ピーナッツバターを塗る仕事
矢向 亜紀
ピーナッツバターを塗る仕事
私は建物にピーナッツバターを塗る仕事をしている。専門学校を卒業して以降、ピーナッツバターと格闘する日々を送っておよそ十年が経つ。
この仕事の八割は、メンテナンスと言っても過言ではない。あなたも、オフィスビルまでとは言わずとも食パンにならばピーナッツバターを塗ったことくらいあるだろう。あの景色を想像して、食パンを地面と垂直に立ててみるといい。そう、ピーナッツバターを塗ったままの状態で維持するのは簡単なことではない。今、あなたの頭の中の食パンから、砕けたピーナッツがごろりと落ちバターがどろりと流れてしまったように。
私たちの仕事は、塗り立ての状態を長く保てるピーナッツバターを調合するところから始まる。他の同業者たちもそう。みんなそれぞれに自分なりのレシピがあり、自分が担当するビルに合わせてピーナッツバターを調合する。それを塗りつけるのは、もちろん食パンではなく建物だ。バターナイフの代わりにコテを持ち、宙ぶらりんになって建物に塗る。崩れるより、欠けるより先に塗り直す。それが私の仕事。退屈とは程遠い仕事だ。
どれだけ見栄えのいい建物でも、最後のピーナッツバターがドロドロでは目も当てられない。例えば高級ホテルなんかでは、業界のトップクラスが集められ、年単位でピーナッツバターの原料を吟味し調合を考え、人間国宝級の職人によって壁面にピーナッツバターが塗られる。
十年もこの業界に居れば、建物の前を通るだけでピーナッツバターの品質がわかってしまう。以前、鳴り物入りで売りに出されたタワーマンションからゴム長靴のようなピーナッツバターの香りがした時は、絶望のあまり天を仰いでしまった。案の定、そのタワーマンションは早々に耐震偽装が発覚して大騒動になっていた。杜撰な仕事をした方が当然悪いのだが、私からすれば、ピーナッツバターを軽んじる輩に作られた建物に群がる側にだって、十分問題がある。
さて。私が最近ピーナッツバターを塗っているのは、日本屈指のビジネス街A駅付近の界隈だ。空から見たらドミノ倒しができそうなほど、この辺りにはオフィスビルが立ち並んでいる。
ここでは数区画ごとに私のような人間が割り振られ、日々どこかしらで誰かがオフィスビルにピーナッツバターを塗る光景が見られる。また、A駅は国内外からの観光客にも多く利用されるので、私たちの仕事風景を撮影する観光客も少なくない。街行く人を楽しませるため、地域全体が季節ごとに趣向を凝らしたピーナッツバターでオフィスビルを彩るのは、A駅の風物詩として観光ガイドなんかでも取り上げられている。
しかし。
「カカオが手に入らない?」
「はい……」
正月気分もようやく抜けた頃、私は同業者たちと共に街の役人に呼び出された。そろそろ、バレンタインデー向けのピーナッツバターを作る時期だ。毎年のことなので、今回も
提携先のカカオ豆農家が災害でかなりの損害を出し、ほぼ出荷停止の状態に陥ったそうだ。肥沃な農地に荒れて黒ずんだ土砂が積もって、それらを片付けなければ農業を再開するのも難しいらしい。
「私どもも、なんとかしてピーナッツバター用のカカオ豆農家を探したのですが、この時期はもうどこもかしこも……」
確かに、ピーナッツバター用のカカオ豆農家なんて限られた件数しかないだろう。収穫直前に災害で全てを失った農家の無念さだって想像できる。私たちは役人を責める気にもなれず、今年のバレンタインデーの趣向は中止という決定を受け入れるしかなかった。
帰り道、私たちはとぼとぼと街を歩きながら、自分たちが手がけたオフィスビルを見上げた。夕暮れに照らされたピーナッツバターが、きらきらと街の中で光を放つ。甘い香り、鮮やかで優しい
突然、隣に立っていた同業者が泣き出した。
「バレンタインデー、いつも楽しみにしてくれてる警備員さんが居たんだよ……。その人、奥さんに先立たれたんだけどさ。二人が初めて出会ったビルで、今でも警備員をしてるんだ。だから、バレンタインデーにチョコレート色になる街や、自分が働いてるオフィスビルを見ると、亡くなった奥さんからの贈り物を貰ったような気持ちになるって言って……」
その話を道端で聞きながら、私たちは一緒になって堰を切ったように大泣きした。泣く度に、周りのビルから漂うピーナッツバターの香りが鼻をくすぐった。顔も知らない警備員のことを思い、その妻を思い、何の縁もない道端の花壇に手を合わせた。ビジネス街に造られた、人工的な花の楽園。コンクリートの中に埋められた土に、この花たちは本当に根付いているのだろうか。
年甲斐もない泣き顔のまま、私たちは色とりどりの花壇を眺め続けていた。
たとえどんなことがあったって、朝が来れば私はピーナッツバターを練り上げるし、昼が来ればそれを塗りにA駅に向かってトラックを走らせる。みんなで泣いた道端も、手を合わせた花壇も、誰かの恋の舞台になったオフィスビルも、何もかもを追い越して。
今日も、ピーナッツバターを塗る私の姿を誰かが写真に撮っている。私は屋上から伸びる命綱を腰に繋いで、身ひとつでオフィスビルの壁面をたどり、ピーナッツバターを塗っていく。晴れた日は空に近づいたようで気分が良く、雨の日は自分まで雨に溶けた気持ちになる、そんな仕事だ。
オフィスビルと繋がったまま、私はビルの中腹で休憩した。ピーナッツバターの香りに包まれながら、食パンに食用のピーナッツバターを塗る。そう、オフィスビルに塗るピーナッツバターは食べられない。見た目や香りが同じなので、もし建物にピーナッツバターを塗る文化がない地域の人であれば、気づかず舐めてしまうかもしれないが。
「……ああ、そうか」
私は、手元の食パンに視線を落とした。刻まれたピーナッツたちが、駱駝色の中からこちらを見上げている。頬張れば口に広がる豆の香りを噛み砕けば、骨のように音を立て、ピーナッツは咀嚼され飲み込まれる。その、たった数秒のために食パンの上に塗られたピーナッツバター。
私たちは、どうしてオフィスビルにピーナッツバターを塗るんだろう? そこにオフィスビルがあるから?
