時速285kmの告白
冬寂ましろ
* * * * *
あれだけ待っていた電話なのに、画面に踊る彼女の名前を見ていたら、ためらう気持ちが心にあふれだした。用件はわかっている。出ないほうがいいのだろう。私の友達なら絶対にそう言う。
でも、そんなことをしたら彼女との関係がもっとめんどくさいことになる……。
仕方がない。テーブルの上で震えていたスマホを手にすると、意を決して画面に触れた。それからゆっくり耳に当てる。風が低く悲鳴をあげているような音がしていた。私はその先にいる彼女に向かって、短く言葉を投げた。
「いまどこ?」
返事がない。風の音だけがずっと聞こえている。
「ねえ、千鶴。どこなの?」
問い詰めるようなキツい声を出してしまって、少し後悔をした。私は千鶴を責めることができない。それから少しして、千鶴の熱を帯びた声が私の耳に届いた。
『……好き』
それは彼女に抱かれてから、何度も言われた言葉だった。ずっと拒んでいるのに……。やっぱりこの電話で私をあきらめるように説得するしかないのだろう。
「いまどうしているの? 東京へ戻ってるの? 電話がしづらいところなら……」
『ううん、違う。新幹線の中。大阪から出る最終に乗ったの。デッキのところにしゃがんで電話しているから。名古屋出たとこ。だから、ずっと話せる』
たどたどしく言葉が紡がれる。落ち込んだ声のトーンから、しょんぼりとうなだれているのだろうとは思った。
ちらりと部屋の時計を見る。22時20分。たしか東京から名古屋までは1時間半ぐらいだったはず。あとそれぐらいの時間で、私達の関係が決まる。
「寒くない?」
『ちょっと寒い』
「体冷やさないほうが良いよ」
『うん……』
カーテンを外した窓からは、街灯に照らされた黄色いイチョウが見えていた。がらんとしたこの部屋は寒かった。何か温かいものが飲みたい。これからしばらく話し続けるのだから。
私は椅子から立ち上がる。スマホを耳に当てながらカウンターキッチンまで歩いていく。いろいろ片付けたせいで、そこには最低限のものしかなかった。捨てられなかったお気に入りのコーヒーカップと紅茶用のフレンチプレスをカウンターに並べる。
電気ケトルを水道の水で満たしながら、少しいじわるに思うことをたずねた。
「東京に着いたら、拓雄さんとこへ帰るんだよね?」
『帰らない。史緒さんとこへ行きたい』
「そんなことしたら拓雄さんがかわいそうでしょ?」
『深夜バスで帰るって嘘ついたから。拓雄にはばれないと思う』
「そういうことじゃなくて……。拓雄さんと千鶴は、大阪からわざわざ東京まで駆け落ちして来たのに。拓雄さんは千鶴を助けてくれた人だよね?」
『そうだよ。私はあの家から救われた。そして自分の子供を捨てたんだ』
千鶴がきつくそう言う。どう返事したらいいのかわからないまま、電気ケトルのスイッチをパチリと入れた。
『史緒さん、知ってた? 失踪してから3年経っていると離婚できるんだって。裁判所で怒られると思ったけど、ふたりの子供の養育費を払うだけで済んだよ。毎月5万円。ふたりぶんで10万円』
「払えるの?」
『わからない』
「夫に包丁で脅されていたとか、お義母さんにきつい言葉でずっと責められていたとか、裁判所の人にちゃんと説明したの?」
『しなかった』
「なんで?」
『それが私の罰だから』
戸棚には中挽きのコーヒー豆しかなかった。片手でやりづらくなって、スマホを肩と頬で挟むと、両手でコーヒー豆の袋を開けた。その中身をフレンチプレスへざらざらと流し入れた。
『史緒さんはいま何してるの?』
「コーヒー淹れてる」
お湯が沸いた電気ケトルを手にして、フレンチプレスへゆっくり注ぐ。コーヒーの香ばしい匂いがふつふつと立ち上っていく。
『あったかそうだね。史緒さんが淹れてくれたコーヒーが飲みたい』
「今日は拓雄さんとこに帰りなさいって」
彼女は答えなかった。時が流れていく。耳元には風の悲鳴だけが聞こえていた。ちらりと時計を見ると、もう23時になろうとしていた。
『……なら、どうして私の誘いに乗ったの?』
私は押し黙ってしまった。畳みかけるように千鶴は言う。
