タルタリアの正十二面体

みよしじゅんいち

タルタリアの正十二面体

 1829年2月19日木曜日13時。フランス、パリ。寄宿制の高等中学校リセ・ルイ=ル=グラン。特別数学の担当教師ルイ=ポール=エミール・リシャールの部屋にノックの音が響いた。

「どうぞ」

 ドアの陰から顔をのぞかせたのは、彼の教え子の中で頭角を現しつつあった、17歳のエヴァリスト・ガロア青年だった。いつもならすぐに数学の議論が始まるところだが、今日はずいぶん神妙にしている。

「どうしたんだい?」

「あの、不思議な夢を見たんです。先生にもらった木工の正十二面体の――」ガロアが話したのは、こんな夢の話だった。


 数学の競技試合だろうか。大昔の学校で、群衆が4人の男たちを取り囲んでいる。同年輩の髭の中年が2人と青年が1人、もう1人は8歳くらいの男の子だ。

「フェラーリの勝ちだ!」と群衆のひとりが叫ぶ。フェラーリと呼ばれた青年は立ち上がり、ひざをついた中年の男を見下ろしている。

「ああ、そうだ、タルタリア。お前の負けだ」とフェラーリの背後にいた男が言う。「金輪際、あんな言いがかりはよしてもらおう」

 タルタリアと呼ばれた中年は顔を上げて男をにらみ返す。「卑怯者め。もともとおれが戦うべき相手はおまえだったのだ、カルダーノ」

 カルダーノと呼ばれた男は鼻を膨らませて言う。「フェラーリはわしの二番弟子だが、優秀なのでな。お前と違って4次の方程式だって解くことが出来る。この分だとそう遠くないうちに5次方程式も解けるに違いない」

「ふん。5次の方程式だと。5次方程式の解の公式なんて、そんなもの本当にあるのかね」タルタリアは上着のポケットから何かを取り出し、道化のように手玉に取った。そして、右手の指の上で器用に回し始めた。それは木工の十二面体だった。

「なんの真似か知らんが、負け犬の遠吠えだ。気にするな。さあ、みなさん競技は終わりです。勝負はつきました。カルダーノの二番弟子、ルドヴィコ・フェラーリがタルタリアを降したのです」

 タルタリアは沈黙している。タルタリアの肩を男の子がつかむ。タルタリアはふり返り、男の子の手に十二面体を握らせる。「あんな奴らに解けはしない。5次方程式の謎はいつかこれを持っている人間が解き明かすのだ」


「もしかすると――」リシャールは何かを思い出そうとしている。「それは1548年8月10日、イタリアでの出来事かもしれない」

「ええっ。300年前? 本当にあったことなんですか」ガロアが目を丸くする。

「ああ、どこかで読んだ訳じゃないのかい? ニコロ・フォンタナ・タルタリアとジェロラモ・カルダーノは3次方程式の解の公式のことで揉めていたんだ」

「初耳だと思います。ラグランジュの本に書いてあったなら読んでいるかもしれませんが」

「タルタリアから教わった3次方程式の解の公式を、カルダーノが勝手に自分の本『アルス・マグナ』に載せた。それをタルタリアは怒っていたんだ」

「そうなんですね」

「話はややこしいんだけど、3次方程式の解の公式はタルタリアが第一発見者ではなくて、シピオーネ・デル・フェッロという人物が先に見つけていたらしい。カルダーノは2人の発見と断った上で『アルス・マグナ』に3次方程式の解の公式を書いたんだ。それで決闘になった」

「5次方程式の解の公式はどうなったんですか?」

「どうもならないよ。まだ解けていないと思う」

「先生。頂いた正十二面体、かなりふるいものと思いますが――もしかして?」

「いや。このあいだ蚤の市で手に入れたものだ。タルタリアとは関係ないだろう」


 それから1か月後の3月19日木曜日13時2分。リシャールの部屋にガロアが飛び込んでくる。

「そうか、そうだったんだ。分かったぞ! 先生、先生のおかげで解けたんです!! ――例のあの問題が」

「どうしたんだ。おちつきなさい。――僕のおかげ?」

「正十二面体ですよ。正十二面体の対称性がカギを握っていたんです。ああ、そうだ。一般の5次方程式は代数的には解けない! それどころか、この方針なら、n次方程式が解の公式をもつための必要十分条件だって求めることができる!」

