Agape
細蟹姫
Agape
高校に入って最初の夏…を前にした、真新しい夏服に袖を通し始めた頃の事。
僕に人生初の彼女が出来た。
相手は一つ年上の
部活紹介で、自作の
明るくて人懐っこい性格の愛花先輩は、その名に相応しい、愛らしい笑顔の花を振りまくムードメーカーで、僕はもちろん、同時期に入部した
だから、ひょんな事から恋人が居ない事を聞いて、勢いで告白をして、OKを貰えた時は飛び上がる程に嬉しくて、腹の底から沸き上がった「よっしゃぁぁぁあ!」の叫びに、元より真ん丸な目を更に丸めながら大笑いした愛花先輩の子どもみたいな笑顔を、一生守りたいなんて事を本気で思ったりもした。
部室から2人で帰る瞬間の落ち着かない気持ちも、人目を気にしながら指を絡ませて歩く心の高揚も、物陰に隠れて重ねた唇の熱も、その手を離す瞬間の胸の痛みも、全部が全部、幸せだった。
「俺、昨日愛花先輩とデートしてさ、キスしたんだわ。」
将兵から、そんな言葉を聞くまでは。
*
蝉すら鳴かない暑すぎる夏の午後、将兵の言葉が頭から離れなくて、授業などそっちのけで愛花先輩を呼び出した。
乱雑に放置された机と椅子。
立てかけられたよく分からない金属の棒。
高く積まれた段ボール。
使い古された花飾り。
湿気臭い倉庫独特の香りに潜む緊張と背徳感に呑まれる僕の手に、愛花先輩の細指が絡む。
「あの…愛花先輩に聞きたい事があって。」
「なぁに?」
いつもと変わらない純真無垢な微笑を目の当たりにすると、生まれた小さな疑心など取るに足らないものな気がした。
「昨日、将兵と出掛けたって聞いて。」
「うん。カラオケに誘われたんだよ。」
「それで、その…キスしたって聞いたんだけど?」
「あ、したよ。何で?」
「何でって…え?」
「したいって言われたから。 あ、もしかして
「当たり前だよ!」
「そっかぁ。じゃぁ――― んっ」
不意を突く様に、愛花先輩の唇が僕の唇に重なった。
静まり返る部屋に、重めのリップ音が響く。
「悪い子だなぁ、健君は。」
惜しむ様にゆっくりと離れた唇から発せられる甘ったるい声に脳が麻痺するも、僅かに残る理性を繋ぎ、僕はもう一度愛花先輩に向き直る。
「愛花先輩は僕の彼女だよね?」
「そうだよ。」
「将兵ともこんなキスしたの?」
「違うよ。将兵君とは軽く1回。体験してみたいって言うから手伝ったんだけど…あれ? もしかして健君、怒ってるの?」
「怒ってるというか、状況に戸惑ってる。」
「ん? キスしたくなったから呼んだのかと思ったけど、勘違いだった? ごめんね。」
「そこじゃない。浮気しても悪びれもしない事、僕は愛花先輩が理解できない。」
「浮気? 浮気かぁ… 浮気は、健君の心の問題だからなぁ。」
愛花先輩は少しだけ困ったように眉を下げた。
「ねぇ、健君。この世界は愛で満ち溢れているのに、どうして人間は、たった一人にしか愛を注いではいけないと決めたんだろうね? 困っている人は助けなさいって、人には愛を持って寄り添いなさいって、そう教える癖に、恋人が出来た瞬間から、どうしてたった一人しか愛してはいけないのかな? 私はただ、大切な人に幸せになって貰いたいだけだよ。家族も、友達も、恋人も。皆が幸せになって欲しい。その為に少しでも出来る事があるのなら、私は手伝いたいって思う。」
「それとこれとはっ」
「同じだよ? 将兵君は友達で、私とのそれを望んでいた。だから応えただけなんだけど…」
何かおかしい? と、愛花先輩はキョトン顔。
それはあまりに勝手な言い分なはずなのに「人助けに身体を捧げてはいけない正当な理由」が、一つも思い浮かばない。
「僕の事も…僕が望んだから恋人になってくれたの?」
「うん。健君が好きだったから、この体全部捧げてもいい程愛してるから、恋人になったんだよ。」
「ならっ!!」
僕はその場で愛花先輩を押し倒した。
怒りなのか嫉妬なのか情けなさなのか、自分でも分からない陰鬱とした感情を叩きつける様に力任せにその身体を求める。