『どうして私に抱かれたの? 私、女の人は初めてだった。でも史緒さんだから、私は抱けたんだ。私は史緒さんのことが好き。ずっと一緒いられる。愛してあげられる。誰よりも絶対に……』
最初に私を抱いた大人の女の姿がちらついた。若い蜜を吸った彼女は、すぐに私を捨てた。それから何かを埋め合わせるように、私は別の女を求めた。何をしても満たされないときに、彼と出会った。子供が欲しかった。親を安心させたかった。だから結婚した。でも、そんな理由では生活は続かなかった。
『史緒さんも旦那さんとは別れたんでしょ?』
「うまくいくと思ってたんだけどね。私さえ我慢していればいいって思ってた。でも結局壊れちゃった」
私は同性が持つ熱でしか、自分を燃やすことができなかった。あの熱を忘れることができなかった。彼はそんな私を知ることになった。
『さみしかったから抱いたの? 違うよね?』
「離婚したばかりだったから……」
『嘘。言い訳しないで』
「ごめん……」
私のうかつな謝罪は、千鶴を怒らせてしまった。
『なんで謝るの? 謝られるようなことなの? 史緒さんだって私をあんなに愛してくれて……』
「でも、これは良くないことだよ」
『良くないって誰が決めたの?』
「普通に考えたらそうなるよ」
『普通って何?』
「拓雄さんは私の仕事を手伝ってくれている人だし、そんな人の彼女を寝取ったなんてだめでしょ?」
『だから?』
「歳も8つ違う。千鶴はまだ25なんだから、これからいくらでも……」
『だから、なに?』
浮気、不倫、略奪愛。歳の差。そして女同士の恋愛。
あといくつ私達は罪を重ねればいいのだろう。
カップに注いだコーヒーに目を落とす。それは黒い泥のように見えた。
「……気の迷いだから。拓雄さんと暮らしているうちに、千鶴はいつか私を忘れるから」
『なんでそんなひどいことを言うの!』
千鶴の叫び声が私を揺さぶる。コーヒーに口をつける。手の震えが唇に伝わる。私は目をつむると、あのときの気持ちを静かに話した。
「本当言うとね。千鶴をちょっとかわいそうに思ったんだ」
『かわいそう?』
「拓雄さんはああいう性格の人だし、千鶴が逃げられないのを良いように利用しているように見えて」
『そうじゃないよ?』
「うーん。どうかな……。私は彼とは不公平な関係だったし。こんな女と付き合えるのは俺ぐらいだって、よく言われてたから。だから、千鶴のことをかわいそうに思った」
『……私は史緒さんのことをずっとかわいそうに思ってたよ』
「そうなの?」
『うん。拓雄と一緒に会ったときも、お酒飲みながら私と話しているときも、ずっと悲しそうにしてたから』
「そっか。私達かわいそう同士か……」
『うん……』
つらい目にあったのは千鶴も私もいっしょだ。でも、だからこそ千鶴には幸せをつかんで欲しい。私みたく陰に潜むような人生を送って欲しくない。
「ねえ、千鶴。聞いて。私はどうにもならなかったから、千鶴には普通のありふれた幸せをつかんで欲しいの。最初の家庭は失敗したかもしれない。拓雄さんともむずかしいかもしれない。それでももっと良い男の人と結婚して、幸せな家庭を作って欲しいんだ」
『それは史緒さんがそう思ってるだけだよ。私は史緒さんといっしょにいたい。それが私の幸せなんだ』
「でもね。女同士って、やっぱりたいへんだよ。どうでもいいことにつまづくし……」
『史緒さんは本当のことをまだ話してない』
「本当って……」
『史緒さんの気持ちはどうなの?』
私の気持ち……。そんなのはどうでもいい。
私はずっとそうしてきたように、自分の気持ちを隠した。私にとって「誰かを好きになる」ということは、おぞましいものだったから。
そう言う千鶴のほうはどうなのだろう。
「どうして私が好きなの?」
『ギスギスしたところがないから』
「ギスギス?」
『みんな私に怒る。でも史緒さんはずっとやさしくて、そばにいると日向のように感じる』
それは私もそうだよ。目をつむって、そう叫びたいのをぐっと我慢した。
「……普通じゃないんだよ」
『普通なんか、もう……』
