深夜の飢え

ワニ肉加工場

エアープレーンとカツサンド


 突然、目が覚めた。最初に感じたのは、余りにも非現実的な空腹感だった。深夜特有のあの空腹感だ。

 例えるなら、ヘッドホンを外した時に訪れる静寂に近い。鳴り響いていたはずの音色や響きが消え去り、静けさに引き戻され、訳の分からない焦燥が込み上げてくる。それと似ている。


 時計を見れば、針は午前3時を示していた。再び眠りにつけば、明日の大学の講義に間に合うか不安になる微妙な時間帯。そんな時間帯に僕は、酷い空腹感と睡眠欲の残滓にあらがわなければならなかったわけだ。


 脳は湯がいたばかりの拉麺ラーメンみたく法然としていた。それでも起き上がり、僕は冷蔵庫へと向かった。一人暮らし用のちっぽけな業務用冷蔵庫だ。

 中には、チューブ入り大蒜にんにく味覇ウェイパーといった調味料の他には、缶ビールが二本とガリガリ君が一本入っているばかりだった。

 肝心な食材が一つとしてない。そんな中身だ。ここに豚肉か、鶏肉かいずれかが百グラムでもあれば、僕はそれを目いっぱいの油と調味料で焼いただろう。そして、缶ビールを飲み、百グラムの肉を喰らい、ガリガリ君を齧るに違いない。


 僕はガリガリ君を肴にアサヒビールを飲んだ。それが、甘いのか、苦いのか、よく分からなかった。兎に角、冷たかった。

 頭の中には、エドワード・ゴーリーの描いた最悪の朝食が浮かんでいた。コーンフレーク、糖蜜、カブのサンドイッチ、合成着色のグレープソーダ。今ではそれすらも羨ましい。


 何はともあれ、こんなことで非現実的な空腹感が収まるわけもなく、僕は寝間着代わりのスウェットシャツの上に、父の御下がりの革ジャンを羽織り、スニーカーを履いて、外出した。スニーカーは大分靴底がすり減っていた。


                 ☻


 古ぼけたアパートを出て、僕は何の当てもなく彷徨った。いや、当てはあったかもしれない。あの非現実的な空腹感だ。


 夜の空気は澄んでいて、その中に街灯や自販機、深夜営業の店の灯りが点々と浮かんでいる。僕にとってそれらは、特に後者に至っては正しく誘蛾灯だった。

 そして、僕は誘われるままにコンビニエンスストアの中へと入った。


 店内にはジェファーソン・エアプレーンの『Greasy Heart』が流れていた。グレイス・スリックの歌声は、店内の無機質な蛍光灯の白光も相まって余計にドライに響いている。しかし、60年近く前の曲がかかっているというのは、少しばかり気掛かりだった。


 僕は空いた腹の赴くまま、食品をかごの中へ放り込んだ。カツサンド、じゃりパン、スパムおにぎり、ビスケットサンド、ドリトス、瓶ビール、etc…

 そして、会計を済ませた。店員はなんて事のない初老のおじいちゃんだけ。エアープレーンの曲を聴けてご満悦の様子だった。


 イートインコーナーに腰掛けた。アパートに帰る間も耐えられそうになかったからだ。

 僕はレジ袋を机上に置き、瓶ビールとカツサンドを取り出した。ボトルには密やかな水滴が付き、カツサンドには分厚いカツと山盛りのキャベツ、マスタードが詰まっている。頭の中に熱いモノを覚えた。


 買ったばかりのボトルを捻り開けようとした時だった。


 隣で雑誌を捲る音がした。咄嗟に視線をそちらに向けた。二つ隣りの席にもう一人女性が座っていることに気が付いた。


 その瞬間は、空腹感だけではなく、女性をまじまじ見詰めるというのがどういう行動に当たるということも忘れ、彼女を見詰めてしまった。

 彼女は完璧だった。頸にかかりかけた流麗なショートボブ。浅く焼けた胡桃色の肌。言葉にならない何かを訴えているかのような明眸。それこそ、アルバムジャケットを飾ったグレイス・スリックの肖像にも劣らない。

 服装は68と刺繡されたスタジャンと少し草臥れたVネックシャツ。ショートパンツとストッキング。襟首から覗く鎖骨と流麗な首の筋肉。シャツはほのかに汗の跡が付き、仕事帰りであることを想起させた。