なのに、愛花先輩は朗らかな笑みを浮かべて抱き寄せた僕の身体に甘い吐息を漏らして愛を囁く。
――― 愛してるよ。健君 ―――
*
どれだけ真っ黒な感情も、愛し受け入れてくれる愛花先輩に溺れる一方で、その愛情が僕だけに無い事への絶望は大きかった。
どれ程居るかも分からない、愛花先輩の大切な人を、受け入れる器は僕には無い。
だから不安を消すように、僕らは何度となくお互いを求め合った。
否、求めていたのは僕だけだったのかもしれないけれど。
だけどそうしている間は、愛花先輩は僕だけのモノだった。
だから離しさえしなければ、いつか僕だけのモノになるんじゃないかなんて幻想を、僕は胸に抱いていたのかもしれない。
*
「なーに悩んでるの? あ、分かった。愛花先輩の事でしょ?」
部活に行く気になれず、部室棟へ続く渡り廊下から見える運動部の練習をぼんやり眺めていると、無遠慮に肩を叩かれる。
隣で手すりに頬杖をついたのは、隣のクラスの
住む世界が違いそうな
同じクラスの将兵とは馬が合わないらしく、莉奈は僕にばかり話しかけて来る。
「愛花先輩モテモテだもんね。彼氏としては心配?」
「まぁ。でも、その気さくさが長所でもあるから。」
「大人だね。私は、好きな人には私だけを見て欲しいし、よそ見なんて絶対しないけどなぁ。」
「へー、意外。」
「失礼ねぇ! 言っとくけど私は、彼氏の男友達と2人で密会なんて不安にさせるような事絶対にしないよ?」
「何でそれを…?」
「ふふっ。女の情報網は凄いのよ。特に、好きな人の事ならね。」
「え?」
驚いて振り向くと、目の前には潤んだ瞳が揺れている。
「私じゃ…駄目かな? 私、健の事好きなの。」
唇をムッと噛んで俯いた顔に後ろ髪が掛かると、覗いたうなじが赤く染まっているのが見えた。
(本気だ…)
その事実に、ニヤケているであろう顔を両手で覆う。
「ごめん。」
僕は咄嗟にそう返していた。
「そうだよね。こっちこそごめん。」
「あ、いや違う。その、莉奈がそんな風に僕を見てるなんて知らなくて、だからその、嬉しい。けど…なんて返していいのか分からない。」
「あっ」
「うっ」
お互いが覗き見た瞬間に目がパッチリと合って、余計しどろもどろになる二人。
「ふふっ」
「あははっ」
妙な雰囲気に
だって、目の前で笑い泣く莉奈の姿は、とても可愛く見えたから。
*
「あれ? 健君に莉奈ちゃん。部活行かないの?」
透き通る愛花先輩の声で我に返る。
いつから見ていたのだろう?
僕は咄嗟に「違うんです!」と叫んだ。
「何が?」
ポカンと首を傾げた愛花先輩に莉奈が突っかかる。
「今私、健に告白してるんです!」
「そうだったの。それは邪魔してごめんなさい。」
「ちょっと待って!」
「じゃっ」っと、気にする素振りも無く素直に立ち去る姿が癇に障ったのだろう。
莉奈は愛花先輩を呼び止めた。
「丁度いいから、この場で健に選んでもらいましょう。私か、先輩か。」
「ちょっと、莉奈!」
「お願い健。駄目なら諦めるから。いいですよね? 先輩。」
「まぁ、健君がそれでいいなら。」
そうして何故か、覚悟を決めて凛と立つ莉奈と困惑気味な愛花先輩を前に、窮地に陥った僕。
だけど、答えはもう決まっていた。
「僕は愛花先輩と付き合ってる。だから、莉奈とは付き合えない。」
「そっか…」
落胆しつつも、どこかスッキリした表情を見せた莉奈。
その横で愛花先輩は腑に落ちない顔で僕を見る。
「莉奈ちゃんは健君を好きな気持ち伝えたんだよね? なのに、健君はその答えを言ってないの、ズルくない?」
「何の話ですか?」
「健君は莉奈ちゃんが好きかどうかを答えるべきだよ?」
「僕の彼女は愛花先輩です。僕は愛花先輩が好きです。」
「知ってるよ。でも健君、莉奈ちゃんの事好きでしょう? 2人が付き合うなら、大賛成! 私が邪魔なら別れればいいだけの話だよ?」
「………」
――― パシンッ
言葉を失った僕の代わりに、莉奈が愛花先輩の頬を叩いた。
「何? 何なの? 何であなたみたいな人が健の彼女なの!? 」
