誰かの家で宿題をしたり、公園に集まって遊んだりもした。そして、みんなでいつか全国大会に出よう、という大きな目標もできた。

 しかし、春人はその目標を叶える前にみんなを裏切った。小学六年生になる直前に父の転勤が決まり、この町に引っ越すことになった。

 春人にとって最後の練習が終わった時、帰り際にある一人のチームメイトから「嘘つき」と言われた。ひどく充血した涙目でじっとこちらを睨みつける彼に、春人は何も言い返せないまま、しばらくその場から動けなくなった。どうして約束なんてしてしまったんだろう。俺は今まで何のために、あんな必死になってボールを追いかけていたんだろう。途端に虚無感に囚われた春人の目からは自然と涙が溢れた。大人の事情に振り回される自分の無力さに、奥歯を食いしばった。

 その日以来、春人はサッカーボールを追いかけることをやめた。

 必死になって追いかけたところで、その先に何もない未来が待っているのなら、そんなものは最初から追いかけない方がいいに決まってる。どうせ転校してしまえば全てを失ってしまうのだ。

 そう自分に言い聞かせることでしか、涙が止まらなかった。

 今更、本当はサッカーがやりたいだなんて、恥ずかしくて口が裂けても言い出せなかった。

「じゃあさ、明日サッカー部の入部届け出しに行きなよ」

「え、さっきの話聞いてた?」

「聞いてたけどなに? 好きなら迷わずサッカーすればいいじゃんっ」

 北川さんのあっけらかんとした声が階段の踊り場に響く。

「いや、でも、俺だって辞める時はそれなりに覚悟が必要だったんだ。そう簡単には決められないよ」

「覚悟って?」

 思っていた以上に詰め寄ってくる彼女に、春人はついたじろいでしまう。

「と、とにかく、俺はもう嘘つきにはなりたくないんだ」

 自分からサッカーを遠ざけてしまったあの日から、もう一度輝くようなあの場所で堂々とボールを蹴れる自信はなかった。また自分だけが惨めな思いをしてしまうんじゃないかという不安で、頭の中は今にも災いを引き起こしてしまいそうなただならぬ黒雲に覆い尽くされていた。

「だったらもう、自分に嘘つくのやめなよ」

 穏やかな声でそっと彼女は言った。

 澄んだような綺麗な瞳が真っ直ぐに春人を射抜く。

「それに一度でいいからさ、私も春人が本気でボールを追いかけてる姿を見てみたいの。だから応援させてよ、春人のこと」

 そう言っていつも通りの笑みを浮かべる彼女に、やはりすぐに返事はできなかった。それでもその時、雲の隙間から尾を引くような光の筋がほんの僅かに見えた気がしたのは、きっと錯覚ではなかった。

「……考えておくよ」

 ややこしい性格をしているなと、春人は自分にそう思った。

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