 彼女は週刊誌を広げ、ジャック・ダニエルを飲んでいた。その動作はゆったりとしている。彼女がボトルに口を付けるたび、ジャケットのしわは厳かに胎動していた。


 曲も止み、静かなひと時だった。だが、僕の視線に嫌気がさしたのか、此方にその綺麗な瞳を向け、言った。


「何?」


 ドライで力強い声だった。僕を強く打ち付けた。拍動が半拍子早まった気がした。


「いえ、こんな時間に珍しいなって。お仕事の帰りですか?」


 彼女は決まりの悪そうな表情を浮かべた。彼女は少しばかり酔っていて、仕事という言葉にうんざりしているように見えた。


「嗚呼、そんな感じよ。で、そういうアンタは?補導されないの?」


 辛辣だが、言葉の節々は浮いている。僕がビールと夜の空気に当てられていたように、彼女も倦怠と陶酔に浸っている。端的に言ってしまえば、僕も、彼女も、少しばかりおかしくなっていたのだろう。


「これでも二十歳ですよ。数え年ですけど」


 実際、僕は今年で二十歳を迎える。だからと言って、僕が馬鹿で童顔な一人の男子であるということは何も変わらない。現に、彼女に僕はそういう風に見られているのは九分九厘間違いない。


「へえ、それで深夜の三時に外に出て、馬鹿みたいな量の食べ物をコンビニで買うわけか」

 

「深夜の三時に目が覚めて、途轍もなく、御腹が減っていたんですよ。そして、冷蔵庫には何もなかった。具体的に言えば、缶ビール二本とアイスが一本だけ」


「銘柄は?」


「アサヒとガリガリ君」


「それじゃあ、仕方がないかも。私がこうして、ウイスキーをボトルで、独りで、かっ喰らっていること以上にね」


 彼女は笑った。苦笑かもしれなかった。それでも、素敵だった。

 僕は女性に「素敵だね」なんて気の利いたセリフを一度だって吐いたことはなかったけれど、この時はそう形容する他なかった。


「僕はウイスキーなんて飲んじゃったら直ぐに酔いつぶれちゃいますよ。味は嫌いじゃないんですけど」


「酒好きとアル中の境目を一足で飛び越えるようなものよ。幸いなことは、好き放題飲めるほどの安酒ってわけじゃないこと」


 そう言って、彼女は再び一口飲んだ。琥珀色の液体を噛みしめ、味わい、喉を鳴らして飲み込んだ。流麗な首の筋肉が脈動した。

 僕は、その光景に見惚れないよう、話を無理やりに繋げた。


「何かあったんですか? 仕事のこととか」


「何かあったか? おかしな少年にやけに親密に話しかけられている。これが、“何か”じゃないかしら?」


 僕は困ってしまった。正しくその通りだった。


「ハハハっ。これだけグイグイ来るのにこんなので止まっちゃうの?結構、面白いね。君」


 彼女は少しだけ声をあげて笑った。赤らんだ微笑み。街頭で時たま耳にする楽し気な笑い声を切り抜いてきたような、聞き心地の良い笑い声。僕は更に困ってしまった。


「でも、仕事で何か合ったっていうのは当たりよ。中々、鋭いわ」


 僕は少しだけ嬉しくなった。これ以上なく、単純な奴だと自分でも思う。


「お仕事は何をやってるんですか?アパレルとか、美容室だとか、製材所とか…」


 彼女は目を少しだけ潜めた。ボトルを握りしめた。


「どうして、その流れから、製材所?」


「いえ、靴が安全靴だし、おが屑が付いていたから」


 僕は彼女の足元を指さした。黒い革製の編み上げ靴。少し不釣り合いな無骨さ。黒に映える靴紐に付着したおが屑。それと、赤黒い染みの付いた屑が二粒。

 彼女は呆れたように、僕を見た。ボトルを持ち上げ、口に運ぼうとし、途中で止めた。


「私のことを、ようく見ているのね」


「途轍もなく綺麗な方ですから」


 何も考えずに口走ってしまった。


「んっ」


 彼女は一瞬、放心した。その瞳で何をも捉えず。頭の中だけが動いているようだった。僕も言ってしまったことを無意識下で後悔し始めていた。

 そして、次の瞬間。


「ウクククくっ…。フフッ、プッ….」.


