西風

えーきち

辛い、辛い辛い辛い……

「それはまた気が長い話ねー」

 僕の話に妻は目を細め、とてもおかしそうにクスクスと笑った。


 唐辛子を育てようと思った。

 忙しいとき簡単に作れるからとたまたま置いてあったパスタに、本格的にはまってしまったのが半年前。

 色々なメニューのパスタを作るにつれ、常備する食材も増えてきた。

 定番のメニューでも、試作でも、失敗してしまったときだって、妻はいつもニコニコ笑って僕の作ったパスタをよろこんで食べてくれた。

 一番のお気に入りは、ベーコンとニンニク、それと唐辛子をオリーブオイルで炒めただけのオーソドックスなペペロンチーノだった。

 幸せそうな顔で食べる妻を見たくて、もっともっと美味しいパスタを作りたいと思った。

 けれども、食材だって安くはない。

 たまに作る程度なら気にならない金額も、週に何回も作っていると気になってくる。

 かと言って、安い中国産は買う気にはなれない。

 ニンニクだって唐辛子だって、国産の方がずっと風味が豊かで美味しいから。

 だから、唐辛子を育てようと思った。

 他にもニンニクにしようかバジルにしようか悩んだのだけれども、保存のしやすさや育てるのが簡単だということで唐辛子に決めた。

「それはまた気が長い話ねー。でも、楽しみにしてるね」

 そう言って笑う、妻の笑顔が好きだった。

 大きな目を細め、かわいい顔をくしゃっと歪める妻の笑顔を見ているだけで僕は幸せだった。

 ずっと――ずっとそうやって笑っていてほしかった。

 早速僕はインターネットで調べ、縦に三つ横に八つ並んだ小さな育苗ポットと唐辛子の種をホームセンターで買ってきた。

 放っておくと雑草だらけになる庭の一角をキレイに掘り起こして小さな畑を作り、そこの土を育苗ポットに入れて種をまいた。

 茶色の野山に春の兆しが訪れる、あたたかな風が吹き始めた頃に。

 なにもかも初めてのことで勝手がわからなかったが、そこもネットで調べ芽が出るまでは新聞紙を被せておいた。

 新品のじょうろで毎日水をあげて数日、新聞紙を取るとちらほらと明るい緑色の小さな葉っぱが出ていた。

 それまでモノクロームだった育苗ポットが、途端に華やかになった気がした。

 妻にそれを話すと、まるで子供みたいだとクスクス笑っていた。

 もう少し芽が大きくなったら畑に植えようと楽しみにしていたのだけれども、いつまで経っても芽が出てこない育苗ポットがいくつもあった。

 そうじゃなかった。

 出てきた芽もいつしかなくなっている事に気づいた。

 犯人はダンゴムシだった。

 新聞紙は保温と保湿のためで、芽が出てきたら取らないといけなかったらしい。

 そのせいで、暗がりを好むダンゴムシが新芽を食い荒らしてしまったのだ。

 ぼくは慌てて新聞紙を取り、陽当たりのよい縁台に育苗ポッドを移動した。

 すると唐辛子の芽はすくすくと育ち、一月もすると育苗ポットから根がはみ出るくらいになった。

 育苗ポッドをひとつひとつハサミで切り離し、等間隔に畑に植えていく。

 残った苗はちょうど十株。

 小さな畑で育てるには充分な数だった。

 それからというもの、唐辛子の苗への水やりが仕事へ行く前の日課になった。

 朝起きて、なにをやるよりも早くに庭へ出て、すくすくと大きくなっていく唐辛子の苗へ水をやる。

 毎日毎日、それがたとえ休日であっても、出勤日と同じ時間に起きてまずは水をやる。

 晴れた日も、曇った日も、暑い日も、寒い日も。

 ただ唐辛子を育てるだけなのに健康的になったと、妻はうれしそうに笑っていた。

 梅雨前線が日本の上に停滞するようになると、一日中しととと雨が降ることも多くなり、育っていく唐辛子に毎日水をあげることも少なくなった。

 七月も中頃になると一週間雨が降り続くこともあった。

 水をやらなくてもいいのになんだか寂しくて、僕は出勤前には必ず唐辛子の様子を庭まで見に行っていた。

 唐辛子の株もかなり大きく育ったので、風雨で倒れてはいけないと、買ってきた園芸支柱を根元に差し茎を軽く結んでやった。

 いよいよ梅雨が明けた。夏も本番だ。

 陽射しがきつくなり、うだるような暑さになってくる。

 水やりは特に気をつけないといけない。