「莉奈ちゃん?」
「何でよ!? 健の事大切に出来ないくせに、好きでもないくせに、人を弄んで楽しい訳!?」
「誤解だよ。私は健君の事が好きだよ? でも、莉奈ちゃんの事も好き。 だから、好きな人には幸せになってもらいたい。二人が好き同士なら、応援したいだけだよ?」
「ふざけんなっ!!!」
愛花先輩の口から吐き出される愛の言葉が、僕の心をグサグサと刺していく。
それでも、莉奈が代わりに愛花先輩に掴み掛かってくれたおかげで、僕は何とかその場に立つことが出来た。
暴れる莉奈を取り押さえ、罵詈雑言を浴びせられて尚微笑む愛花先輩に、やっとの思いで僕は口を開く。
「愛花先輩…別れましょう。」
「寂しいけど仕方ないね。健君、幸せになってね!」
赤く腫れあがった頬を上げ、綻ぶような笑顔を見せる愛花先輩は、多分僕より僕を知っていたんだと思う。
その心からの祝福は、誰にも理解されたくない僕だけの、愛花先輩の無垢で真っ直ぐな最愛だった。
*
そんな苦い恋物語も、今では遠い過去の事。
月日が流れ、僕は大人になった。
世界人口80億人の中から、たった一人を探し出し…なんて壮大な物語は無いけれど、普通に恋をして、結婚して、2人の子どもにも恵まれて。
たまには小さな諍いも起きるけれど、おおむね順風満帆だ。
「あれ? 健先輩、今日の飲み不参加っすか?」
「あぁ、この前キャバクラ通いが妻にバレてさ。しばらく飲み禁止命令。」
「まじっすか。キャバクラ駄目なんて奥さん潔癖っすね。
「ははは。愛のカタチは人それぞれだな。でも、僕が選んだのは、そんな潔癖な妻。ってことで、お疲れ。」
「愛妻家っすね。お疲れ様でーす。」
気さくな後輩に軽く手を上げ別れを告げて、まだ明るい町の雑踏に身を置いた。
適当に見つけた花屋に寄って妻の好きな花を購入すると、ここでもまた「愛妻家ですね」なんて営業スマイルを頂いてしまった。
(本当に愛妻家なら、ご機嫌取りの花束なんて必要ないだろうに…)
愛のカタチ…だなんて、よくも上手く言ったなと、自分の言葉に苦笑が漏れた。
「どうして人間は、たった一人にしか愛を注いではいけないと決めたんだろう…か。」
その思考に反発するように、僕は一途な妻を愛する事にした。
築き上げたのは、間違いなく僕が望んだ幸せだ。
なのに、ありふれた幸せは灰の様な色をしていて、その居心地の悪さに羽目を外してしまう。
言葉の意味の解釈を都合よく捻じ曲げて、ここから抜け出す理由を正当化させて。
願わくば、何処までも幼稚で純粋で美しい愛花先輩の愛の囁きが欲しい。
それだけがこの世界を色づかせると知っている。
その愛に振り回された日々は今もまだ、呪いの様に僕の身体を蝕んでいるから。
「あ…っ」
現を抜かす僕の左頬を、手にしている花とは違う瑞々しい果実の香りが通り抜けた。
ふいに香ったのは、愛花先輩が愛用していたシャンプーと同じ香り。
懐かしさと、花咲く笑顔が脳裏を掠め、自然と足が止まっていた。
「あれ? 健君?」
少し高めの愛らしい声が、町の喧騒を切り裂いて耳に届く。
高鳴った心に抗えない僕は、振り返ってはいけないと警告を鳴らした脳を無視して振り向きその名前を呼ぶ。
「愛花先輩。」
「うん! 久しぶりだね、健君っ。」
再会を喜ぶ愛花先輩の満面に咲いた笑み。
黒目の大きい丸い目が、真っ白で餅のような頬が、ぷっくりとした唇が…
今もまだ、愛花先輩が純真無垢なままなのだと教えてくれる。
夢か現か幻か…そんなことはもうどうだってよくて、その存在に、年月を掛けて丁寧に丁寧に塗り重ねた嘘が剝がれていく音がした。
*
「ねぇ、愛花。僕を愛してる?」
「もちろん!」
――― 愛してるよ。健君 ―――
堕ちていく…でも、それでいい。
この愛さえあれば、僕は生きていけるのだから。
完
Agape 細蟹姫 @sasaganihime
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