「待った、待った。それはすごそうだ。くわしく教えてもらえるかな」

「はい。あ、すみません。ひと口お水をもらえますか」ガロアはコップの水を飲み干すと、ポケットから正十二面体を取り出した。「見ててください。この正十二面体ですが、一回転するあいだに何度か元と同じ風に見えるでしょう? こういうのを対称性って言うんです」ガロアはチョークを手に取ると、猛烈な勢いで黒板に数式を書き始めた。この小柄な青年のどこにこんなエネルギーが潜んでいるのだろう。リシャールは目を見張った。13時50分、午後の授業が始まるきっかり10分前になってガロアは言った。

「つまり、5次方程式に解の公式がない理由は、対称性の梯子が途中で切れているからなんです。いま説明した通り5次方程式の5つの解の入れ替えが持つ対称性の中には、正十二面体の対称性が含まれています。しかし、正十二面体の対称性の中には、これ以上簡単な、うまい具合の対称性が含まれていないので梯子が続かないという訳です」

「参った。降参だ。きみはひとりでこれを思いついたのかい?」

「はい。――タルタリアは知っていたんでしょうか?」

「さあ、どうだろう。その時代に、そんなことがわかっていたとは考えにくいけど。それより、論文にまとめよう。僕も手伝うよ。高等理工科学校エコール・ポリテクニークにオーギュスタン=ルイ・コーシーという数学者がいる。彼に読んでもらうんだ」


 さらに1か月後の4月16日木曜日13時15分。校庭の木陰にいるガロアにリシャールが声をかける。

「コーシーから手紙が来たんだって?」

「ああ、リシャール先生。こんにちは」ガロアが手紙から顔を上げる。「一般の5次方程式に解の公式がないこと。それ自体はノルウェーのニールス・ヘンリック・アーベルによって解かれていたみたいです。でも、n次方程式が解の公式を持つ必要十分条件までは知られていなかった。——コーシーはわたしの発想に驚いたそうです。見てください。書き直して、フランス科学アカデミーの大賞に応募するようにと、いくつかアドバイスが書いてあります」

「そうか。おめでとう。それがいいのかもしれないね。ところで、僕の方でも進展があった。タルタリアの弟子について調べてみたんだ。夢で男の子を見たって言ってたね」

「はい」

「それはおそらくオスティリオ・リッチ。タルタリアの弟子の一人だ。年齢が符合している。そして、リッチの弟子はあのガリレオ・ガリレイだよ。ガリレオがアルキメデスの大ファンなのは知っているね?」

「はい、たしか最初に書いた論文がアルキメデスにまつわるものだったとか」

「アルキメデスやユークリッドを初めてイタリア語に訳したのがタルタリアだった。ガリレオはリッチからそれを学んだんだ」

「へええ」

「そして、ガリレオの弟子がエヴァンジェリスタ・トリチェリ。トリチェリの弟子がヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニだ」

「トリチェリ?」

「トリチェリを知らないのか。水銀柱の実験で有名なんだけどな。ヴィヴィアーニは音速の測定で有名な、あのヴィヴィアーニさ。——と、きみにはヴィヴィアーニの定理の方がなじみ深いかな。正三角形内部の点から3辺に下ろした垂線の長さの和は一定である――」

「その定理は知っています。そうか、そのヴィヴィアーニなんですね」

「うん。ヴィヴィアーニが亡くなるのが1703年だから、まだ現代まで100年以上のミッシングリンクがあるんだけど。——もしかしたら、もしかして例の正十二面体、本物かもしれないよ」