違う。人生から少しでも、退屈を遠のけるためだ。食パンを食むその一瞬、ビルを眺めるその一瞬、街を歩くその一瞬。そんな僅かな隙間にも、退屈は入り込んで来る。退屈を忘れるためならば、人はオフィスビルにピーナッツバターを塗るくらいのことは平気でやる。
私は、宙ぶらりんになりながら周りの景色を眺めた。ビル風は私を揺らし、揺らぎようがないオフィスビルに体当たりし、花壇の花々に泣きついた。
バレンタインデー当日。
A駅付近のビジネス街は、チョコレート色をしたピーナッツバターに包まれていた。香ばしく甘い恋の香り、友情や親愛を見守る普段よりも濃い茶色。
「板チョコでできた街みたい!」
観光客らしき親子連れが、そんなことを口ずさみながら街の写真を撮っている。確かに、言われてみればこの街は板チョコを立てて作ったように見える。お菓子の家、人を惹き寄せる見栄え、突然の来訪者に横取りされる景色。
私は、同業者たちと一緒に街を眺めた。あの日最初に泣いた同業者が、また目に涙を浮かべながら口を開く。
「よく、土を混ぜようなんて思ったよなぁ」
最初にその話をした時は、誰もが口々に反対した。いくら食用ではないとは言え、ピーナッツバターはピーナッツバターだ。もちろん、私だって最初は躊躇った。しかし、あの時目にした花壇が、災害で農地を黒ずんだ土で覆われたカカオ豆農家の農園が、見知らぬ警備員と亡き妻が、ピーナッツバターの色と香りに包まれるこの街が。私の中でうっすら交わった。
街の役人は、土砂が無毒であることを確認し、カカオ豆農家からそれを大量に買い取った。役人の判断を見るに、土を混ぜたピーナッツバターを建物に塗るのは違法ではないらしい。大喜びしたのはカカオ豆農家。これでやっと農業を再開できると、空に手を合わせ拝んでいたと聞く。
そこから先は、私たちの仕事だ。この時ばかりはみんなでピーナッツバターのレシピを考え、どのオフィスビルでも同じようなピーナッツバターを塗れるように試行錯誤した。色は申し分ない。香りはと言えば、土の香ばしさとピーナッツバターの甘さが混ざり合い、いつものバレンタインデーとは少し違うものになったけれど。
道ゆく人たちは歌うように口ずさみ、写真を撮ってはしゃいでいた。
「やっぱり、ここの景色を見ないとバレンタインデーって気分になれないね」
「この香り嗅いでたら、チョコレート食べたくなって来た。どっかで買おうよ」
「だったら、前にネットで見たー……」
彼らは手を取り、笑い合い、バレンタインデーの街に消えていく。偽物のチョコレートの中に溶けていく。きっと警備員もこの街を見て、亡き妻に想いを馳せているのだろう。私たちは例年通りのバレンタインデーの光景に満足し、写真を数枚撮影してから家路につく。
すぐ手を伸ばせば届くのに、誰もピーナッツバターには触らない。当然だ。バターナイフもないのに誰がそんなことするだろう。もちろん、街を彩るピーナッツバターに何が混ざっているのか疑う声は、どこにも見当たらなかった。
私はビルにピーナッツバターを塗る仕事をしている。専門学校を卒業して以降、ピーナッツバターと格闘する日々を送っておよそ十年が経つ。
だから私も、どうして自分がオフィスビルにピーナッツバターを塗っているのか、考えるのはやめることにした。だって、そんなのは酷くー……。
ピーナッツバターを塗る仕事 矢向 亜紀 @Aki_Yamukai
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