第八話 - お揃い
––––彼女の考えていることが分からない
俺は高校二年生の夏頃に初めて彼女ができた。彼女は人当たりが良くて明るい性格の子だった。休日に家族や友人でキャンプや登山、トレッキングなどのアウトドア系の趣味を
しかし、俺は最初から彼女の魅力に気付いていた訳ではない。彼女を意識したのは四歳上である姉のピアノの発表会を見に行った時だ。真夏の暑い時期、汗を滲ませて怠い、面倒臭い、と文句を垂れながら半ば強引に連れて来られた俺は不機嫌にそのステージを見つめていた。
そこに彼女の名前が呼ばれる。入学式での自己紹介ではピアノのことに全く触れておらず、少し驚いてステージへと続く階段を上る彼女に思わず注目してしまう。
––––上手い
幼稚園の頃からサッカーをして男友達と騒ぎまくっていた俺は音楽のことなんて全く分からない。さらに言えば休日、姉が日中ピアノの練習をしているのを煩わしく思うくらいにどちらかというと苦手な方だった。しかし、そんな俺でも彼女のピアノが上手いということはすぐに理解できた。
「すげぇ」
思わず口に出た言葉に自分でも驚く。技術的なものなんて俺には分からない。その点で言ったらこの間小学校を卒業したばかりの彼女よりも四歳上の高校生である姉の方が上なのだろう。だけど他の誰も持ち得ない、彼女にしか表現できない世界がそこには広がっていた。人を惹きつける甘い音色。その甘美な香りに誘われた者たちをまるで嘲笑うかのようにいなし、根源を掴ませない狡猾さ。学校でのイメージとの違いに興味を抱いた俺の気持ちはいつしか恋心へと変わっていった。
「好きです、付き合ってください」
高二の夏、体育祭を終えて校庭に設営されていたテントやその骨組みが撤去される中、こっそり彼女を体育館裏に呼び出して思いきって告白をした。
学年対抗となる体育祭で二年生は優勝を飾り、その中でも俺は百メートル走や長距離走、リレー選手に選抜されてそれぞれ上位に食い込み、我ながら優勝の一躍を担ったと思う。また、クラスリレーでアンカーとして走り抜け、一位でゴールした後に同じくクラスリレーに出場していた彼女との笑顔で交わしたハイタッチ。これら細かい接触一つ一つが俺の中での高揚感を高め、ベタな場所で彼女に告白する原動力となった。
「……ありがとう」
少し間を空けて彼女は答えた。返事ではなく告白に対する礼。何となく俺は断られると感じ、背中からじめっとした何かが全身を巡る。汗が少し引いて俺の身体をひんやりと冷やし、体育館裏に植えられた木々が風に吹かれて揺れ動く。その動いた影が俺を徐々に覆っていく。
「うん。付き合おう」
風で動いた枝が元の位置に戻り、そこから漏れ出る日差しが俺の背中を照らす。汗で冷えていたはずの体温がみるみる上がっていくのはこの夕日のせいなのか、それともこの顔や腹部から感じられる熱なのか俺には分からなかった。射し込む夕日に晒された彼女の表情をじっくりと見ることはできなかったけれど、その頰は心なしか緩んでいるように思えた。
二人でその場を後にしてすぐ近くにあるテニスコートまで歩くと、まだまだ沈む気配のない太陽がクレーコートの少し赤味がかった地面を容赦なく照らしていた。
太陽の見えている時間が長い夏場。
彼女は一人の友人の話ばかりをする。その子は同じクラスの女子。話を聞くと小さい頃からの付き合いでいつも一緒にいたようだ。その子は彼女と同じく人当たりの良い子ではあったが、きめ細かな真っ白な肌も相まって彼女よりも控えめな印象。彼女の話では俺たちの六日前からその子に彼氏ができたらしい。そいつは
「何だかあなたと向こうの彼氏って正反対だよね」
彼女はそう言って俺の方を見向きもせずにローファーを履いて正門へと向かう。この日は部活が休みで帰宅部の彼女と一緒に帰れる日。なのに彼女はそのカップルの話ばかりをする。
「私たちって双子みたいに育ってきたの。背丈も同じで着てる服も似たようなの。食の好みも同じだし……ほら、お揃いのキーホルダーなんかも持っちゃったりして」
そう言って彼女は笑顔で自宅の鍵に付けている熊のキーホルダーを見せびらかす。付き合い始めて気付いたのは、彼女がその子に向ける笑顔は俺や他人に見せている笑顔とは違うということ。
––––男のジェラシーは見苦しいぜ
何かの漫画のキャラクターが言っていた台詞だ。そんなの頭では分かっている。それでもまだまだ思春期真っ只中で成熟しきっていない俺は思わず嫌みな言葉が口をついて出る。
「でもお前らって結構正反対やん?」
〝お揃い〟という言葉を多用する彼女への挑戦。もう少しちゃんと見ろよ、もっと俺のこと見てくれよ、という微かな暗示でもあった。
「……」
彼女は沈黙したまま俺の方を振り返る。その表情からは何も読み取れない。彼女の指から奏でられるどこか掴みどころのない音楽のように。
喧嘩になるかな? そう覚悟した直後、彼女は微笑しながら俺に告げる。
「表裏一体って言うじゃん」
背中からじめっとした気持ち悪い感触が広がり、そのまま俺の体温を奪っていく。正門までの道のりには木々はなく、俺を覆う影なんて存在しないのに。地平線へと向かう太陽が照りつける日差しは俺と彼女の影を繋ぐ。
◆
目の前に彼女がはかた駅前通りの信号を渡ろうとしている。昔と変わらない、ショートヘアに真っ白い肌。
「くそっ、くそ!」
俺は過呼吸にも近いほどに息を切らしながらハンドルを握りしめて彼女を見つめる。六日前、不慮の事故で暁斗は亡くなった。
「表裏一体って言うじゃん?」
あの時と同じ、ジメジメとした陰鬱な感覚が背中から広がる。大学卒業間近に別れて以来、暁斗の葬儀で再会した彼女。あいつが死んで今日で六日目。送られてきた彼女からの「会おう」という一通の短いメッセージ。そしてまるで運命に導かれたかのように眼前に現れたあの子。
––––お揃いにしなきゃ
お揃いにされるのか? それとも表裏一体という言葉通り、彼女が自ら命を絶つのか?
頭に彼女のピアノが鳴り響く。聴く者を惹きつける、誘惑するような甘い音色。初めてそれを聴いた中学生の時に抱いた彼女への好意が再び沸き起こる。
「私、あなたの
彼女が唯一俺に対して「好き」と明確に発した言葉。
正反対に揃えてたのか? 暁斗の暁を"秋"とし、俺の名前の燈を"
下がった体温が今度は顔や腹から熱く煮えたぎる。これまでに感じたことがないほどの激しい怒り。あいつの大事なものは……
息苦しくなった俺はハンドルに突っ伏して呼吸を整えようと試みる。しかし、やがて目の前が真っ暗になり、ブレーキペダルを踏んでいた右足が徐々に右へとずれていく。
––––一台の白いセダン車が動き出す。
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