 朝にたっぷりとじょうろで水をやり、陽が高くなる頃に水をあげてはいけない。

 痛いほどの強い陽射しで地面に染みた水がお湯になってしまうらしい。

 そうすると、せっかく大きくなった唐辛子の株がかれてしまう。

 唐辛子どころか植物を育てるのも初めてだった僕は気が気でならなかった。

 そんな僕を見て、妻はやっぱり笑っていた。

 そんなに心配しなくても大丈夫だよって。

 妻の笑顔を見ていると、なんだか取り越し苦労な気がしてきた。

 そんな矢先だった。

 僕は右足を骨折してしまった。右足小指の付け根のところを。

 会社へ行くために、妻の運転する車で駅まで送ってもらっている最中に。

 それは梅雨が明けてすぐ、本格的な暑さが訪れる七月の終わりだった。

 小指とは言え、骨折は骨折。おまけに歪んだ車体に足を圧迫されたため足の甲が小さな圧挫傷になっていた。

 ギプスで足首を固定して包帯でグルグル巻きにされ、病院で松葉杖の使い方を教わった。

 幸いにも僕は全治一ヶ月程度で済んだけれども、こんな足では仕事にならない。

 居間から庭の唐辛子を眺めるだけの夏の暮らしが始まった。

 それからしばらく人の出入りが多かった。皆がみな、足を怪我した僕を心配してか大丈夫かと声をかけてきた。

 でもそんなことよりも、僕は唐辛子の方が心配だった。

 うんざりする蝉の声と、クーラーをつけてジッとしているだけなのに汗ばむ暑さと、僅かな風にゆらりと揺れる唐辛子の葉。

 足が痛くても、松葉杖で歩きづらくても、朝早くに起きて水をあげなければいけない。

 隣の部屋で今日も変わらず笑っている妻に美味しいパスタを作ってあげたいんだ。

 水やりは、居間のアルミサッシから庭に出るのが一番手っ取り早いのだけれども、ウチの場合は基本的に居間のアルミサッシは開放厳禁だった。

 特に夏は、妻の大嫌いな虫が居間に入ってきてしまうためだ。

 網戸にしたときでさえ、隙間から小さな羽虫が入ってきたと大騒ぎしたくらいだから、真夏でも居間は締め切っている。

 そんな虫嫌いの妻に唐辛子の水やりは最初から論外だった。

 どんなことがあろうとも僕がしっかり水をやらないと。

 骨折したからなんて言っていられないんだ。

 世間はお盆に入り、早めの夏休みに入っていた僕にやっと追いつきてきた。

 ふと気づくとワサワサした緑の葉っぱの中に、小さな白いものが見えた。

 凸凹した歩きづらい庭を松葉杖をつきながら注意深く移動して、生い茂った葉っぱをかき分けると、そこには小さな花が咲いていた。

 松葉杖になってから庭の移動が大変で、軒下にある水道からシャワーヘッドつきのホースで庭の端っこの畑に向かって雨のように水をかけていたから今の今まで気がつかなかった。

 よく見ると、あちこちにつぼみがある。他にも咲き始めているものも。

 思わず顔がほころぶ。

 なんの知識もなく種から育て始め、ネットの情報頼みでも意外となるようになるものだ。

 色々なサイトを見返すと、肥料の正しいまき方や畑の土の作り方、保温保湿のために黒いビニールを地面にかぶせた方がいいとか、やっていないことだらけだったのに。

 急いで報告しに部屋に戻り興奮ぎみに話す僕に、妻もうれしそうに笑っていた。

 もう何ヶ月もすれば、自分で育てた唐辛子を使って美味しいペペロンチーノが作れる。そう思ったら、俄然ヤル気が出てきた。

 九月も頭をすぎるとやっと足のギプスは取れ、仕事も再開した。

 唐辛子を育てるだけの日常から離れるのは少し寂しくもあった。

 そう言うと、妻はおかしそうに笑っていた。

 その頃には花も落ち、艶々した小さな実がいくつもなっていた。

 ネットで調べても結局よくわからなくて、摘心も脇芽も取っていなかったから不安だったけれども、水と定期的な肥料だけですくすくと育ってくれてホッとした。

 十株ある唐辛子全部が、まるで花のようにたくさんの実をつけていた。

 せっかくだからスーパーでは見かけない青いままの唐辛子を少しだけ収穫して、ごま油と醤油で炒めてみた。

 薄く湯気の立ち上る熱々の唐辛子を箸でつまむ。

 見た目はシシトウ。そう言えば、シシトウと唐辛子の違いってなんなんだろうと考えながら口の中に放り込む。

「あーっ!」

 からいっ!

