幽霊

岩田へいきち

 幽霊

「上坂元さん、上坂元さん、お電話ですよ〜」


社員寮に電話の呼び出しの寮母さんのアナウンスが流れる。

信司は、この北九州工業地帯の社員寮の三階の部屋に住んでいた。携帯電話などまだ高価な上に、デカ過ぎて携帯できないから誰も持っていない頃だ。彼女からの電話も寮の固定電話にかかってくる。それを取り継ぐのは、寮母さんの仕事だ。寮母さんは、玄関を入って直ぐの部屋に息子夫婦と一緒に住んでいる。

電話は、寮母家族と兼用にする為、ドアを開けて入って直ぐの所に置いてある。

信司は、「すみません」と言いながら、遠慮気味に壁の方を向いて話を始める。

寮母さん家族のリビングだから、いくら背を向けて喋っていても内容は、息子さん夫婦にも丸聞こえと思える。

信司の彼女がかけてくるのは、週末の待ち合わせ時間等を確認する電話がほとんどで、週に1回ぐらいだが、高校時代の後輩や同級生の女の子が代わるがわる週1ぐらいで電話をかけてくるのだ。付き合っている訳ではないが、大学時代も手紙のやり取りをしながらたまに電話をくれるという流れから、会社に入ってもそれが続いていたのである。寮母さんは、信司の彼女の声は把握しており、その上で違う声の女が、一人二人と電話をかけてきたらだんだんと機嫌が悪くなる。

ましてや、年の離れた妹までもが電話してきた日には『また、違う女か?』と言わんばかりに当たりが強くなる。

しかし、信司に罪の意識はなく、実際、清き友達関係だからさほど気にしないで、彼女一筋を貫いていた。

 会社は、関西の一流企業が親会社だから取引会社からも一目置かれる、まあまあの企業だった。技術部に所属していた信司は、常に研究テーマが山ほどあり、定時で帰れることはない。特に申請もせず、固定残業で、30時間分、賃金が加算されているから定時に帰りたくても先輩たちの目もあり、帰れないのだ。最低でも7時くらいまでは仕事をしているから帰るのは、いつも暗くなっているか、夏場でも薄暗い。

 工業地帯は、各会社の工場がブロック塀にそれぞれ囲まれていて、仕事が終わったら、先ず洞海湾側の門を出て、港の海を観ながら隣りの工場の塀沿いにぐるりと回る形で別区画にある社員寮へと帰る。海が見れるのは、海育ちだった信司にとってはとても有り難かった。


 その日も海の様子を観ながら、まだ少し明るさが残る、夕暮れの帰り道を急いでいた。


ブロック塀は、真っ直ぐではなく、一箇所突き当たりがあり、3メートルほど左にズレないと行けないところがあった。そこまでかけてきた信司は、一瞬、息をのんだ。


―― なんだ? 白い。人か? 浮いた。足がない。ゆ、幽霊か?


その白いものは、信司の行く手を阻む様にすっと信司の前で立ち上がり、しばらくそのまま立っていたかと思うと信司の斜め前方まで下がって浮き上がり、また暫く信司を眺めている様だった。


――幽霊か。ついに幽霊に遭遇か。やった。


呑気な信司は、そう思いつつも、張り裂けそうな心臓の鼓動を必死で抑えていた。


間もなく、その白い幽霊は、静かに地面に降りてきた。足は見えない。


―― なぁんだ。ただの大きなビニール袋じゃないか。しかし、こんな等身大のビニール袋が上手く立って、上手く浮いて、上手く降りてきたなぁ。他人は、きっとこんなのを見て、幽霊を見たとか言って腰を抜かしてるんだな。


 信司は、先程の心臓の鼓動もそのままにあまり深く考えることなく、また駆け出し寮へと帰って行った。



『あなたは、いつもそう。中学の時、バッターボックスに立つあなたを見てたわ。打球も追ってた。でもあなたは気づかなかった。高校、大学と追いかけてたけど、気づいてくれない。そして、北九州へもついて来ちゃった。手紙のやり取りもいつしか私からは届かなくなってたでしょ? でもあなたは私を捜しに来てくれなかった。私のことは忘れたのねと思ってた。いつもあなたがここを通って帰るのをこの海の上から見てたのよ。そんな、ただのビニール袋があなたを止めたり上から眺めたりする訳ないじゃない。あれは私、私が入ってたの。あんまり気づいてくれないから袋の姿を借りたの。でも、やっぱりあなたは全然気づいてくれない。幽霊を科学的に証明したかの様な気になって呑気に行ってしまった。ここからだとね、あなたの三階の部屋がよく見えるのよ。寮には、誰か結界を張っているのか、中には入れなかった。誰か若い女の子を嫌ってる人がいるのね。

だから私は、ここから毎日あなたを見てる。

言っておくけど、私は元々ないからビニール袋の中に入っても足は出ないからね』



 終わり

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幽霊 岩田へいきち @iwatahei

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