恋とチョコレートとご長寿くるまミサイルによる突然の死

和田島イサキ

吹っ飛んでも「ハッ」ってやるとなんか治る、恋のパワーで

 忘れてしまいたい思い出ほど残り続けるもので、例えばバレンタインの手痛い失敗がそう。


 恋って儚い。昔はこの気持ちひとつあれば誰にも負けないと思っていた。そんなわけない。いくら恋する十代が無敵でもアクセル全開の自動車には勝てない。一瞬だった。先輩のためなら私死んでもいいと、そんな思春期特有の安い自己陶酔が突然現実になって、えっ待って聞いてないヤダ死にたくないヤダヤダーッと、そう流した涙の数だけ人は強くなるのだ。

 アスファルトに咲いた真っ赤な花のように。


 もちろん今では跡形もない。ちゃんと掃除もされたし、道路自体があれから二度ほど舗装され直した。ちょっと大きめの交差点。事故現場そばの電柱の根元に、近頃はもう花を手向ける人も少ない。

 あれから十年。事故の記憶が人々の中から薄れるにつれ、私の存在も自然と消えていくのだと、そんな思い込みにはよく考えたらなんの根拠もなかった。むしろ半透明だった手足が年々くっきりしてきているのだから、やっぱり何事も経験してみないとわかんないものだなって思う。


 たぶん、世に言う幽霊ってやつ。

 そうじゃなかったら怨念だ。非業の死を遂げた十六歳の少女の。


 未練はあった。当たり前だ。好きな人への告白直前に玉砕するとか、未練の中でもかなりの上位レベルだと思う。奇しくもその日はバレンタイン、後ろ手にチョコレートを隠し持ったまま、憧れの先輩を夢中でけ回していた最中の凶事だった。

 車は、なんかよく見るやつ。運転していたのはご年配の方で、まったくブレーキを踏んだ形跡がなかったそうだ。認知力の低下とは怖いもの、でもそこは私もあまり人のことは言えない。

 見えてなかった。大好きな彼の背中以外、何も。

 おかげで車にねられたという自覚さえなく、身を庇う動きをまったく取れなかった。それも死因のひとつには違いないから、まあそんなに気にすんなよって思う。加害者のご家族に対しては。運転席のお前は少し気に病んでほしい。私はともかく、先輩はあれ以降チョコが食べられなくなったって聞いた。吐いちゃうらしい。どうしても思い出しちゃうんだとか。あの日、目の前で咲いた小さな恋の花(物理)を。


 十年も経てば現実も見えてくる。

 どのみち、あれは叶わぬ恋だった、と。


 だいたい、こっそり尾け回してる時点でもう全然ダメだ。もっとガッと行ってオラッと渡して「ヘイ! 好きだぜ!」って言っちゃえばいいのに——というのは、つまり「その程度のこともできない状態でどうお付き合いする気なのお前」ってことだ。子供はアホなのでもじもじしてたら向こうが勝手に好きになってくれると思ってしまう。そんなわけない。視界の外でずっともじもじしてる女の印象は、彼の中では永遠にゼロのままだ。視界の外だから。


 同じ轍は踏まない。死んでから言うことじゃ正直ないけど、人生やらない後悔よりやる後悔だ。


「ヘイそこの! 好きだぜ!」


 叫び、同時に飛びかかる。最近、よく原付でこの交差点を通りかかる、たぶん二十代半ばくらいの素敵な男性に。

 すぐわかる。顔がいいから、というのも正直なくはないけど、なんとなく親近感のようなものがあった。まずと黒衣を着ていてヘルメットの下もつるつるで(一度徒歩だったときに見た)、そして通りかかるたびにチラチラこっちを気にする。意識している。明らかに。最初は「エッなんだこの謎のバイクハゲ」くらいの認識だったけど、何度も目が合ううちにだんだん気になってきた。一応言っておくけど別に惚れっぽいとかではない。ただ、いないのだ。彼の他に、いまの私と目が合うような男って。幽霊だから。

 とにかく、飛びついた。原付の上の彼に、ほとんど抱きつくくらいのつもりで、思い切り。


「あのっお腹空いてません? えっと実は私チョコ作ってきたんです十年くらい前に」


 結局渡すことの叶わなかったハート型のチョコ(の霊体)。それを自然な流れで再利用するのと同時に、彼が「エーッ!?」と叫んで原付ごと横倒しになる。よかった。信号待ち中で。もし走行中だったらまた花が咲いていたところだ。ウワーッごめんそんなつもりじゃと何度も謝ったけど、その返答が「ほんまやで。反省せえ」だったのはどうかと思う。冷たい。こういうときはちゃんと遠慮するというか、そうでなくてもお互い様じゃないだろうか。