 彼女は机に突っ伏し、ひたすらに笑いを堪えていた。体は震え、エタノールの混じった息が腕と科の隙間から小刻みに噴き出している。


「すみません。今のマジでキモかったですよね…」


 僕は漸く自分のしでかした行為の意味に気付き、端的に言って、死にたくなった。

  それから、彼女は暫く笑いを堪えながら、突っ伏していた。時たま、拳で机を小さく叩いた。無邪気な笑いだ。

 彼女は笑いを呑み込み、顔を上げた。


「ハハハっ。ねえ、そんなに私とヤりたいの?本当に?」


 頭がどうにかなりそうだった。どうして、そんな話になる。何を間違った。


「な、何言ってるんですか?下心なんてありません。ただ、凄く興味がわいたというか、無意識に声を掛けてしまったんです」


 必死をこいて弁明した。心臓の拍動は上がっている。きっと今の顔は酷い赤ら顔だろう。アルコールと恥ずかしさのダブルパンチ。

 彼女はにやにやと厭らしい笑みを浮かべた。


「あらそう?結構、良いと思ってきたところなんだけど。」


 僕は彼女の表情をまじまじと見てしまった。真意を知りたくなってしまった。これまた酷い単純さだ。


「とか、言ってみたりね。ね、そのカツサンド半分くれない?」


 僕は何も言わず、包装を剥がした。不思議な程、滑らかにビニールははがれた。まるで、時が今まで止まっていたとでも言うかのように。

 彼女は僕のすぐ隣に歩み寄り、席を移った。包装からカツサンドを一つ摘み取った。


「いただきます」


 彼女は僕を見詰めながら、カツサンドに齧りついた。桜色の唇。ウイスキー、ソースとマスタード、彼女の制汗剤の香り。頭がくらくらした。瞬きが出来ているのかいないのか、自分がここにいるのか、何もかもが錯綜している。

 彼女はゆっくりと咀嚼し、呑み込み、そして言った。


「君は食べないの?」


 忘れていたあの空腹感が揺り戻ってきた。僕は、カツサンドを手にすると大きく齧りついた。甘く、辛く、肉の味がした。しっとりとしたパンと衣。歯ごたえのあるカツ。たっぷりのキャベツとマスタード。

 僕と彼女は、時を忘れ、食べた。ジャック・ダニエルを飲みまわした。どこかに落っこちて行った。二人、一緒に。


             ☻


 僕たちは、波止場にいた。防波堤の上。黎明が差し込み、冷たい潮風が吹き、舗装したてのコンクリートがのっぺりと横たわっている。全ての始まりみたいに思えた。

 酩酊と食欲の先に、この波止場があった。だが、空腹感はまだ満たされていなかった。僕も。彼女も。


 僕と彼女は向かい合った。自然とそうなっていた。お互いの顔を見詰めていた。

 彼女の髪が潮風で揺れている。憐れみと親しみを感じさせる微笑みを浮かべている。彼女の頬を黎明が染めている。


 彼女は何も言わず、僕の腰に手を回し、僕の肩口に顔を埋めた。彼女の暖かな吐息が僕の襟首に吹きこもり、心地の良い湿りを生み出した。僕も手を回し、彼女を抱きしめた。苦しみを、辛さを分かち合いたかった。


 彼女の話が走馬灯のように頭をよぎった。同僚が腕を失った。安全の確認を怠り、スイッチを押してしまった。偶然が重なっていた。一瞬で辺りは血の海に変わり、飛び散った肉片が霙のように降り注いだ。たった数秒の出来事。

 彼女は責任者だった。


 彼女は僕の頬に触れた。少し震えていた。僕も彼女の頬に触れた。


「ねえ、口付けをしてもいい?」


 どちらがそう言ったのか、分からなかった。もしかしたら、そんなベタな言葉は言わなかったかもしれない。でも、僕たちは確かに口づけをした。

 どっぷりと互いを貪った。舌を絡め合い、思いを締め付け合った。唾液を混じらせ、痛みを分かち合った。確かに、僕の悩みや挫折感は大したことのないものかもしれなかった。それでも、その分だけ彼女の辛さを奪い去りたかった。


 長い、長い、口づけの後。黎明はさらに強まり、僕たちの心は酷く燻ぶっていた。


 僕は我慢できずに言った。


「お付き合いして、頂けませんか?」


 彼女はあの微笑みを浮かべて言った。


「だめ」


「どうして?」


「今までのことは、現実じゃなかったから。私も君も、酩酊と夜の中にいた。そして何より飢えていた。現実じゃないの」


 僕は分かるような気がした。深夜の飢えはどこまでも非現実的だった。そういう事なのだろう。


「本当に、お付き合いしたいなら。私を現実で見つけて頂戴。君が私を見詰めたように、探してくれるなら、きっと見つかるわ」


 そう言って、彼女は防波堤の下へと消えて行った。


             ☻


 僕の住む町に製材所は一件しかない。それでも、彼女は見つからなかった。辞表を残し、消えてしまったそうだ。

 僕の深夜の飢えは未だ治まっていない。治まるはずもない。

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深夜の飢え ワニ肉加工場 @gavialdiner88

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