「それはすごい」ガロアの口元に微笑が浮かぶ。「やっぱり、タルタリアは知っていたんですよ、きっと」

「それじゃ、どうして発表しなかったんだろう」

「よくわかりませんが、カルダーノの一件で人間不信に陥ったから、でしょうか」


 翌年、1830年8月19日木曜日13時30分。進学したガロアに会うため、リシャールが高等師範学校エコール・ノルマルを訪ねる。

「きみの論文を査読していたフーリエが亡くなったって本当かい?」

「はい。わたしの論文も散逸してしまったみたいです」

「そうか。それは残念だった」

「ええ。高等理工科学校エコール・ポリテクニークの受験には失敗してしまうし、王党派のコーシーは七月革命でサルデーニャ王国(現イタリア)のトリノに亡命してしまうし。もうわたしは何をしたらいいのか」

「あの、例の正十二面体なんだけど」

「どうかしましたか?」

「ミッシングリンクが埋まりそうなんだ。アカデミア・デル・メチントって知ってるかい? ヴィヴィアーニがメディチ家を動かして設立した学会さ。そこにあのジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニがいた」

「?」

「カッシーニのすきまって聞いたことないかな。あの土星の輪っかのすきまを発見した天文学者だよ。彼はパリの天文台が完成する少し前にフランスに移住しているんだ」

「――」

「そして、彼の息子のジャック・カッシーニ、孫のセザール=フランソワ・カッシーニ、ひ孫のジャン・カッシーニと4代にわたってパリ天文台で観測を続けた。4代目のジャン・カッシーニは御年82歳、いまだご存命ということだ。きみの正十二面体を見せたら何て言うか、気にならないかい?」

「そうですか。この正十二面体、そんなにすごいものでしたら、――お返しします。去年父も亡くなってしまって、わたしはこれからどうやって生きていけばいいか」

「きみには数学があるじゃないか、もういちど論文を書かなくちゃ」

「あんまり期待しないでください。いまや、もうここの校長からガロアは不良学生だと、すっかり目を付けられているんです」ガロアは肩を落として、力なく笑った。

「これは借りておこう。カッシーニじいさんに見てもらいたいからね。でも、これはきみのものだ。返すだなんて言わないでくれ」


 5か月後。1831年1月6日木曜日13時45分。失意のガロアの元をリシャールが訪ねる。

「こんばんは。元気かい?」

「元気はないですね。つい一昨日エコール・ノルマルを退学になったばかりです」

「そうか。論文を書く元気はないか。これ、きみに返すよ」リシャールは木工の正十二面体を渡そうとするが、ガロアはてのひらで押し戻す。

「カッシーニのおじいさんは何と?」

「いや、それがね。耄碌していて、何を聞いてもまともな返答は得られなかった。蚤の市には家族が出したのかもしれないが、その家族も七月革命でどこへ行ったのやらだ。じいさんの家には女中がいるばかりで、何も分からなかったよ」

「くたびれもうけでしたね。これは先生が持っていてください。わたしには先がありません」

「そんなことを言わないでくれ。十二面体は本物かどうか分からないけど、きみの数学は本物なんだ」

「もうよしてください。いまわたしはタルタリアと同じ病気なんです」

「タルタリアと同じ病気?」

「人間不信」

「そうか。きみがだれを信じなくてもかまわない。でも忘れないでくれ。僕は、僕だけはきみを信じている」

「ありがとうございます」ガロアはため息をつく。「もういちどだけ、論文は書いてみます。でも、これは、この正十二面体はだれでも先生の好きな人にあげてください」


 それからしばらくしてガロアは、デモ隊の先導時に、解散した砲兵隊の制服を着ていたという咎でサント・ペラジー監獄に入った。囚人番号15348番のかつて書き上げた論文は心配していた通り数学者シメオン・ドニ・ポアソンによってリジェクト(拒絶)された。牢を出て、少しして、ガロアは決闘で死んだ。享年20歳。1832年5月31日木曜日12時、リシャールと別れて1年5か月後のことだった。

 決闘の前日、最後にガロアの書いた手紙はリシャールでなく、エコール・ノルマルで知り合った友人オーギュスト・シュヴァリエに宛てたものだった。その手紙はガロアの死から14年後の1846年、時限爆弾のように炸裂し、数学の大河の流れをすっかり変えてしまった。ぜんぶあの正十二面体から始まったことだった。その正十二面体がいまどこにあるかって? 知らないけど、自分で作ればいい。タルタリアのものだって、なんだって、正十二面体は正十二面体なのだから。

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