千鶴の言葉が途切れた。電話から電子音だけが流れる。トンネルに入ったのだろうとは思ったけれど、千鶴の声がやっと聞こえたときは心から安堵した。
『熱海過ぎたって。もうすぐ東京に着く』
「そう……」
『どうするの?』
私は揺れていた。
いまはいいけど、いつか別れるかもしれない。でも……。ううん、ダメ。それはダメ。千鶴の将来のことを思ったら……。
「拓雄さんに悪いし、残してきた子供だって、いつか……」
『もう! そんなのどうでもいい。どうでもいいでしょ!』
千鶴は私に怒っていた。気持ちを素直に話さない私に怒っていた。
『お願いだから、史緒さんの本心を聞かせてよ!!』
本心……。
私の中身は女だ。同性が好きでも女なんだ。
だから自分に惚れた人の手をつかむというのは、女のプライドなんだろうと思った。
何かが切り替わった。
預金を崩せば慰謝料ぐらい払えるだろう。拓雄さんにもお金を取られる気はする。弁護士ぐらいつけないと……。
私はひどく現実的なことを考え出した。その中心には千鶴がいた。
「……わかった。迎えに行くよ」
それが千鶴への告白の言葉になった。
「八重洲北口の改札でいい? いまから出たら、ちょうど会えると思う」
千鶴は返事をしてくれなかった。
「ねえ、聞いてる?」
『うん。ありがとう……』
「電話切るよ。ちゃんと待っててね」
『うん、うん……』
千鶴のくぐもった涙声が、耳から離れていく。
私はあわてた。
長い髪を洗面台に置いていたシュシュで適当に結う。それから適当なコートを羽織り、適当なスニーカーを履く。走って駅まで行って、電車に飛び乗った。
たいへんなことになったのはわかっている。私は千鶴の人生をさらにめちゃめちゃにするのだろう。私の初めての女が私にしたように。
それでも、ずっとふわふわとしていた。自分の中にまだこんな乙女みたいな感情が残っていたことに驚いていた。
スマホが震える。メッセージが来る。『新横浜を出た』、『品川に着いた』。東京駅の改札の前に来ると、『着いた』とだけ届いた。
千鶴の姿が見えた。黒いコートにゆるくウェーブしたかわいらしい髪が揺れている。切符を改札に通すと、千鶴は私に駆け寄ってきた。
「史緒さん!」
「おかえり、千鶴」
体が勝手に動いた。彼女をぎゅっと抱きしめる。それだけで、いろいろな考えが飛んでいく。いまはこの暖かさだけでいい……。これだけで……。
「ちょっと恥ずかしいかも」
そう言って少し嫌がる千鶴を、私はしっかり捕まえて耳元でささやいた。
「これが私の本心だから」
あれから10年が過ぎても、私達は離れないでいた。家も職も、親との関係も友達との距離も、みんな変えるしかなかったけれど、それでも私は彼女の手を離さなかった。
私達に対する人の感情は、お金に換算して償うほかなかった。一緒に暮らし始めた頃は、スーパーで品物の値札を見て逡巡するような日々だったけれど、最近はどうにか好きなものが買えている。
ふたりしか座れない水色のソファーで、私達はコーヒーを飲んでいた。あの日と同じ秋が深まった時期なのに、ここは寒くはなかった。
千鶴は暖かい日向の陽に照らされながら、両手でカップを抱えている。それはとても温かそうで、私達が守ってきたさささやかな幸せだった。
私はカップを手にしたまま千鶴にたずねた。
「なんであんなこと言ったの?」
「なにを?」
「ほら、新幹線の中で。私は千鶴の言葉で人生変わったんだから」
「もう忘れた」
千鶴が照れながら話をはぐらかす。引き留めたかったとか、断られても家に行ってたとか、なにかこう必死そうな言葉を聞きたかったのに。
私はすねたように言う。
「ひどい」
「そう?」
「愛してる」
少し驚いて、それからやさしくなっていく千鶴の笑顔を、私はずっと見つめていた。本当の気持ちは、口にすると甘くて苦かった。私はその余韻を黒い泥のようなコーヒーといっしょに飲み干した。
<了>
時速285kmの告白 冬寂ましろ @toujakumasiro
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます