第九話 - 愛

––––私は苺が嫌いだ


 苺の表面にある無数の粒々をずっと見ていると私に近付いてくるようで圧迫感を覚えて気持ちが悪い。そして口に入れて噛んだ瞬間のグチュッという感覚。そこから広がる甘いのか、酸っぱいのかどっち付かずの微妙な風味。さらには一つ一つ味のバランスが取れておらず、食べてみるまで分からない。調理されていない食べ物に対してそのようなスリルを私は求めていない。

 しかし、私はまるで苺が好物かのように自分の口に頬張り、「美味しい」「大好き」と言いながらその真っ赤な果肉を口内でぐちゃぐちゃとすり潰していく。私の隣で苺を美味しそうに食べている女の子に合わせるようにして。


「あ、最後の一個食べていいよ」


 ハルはそう言って皿の上に残った最後の一個を私に笑顔で譲る。私は「ありがとう」と礼を言って、まだ口の中に残る赤い悪魔の残骸に新たな個体を加える。


「なりたいのだろう? ならば食べろ。隣の少女と同じように」


 頭に聞こえるはずのない声が木霊する。私は赤い悪魔と血の契約を交わすのだ。


––––私は自分の名前が嫌いだ

 

 いや、正確には私に「波瑠乃」と名付けることができなかった両親が嫌いだ。


 ハルは五歳の頃に同じマンションに引っ越してきた。私たちの両親は同じ中学・高校に通っていたらしく、ハルの両親は関東の大学へ、私の両親は地元福岡に残って同じ国立大へと入学し、そのまま結ばれた。


 私たちには共通点があった。一人娘であること、誕生日が同じで午前中に産まれたこと、三歳からピアノを習い始めたこと。娘同士の好みや性格が合っていたのも親同士には楽だったのか、互いの父親が仕事に出ている日中は一緒にいることが日常となっていった。


 私たちは双子のように育った。同じおやつを食べ、同じ曲を練習し、同じテレビを観る。一緒にいることで好みや行動、雰囲気、そしてどことなく顔も似ていたことからか近所では本当の双子に間違えられたことだってある。この時に胸の中で大きく脈打つ鼓動が何を表しているのか私には分からなかったものの、それを誇りに思ってそっと奥へとしまい込んだ。


 もちろん、違う家庭で生まれた二人だ。環境は大きく違う。正反対とまではいかないもでも傍から見ても家庭環境の違いは歴然だった。

 私の父は神経内科医として働き、母は出産を機に一線を退いた形になったが、舞台女優として活動していた。対するハルはというと母は専業主婦で父はサラリーマンという家庭。

 また、同じマンションと言ってもハルたちは十二階建ての四階で私たちは最上階、こちらの方が間取りが大きく、私は詳しくは知らないものの家賃も高い。私の家にはグランドピアノが広いリビングの中央やや右寄りに置かれている一方で、ハルの家にはそのようなスペースはなく、少し前の型であるアップライトピアノがリビングの端っこに細々と設置されている。


 私たちはよく私の家にハルとその母を招き入れた。こちらの方が広々としているというのもあるのか、私の母がよく誘うのだ。


「波瑠乃ちゃんはピアノが本当に上手ね」


 そう言って私の母はハルを褒める。


「波瑠乃ちゃん、苺分けてくれてありがとうね」


 そう言って私の母はハルに感謝する。


 私たちの七歳の誕生日の時、いつものようにハルとハルの母は私の家に来ていつもと違った時間を過ごしてきた。

 双子のように育った私たちの誕生日。母は朝から張り切って〝HAPPY BIRTHDAY〟と書かれたプラカードをリビングの天井からぶら下げた。そして折り紙を細長く切って輪っかに繋げ、家のあちこちに飾っていく。

 私の家はホワイト系の織物調ビニールクロスで壁一面を覆っており、日差しが入るとよりその白さが際立つ。そんな大きな壁には輪っかの飾りや母が織った折り紙、私とハルがぐちゃぐちゃに作った折り紙や絵などが飾られ、その中心には私たちが並んでピースしながら笑顔で並ぶ眩しい写真。


 巨大な白いキャンバスが多くの色で埋め尽くされる。


「わっ! 凄い!」

「あら、素敵ねぇ」


 いつものようにお昼過ぎからやって来たハルとハルの母はリビングへと通じる扉を開けると歓声にも近い大きな声を上げて感嘆する。

 ハルが勢いよく開けた扉はドアストッパーのゴム部分に当たって大きな音を立てる。その音がまるで私の心をノックするように、こじ開けるように、いつだったか私が心の奥にしまった鼓動に共鳴し始める。


「あ、予約してたケーキ取りに行かなきゃ」


 十五時頃だろうか、ハルの母が誕生日のケーキを取りに行くためにハルを連れて私の家を後にしようとした。ハルはグランドピアノで遊んでいて「嫌だ」と半べそをかいて駄々をこねる。


「波瑠乃ちゃん預ろうか? ケーキ屋さん近くでしょ? それくらい良いわよ」


 見かねた私の母がそう提案し、ハルの母は眉を下げて困ったように娘と私の母を交互に見た後に申し訳なさそうに絞り出すような声で「じゃあ、お願いしていい?」と言って軽く頭を下げる。

 まだハルは帰らないんだと知った私は自然と笑顔になっていたのだろう、ハルはピアノの椅子を手の平でトントンと叩いて隣に座るように促し、めちゃくちゃな連弾が開始され、私たちは思いっきり音を楽しんだ。

 それでも数十分もすれば幼く飽きやすい私たちは再び多くの飾りつけがされた壁の前に陣取り、二人の写真や絵を指差して思い出を語った。


 母はおもむろに私たちを抱き寄せて頬を寄せると愛おしそうに目を瞑る。母の肌を伝って響く彼女の心の鼓動は今しがた引っ張り出した私の鼓動とどこか似ている気がした。


 真上にあった太陽が少しずつ傾き、飾りつけられた白い壁にその眩しい日を射し込む。隙間なく埋められているように感じたその巨大なキャンバスは太陽によってその穴を露わにした。


 母の鼓動はより低く、より深く刻まれていく。

 その度にキャンバスの隙間が増えていく。


––––環境が違うことで私たちの間で徐々に違いが生じ始める。


 私の父はキャンプといったアウトドア系の趣味が大好きで、小さい頃はよくハルたちも連れて行ったものだった。けれど主にハルの父は理由を付けてはそれを断るとことが増え、また、ピアノが好きなハルも参加することに消極的になっていった。

 私は父の趣味の付き合いだけでなく、テニスといった屋外スポーツにも興味を持ったためか日焼けすることが多くなる一方、基本的に家にいることが好きなハルは真っ白な肌のままで私とは対照的だった。


「でもお前らって結構正反対やん?」


 初めてできた彼氏が私に向けた一言だ。これまで色々なものをお揃いにしてきた私には残酷な言葉。しかし、高校生になって成長した私には『表裏一体』という言葉を持ち合わせていた。


 表裏一体。表と裏

 波瑠乃と千夏


 そう私の名前は千夏

 春に対して夏


 ハルの彼氏は暁人、私の彼氏は燈志

 春と秋に対して夏ととう


 生の裏は? 死


 高校三年生の夏、私はハルを殺した。屋上から突き落として。

 地面に赤い絵の具が染み渡るその様子は私の口の中に蔓延る悪魔の残骸のようだった。


「一体になるにはどうすればいい?」


 そう、私が波瑠乃になればいい。私の名前は千夏。


––––私は自分の名前が嫌いだ


 けれど私が波瑠乃になるのなんて簡単だ。

 双子のように育ったのだから。いや、双子なのだから。


 同じ種から発芽した双子なのだから。


 扉の闇から伸びる無数の真っ白い手が私を抱き寄せる。私に鳴り響く低く暗い鼓動。私の隙間を埋めるその鼓動は扉のノック音なのだと私は理解した。

 

 無数に伸びる手の内の二つが私の首を強く締めつける。それによって露わとなった口の中の悪魔が新たな血を求めて叫び出す。


「あぁ、渇く、渇く」


––––扉は四度叩かれる。




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扉は四度叩かれる セラム @selum

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