 ける間際、彼が必死の形相で投げつけてきたでっかいじゅ。不思議パワーなのか何なのか、綺麗に吹き飛ばされた左半身がスースーする。

 すごい。本物だ。いや本物なのは私の姿が見えてた時点で明らか、なのにこの彼は何をそんなに驚いたのかと、その答えは至って単純なこと。


「いや動けたんお前?! つか喋れんの?! は? どこ住み? いくつ?」


 いわゆる地縛霊、それもぼんやり漂うだけの残滓や思うてた——と、そう言われては恐縮する他ない。いやあ。照れる。うへへー実はこんなこともできますよおと信号をパカパカさせて、そしてわりと真剣めに怒られた。アホかめえ事故増やすなクソボケって。泣く。


 話してみると態度のでかいハゲだったけど、まあ無理もない話。見た目だけで言うなら私はただの子供だ。生年月日を言ったら(だっていくつって聞かれた)「は? 同い年オナイやんけ」と言われて、ここに住んでますって言葉には「まあそない経っとったらなあ……」と渋い顔をされた。元の住所は覚えてない。というか、思い出や記憶はもうずいぶん歯抜け気味だ。所詮は幽霊、どんなに見た目がくっきりはっきりしている風でも、未練以外のことは簡単に消えてしまうものなのだとか。なるほど。さすがはプロ。詳しい。


「勉強になりました。それであのー、チョコ……」

「なんでオバケがチョコ持っとんねん」


 知らない。たぶん手に持ったまま死んだせいだと思う。実際、私は死んでこの方ずっと制服姿だ。髪なんか永久にお団子のままだから窮屈でしんどい。どうやら身につけていたものはそっくり残ってくれるみたいで、でないと幽霊は全員裸になってしまう。それは困る。私はお尻に変な形のほくろがあるから、この人なんか絶対笑ってコケにすると思う。


「さよか。まあ気にしなや。そういうんも個性のうちやで。カワエエやんか」


 えっ、と脈打たなくなって久しい心臓の高鳴りを覚えた、その次の瞬間にはもう走り去っていた彼。遠ざかる原付のエンジン音。まあばっちり黒衣姿なんだからきっとお仕事中で、私の相手なんかしてる暇はないってことなんだろうけれど。でも「は? 結局金か? 生臭か?」の気持ちよりも、「やったーかわいいって言われたー」の方が勝ったのは、正直自分でも意外だった。

 初めてだ。私の容姿を、それもお尻のほくろの形を褒めてくれた人は。

 まあ見てもいないくせに適当言ってる、というのはそうなのだけれど。でもどうせなら前向きに受け取りたい。顔もいいし。あと生臭だからお金も持ってると思う。


 それからの日々はバラ色——とまでは言わないけど、でもちょっとだけ張りと潤いのある毎日になった。

 ほとんど毎日通りかかる彼。私が「ヘーイ」と手を振ると、向こうも「ヘーイ」とは言わないまでも反応がある。眉をひそめて「シィッ」って威嚇してくるとか。でも周囲に人目のないときはもうちょっと気前が良くて、ひとことふたこと言葉を交わしてくれたりもする。

 優しい。こんなに優しい彼に対して、でも私は一体なにが返せるだろう。

 恨めしい。所詮は幽霊でしかない今のこの身が。もっと肉感溢れるムチムチの体がよかった。思えば、今の私には何もない。彼の大好きなお金も、より即物的で汎用的な肉も、あの強欲ハゲの煩悩を満たしてあげられそうなものは、なにひとつ。


ちんねんさん。死ってろくなことないですね。あとお腹空いてません? チョコとか


「せやなあ。死はなあ、ほんっまクソやからな。あと珍念やない。チョコもええ加減捨てや」


 珍念さんというのは私が勝手につけた名前で、だって最初に聞きそびれたんだから仕方ない。その日は珍しくオフの日だとかで、長々雑談に付き合ってくれたから嬉しかった。花束ももらった。とても素敵な仏花のアソートで、「こんなもんいくらでも持ってこれるで」というのはまさしく職業柄だけれど、それでも私は嬉しかった。なんでも嬉しい。たとえ貰い物の使い回しっていうかほぼ盗品でも、顔のいい男が私のために用意してくれるものは。


 何も持たない今の私には、お返しできるものがこのチョコくらいしかないのに。


「……あんなあ、あざみちゃん。捨てられへんのやろ、それ。せやったら受け取られへんわ、絶対あかんやつやもん」


 ちゅうかもうそっちが本体と違うか——と、そういう難しいことはわからない。ただのいち幽霊でしかない私に、坊主業界の専門知識は難しすぎる。そんなことより誰よそのあざみちゃんって一体どこの泥棒猫なのムキーと、その言葉に「あんたや! それも覚えてへんのかい!」と彼。そうだっけ。いや、どうだろう。だって私自身が覚えてない名を、どうして珍念さんが知っているのか。


「キレーな名前やないか。死っちゅうのは大概クソやけど、全部が全部悪いばかりやないで。死んで咲く花実もあるっちゅうことやな」


 難儀したで、調べるの——そう優しく微笑む珍念さんに、私は「やだ優しい。好き。チョコ受け取って」と思う。とても、言えない。さすがに、「は? 嘘では?」なんて。

 あざみ。人名としてはわりとユニークな気がして、そういう意味では本当っぽくもあるけど。

 ——そも、こんな私みたいな半端な存在を、名前で呼ぶこと自体どうなのか。

 記憶も徐々に歯抜けになって、きっと放っておけばそのうち消えるような存在。そんなものに名前を取り戻させて、この人は私をどうするつもりなのだろう。だいたい数珠で半身を吹っ飛ばせたのだから(ちなみに姿自体は「ハッ」てやったら治った)、その気になればきっとはらえるはずだ。なのにそれをしない。といって、チョコを受け取ってくれるわけでもない。どういうつもりかわからない。なんだろう。この街に新たな心霊スポットでも作りたいのだろうか。それとも、あるいはもしかしてひょっとして、珍念さんは本当に私のことを——?


「——ありがと、珍くん。あざみ、嬉しい。これはその気持ちです。どうぞ」

「いらんて。賞味期限切れとるやろ絶対」


 自分で名乗ってみたら案外しっくりきた。実際、私は別にどっちだっていいのだ。それが本当に生前の名であってもなくても、ただ「彼が私にくれた名」というだけで。だいたい立場上文句も言えない、私の方も勝手に珍念呼びしてるんだから。

 あざみ。なんなら彼がでっち上げた名前ならいいなあって思うし、どうやら本当にそうだった。後日、すぐそばの縁石のへりからひょっこり生えてるのを見つけて、「あーこれかあ」って納得した。単純すぎる。


 路傍に咲いた一輪のあざみ

 花の命は短いというのはきっと嘘でもないけど、でもアスファルトを裂く程度の生命力はあるのだ。


 生きてる。私はともかく、この赤く小さな薊の花は。そう思えば私も似たようなものというか、「生きてる」は無理でも「生殺し」くらいではあると思う。顔の良いハゲは怖い。あの甘く人懐こい笑顔の裏で、一体なにを企んでいるやら見当もつかない。まあ私のような悪霊の言えたことでもなくて、もし彼から「あんたかて人のこと無料のらくらく成仏相談センターくらいに思うとるやろ」と詰められたら、「正解。賞品はこちらのチョコになりまーす」以外に返せる言葉がないのだけれど。チョコになりまーす。


 ついてない。人生最初で最後の恋は、死ぬまで気づいてもらえない恋だった。

 死んでからの恋は余計にひどい。生者と死者では身分差以前の問題、それでも恋と冥府魔道はものではなくて、ものであるなら仕方がない。


 一度は思ったこともある。いっそ成仏して楽になりたい——なんて、その願いはでもしばらく先送りだ。


 それは十年前、アスファルトに咲いた恋の花の物語。

 儚い恋の物語。実際ろくなことのないほんまクソの恋は、でも本当に全部が全部悪いばかりでもないのだ。


 今日も「ヘーイ」と振る手の先に、眉を顰め「シィッ」と威嚇する声。

 報われぬ一方通行の恋。その未練が、今日も陽の光の下、私を強くこの世に結びつける。

 たくさんの愛と恋と、誰かの人知れず流した涙のあふれる、この美しい世界に。




〈恋とチョコレートとご長寿くるまミサイルによる突然の死 了〉




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