鍋の季節

花沢祐介

鍋の季節

「あー……寒い」


 ようやく一日の仕事を終えた私は、アパートの自室へまっすぐ帰る。


 ――11月。


 夏の暑さはとっくに過ぎ去っていて、時々吹く冷たい風が首元をスルリと撫でてゆく。

 そんな季節だ。


 駅を出て大通りを外れ、何回か角を曲がるとアパートの外観が見えてくる。

 すっかり見慣れた灰色の壁も、寒さからかどこか冷ややかな様相を呈している。


 アパートに到着し、いつものように階段で自室のある三階まで上がりかけたところで、ふと立ち止まる。


 ……あれ、もしかして。


 何となく廊下に人の気配を感じて、階段を登りきったあと顔を上げてみると、


「おかえり〜」


 などと言いながら、食材の詰まったビニール袋を両手にぶら下げた男がニコリとこちらを見ている。


 ……そこは私の部屋だっての。


 この見るからに軽そうで、アホそうな顔をしている男の名前は淳也。

 私の彼氏ではないし、元カレでもない。

 かと言って、ただの男友達でもない。

 いわゆる関係だ。


「今日は久し振りだから美味い肉、買ってきたよ〜」

「アンタねぇ……」

「ささ、もうすっかり寒いから中へ」

「私の家だから!」


 夜分に廊下で騒いでご近所から白い目で見られるのは御免だ。

 私はひとまず淳也を部屋に押し込む。


「まったく、ポンは相変わらず荒いな〜」

「誰かさんのせいでしょ」

「はいはい」

「……もう」


 ポンというのは私、本田ほんだ七緒子なおこのあだ名で、名字からとってきてポン。

 実に単純明快だ。


 淳也はスニーカーを脱いだ後、慣れた手つきでコートをハンガーにかける。

 私の部屋の配置は、数年前からほとんど変わっていない。


「もうお腹ペコペコだ、キッチン借りるよ〜」

「って言いながら、もう使ってるでしょ」


 淳也は笑いながら手を洗い、鍋料理の準備を始めた。

 毎年肌寒い季節になると私の家にやってきては鍋を作り、春になって暖かくなるともう用は無いと言わんばかりにフラッといなくなる。

 

 鍋の季節に私の元へやってくる男。

 それが淳也だ。


「前より部屋散らかってない?」

「アンタが突然来たからでしょ」

「ふ〜ん」

「何よ?」

「別に」

「……アンタも相変わらずね」


 こういったやり取りも約七ヶ月振りだ。

 前回、淳也がこの部屋に姿を見せたのは、確か4月の中旬頃だったと思う。

 去年の秋から今年の春先にかけて私の部屋に入り浸っていた淳也が、部屋に忘れ物をしたとか何とかでやってきたのだ。

 これでもうこの関係は、五年目になる。


「ポン、今年一発目は何鍋にする?」

「何でもいいよ」

「つれないなぁ」

「……じゃあ塩で」

「はいよ〜」


 何パターンぶんの食材を用意してきたのかは知らないが、淳也は手際よく野菜を洗ったり切ったり、保存容器に詰めたりしている。


「アンタ、私より私の家のこと把握してない?」

「記憶力いいからね」

「ウソつき」


 悔しいけれど、記憶力がいいのは本当だと思う。

 昔少し話しただけのことでもよく覚えているし、私の味の好みも細かく記憶している。

 肌を合わせたときのこともそうだ。

 忘れてくれていいのに、忘れてくれればいいのに、淳也は私のあらゆることを覚えている。


 ……ほんと、ズルいやつだ。


 そもそも、私も私でよくない関係の始め方をしてしまったように思う。

 大学三年生の秋、授業で偶然知り合った淳也といい雰囲気(と思っていたのは私だけなのかもしれない)になって、鍋を振る舞うからと言う淳也を流れで家に上げたのだった。

 そしてその日の晩に身体を重ね、淳也は私の部屋に入り浸るようになった。


 それからあっという間に四年の月日が経ち、気づけば淳也は鍋の季節だけやってくる男になっていた。

 情けないことに、毎年だんだん肌寒くなってくると、どこか期待してしまう私がいる。

 なぜこの男から抜け出せないのか、自分でもよくわからない。


「ポン〜、もう少し煮込んだら完成ね」


 私が部屋の片付けやら掃除やらをしている間に、鍋は完成に近づいていたらしい。

 キッチンに意識を向けると、塩鍋の美味しそうな匂いが鼻とお腹をくすぐった。

 実際、淳也の料理は美味しいのだが、これも何だか悔しい。


「こっち片付けたら行く」


 散らかっていた部屋をテキパキと片付けて食卓に向かうと、淳也は丁寧に配膳まで終えていた。

 これも、私が熱すぎるものは食べれないことを知っての行動だ。


「じゃあ、食べよっか」

「うん」

「いただきま〜す」

「ねえ淳也」

「何?」

「……ありがとう、鍋作ってくれて」

「いいのいいの。ほら早く食べて」


 私は程よい熱さになった野菜とスープを口に運ぶ。

 優しい塩鍋の味が冷えた体にスッと染み渡る。


「美味しい」

「それは何より」


 私たちはまるで、昨日までの日々も二人で過ごしてきたかのような顔をして箸を進めていく。

 温かく煮込まれた鍋のおかげか、淳也に対する心の棘も次第に柔らかくなっていった。

 そして、しばらく会っていなかった間の話も自然と盛り上がるのだった。

 ――これも淳也の思惑通りなのだろうか。


 和やかな雰囲気のままシメの雑炊まで食べ終えると、二人で食器の片付けに取りかかった。

 冗談も交わしながらひと通り洗い物を終えると、淳也は自分の鞄の中から小さな箱を取り出してきた。


「ポン」

「ん、何?」

「はい、これ」

「これって……?」

「開けてみて」


 淳也に促されて箱をそっと開けてみると、高級なリップクリームが入っていた。

 これも私が好きなものだ。

 ほんのり優しくて甘い、良い香りがして、一人のときでも落ち着くリップクリーム。


「……ありがとう」

「いきなり押しかけたお詫びね」


 屈託のない淳也の笑顔が心に沁み渡ってゆく。


七緒子なおこ


 ふいに名前を呼ばれて心臓がキュッとなる。

 七ヶ月振りとなると尚更だ。

 そして五年目にもなると、それが何の合図なのかも分かっている。


 ……私はこの男から抜け出すことができるのだろうか。


 抜け出さないにしても、いつかはちゃんと向き合わなくてはならない。

 そう分かっている。

 分かっているけれど……今は目の前の心地よさに、ただただ浸っていたいのだった。

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鍋の季節 花沢祐介 @hana_no_youni

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