 シシトウにもからみが強いものが混じっていたりもするけれども、それとは比較にならないくらいからい! けれども……

 美味しい。

 ちびちび食べれば美味しく食べられるし、日本酒がとってもよく合いそうだ。

 だからと言って食べすぎると、目的の赤唐辛子の収穫量が減ってしまうからほどほどにしておかないと。

 僕が初めて育てた唐辛子だ。

 いくら妻がペペロンチーノ好きと言っても、そればかりを作っているわけじゃないから、これだけの唐辛子があれば、二年――いや三年は買わなくても済む。

 唐辛子を使わないパスタのレパートリーだってたくさんあるのだから。

 居間のアルミサッシの引き戸から唐辛子を眺める。

 もうじき、もうじき念願の収穫だ。

 唐辛子を育てると言ったときは笑われたけど、今なら……

 十月の半ば、やわらかな風が庭の木を揺らす中、僕は唐辛子の株をぜんぶ根本から引き抜いた。

 それを軒先に張った紐にたわわに実った赤い実を下にしてぶらさげた。

 風通しのいい場所に、突然の雨に降られても濡れないように。

 一週間もするとカラカラに乾燥した唐辛子が、風に揺られてもの悲しくカサカサと小さな音を立てていた。

 それを部屋に広げた新聞紙の上で、ひとつひとつ実を丁寧にハサミで切り落とした。

 艶々した真っ赤な唐辛子は、大きめの保存パックに二袋にもなった。

 いよいよだ。

 まな板の上でニンニク一片の根元の固い部分を切り落としてから半分に割る。

 中にある芽はすぐに焦げてしまうのでこの段階で取り除いておく。

 あとは薄くスライスするだけ。

 春から育てやっと収穫できた唐辛子は、ヘタをキッチンバサミで切り落として、中の種をつま楊枝でほじくり出す。

 種を取った唐辛子をキッチンバサミで小さな輪っかに切り落としていく。

 次はブロックベーコンを太めの短冊にスライスする。

 準備はこれだけ。

 イタリアではアーリオ・オーリオ・ペペロンチーノは家にあるものだけで作れる簡単なメニューだから。

 ただし、ちょっとした塩加減で美味しさがまったく変わってしまうから味付けには注意が必要だ。

 大きな鍋に大きめのスプーン三杯の塩を入れてお湯を沸かす。

 浸透圧がどうとか言う人もいるが、単純に麺に塩味をつけるつもりで。

 バリラのナンバー5を二百グラム計り、鍋にパスタの花を咲かせる。

 フライパンにオリーブオイルをひいてニンニクと唐辛子に火を入れる。

 フツフツとオイルが泡立ち始めると、辺りにニンニクの香ばしい匂いが漂う。

 パスタがくっつかないように菜箸で鍋をかき混ぜて、フライパンにはベーコンを投入する。

 弱火でじっくり炒め、指先でつまんだ塩をパラパラと振りかける。

 そこへ白ワインと茹で汁を入れ、茹で上がったパスタを鍋からトングで移す。

 フライパンに広がったパスタの山にオリーブオイルを軽く一回しかけ、菜箸でグルグルとかき混ぜる。

 あとは皿に盛りつけ乾燥バジルとブラックペッパーを振りかければ、完成だ。

 できた。

 僕が育てた唐辛子で作ったペペロンチーノが。

 妻の前にテーブルを移動して、パスタの皿を並べる。

 妻は今日も笑っていた。

 白い皿に盛られた薄い黄金色の山に、シルバーのフォークを立てくるくると回す。

 モチッとした艶のある麺を持ち上げると、その隙間にベーコンや唐辛子が一緒に巻き取られてくる。

 ニンニクとオリーブオイルの香りがフワリと鼻をくすぐる。

 恐るおそるそれを口に入れると……からいっ!

 でも、美味しい!

 辛い、美味しい、辛い辛い、美味しい!!

 妻に美味しいペペロンチーノを食べさせたいというだけで、唐辛子を作ろうと思った自分をほめてやりたい。

 今まで食べたどんなペペロンチーノよりも美味しい。

 美味しい、辛い辛い、辛い、辛い……

 辛い……辛いな……辛いよ……辛いんだよ……

 気がつくとテーブルが僅かに濡れていた。

「来年はニンニクも育てようかな? その前に自家製パンチェッタを作ってもいいな。ねえ、どう思う?」

 僕の向かいでずっと笑い続ける妻に向かって問いかける。

 ひときわ強い風が吹いて、引き戸のガラスをガタガタと揺らした。

 まるで「それはまた気が長い話ねー」と妻が言っているようだった。


【了】

 

 

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西風 えーきち @rockers_eikichi

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