ぼくの大家さん

清瀬 六朗

第1話 ぼくの大家さん

 ぼくが仕事から帰ってみると、うちの庭が沼になっていた。

 門から玄関まではコンクリートで庭の地面より高く舗装ほそうしてあるから、玄関に到達するまではだいじょうぶだった。二階に上がる入り口までもだいじょうぶのようだけど。

 椿つばきやパンジーや水仙が植わっている庭は泥沼になって、水びたしだ。

 玄関の横の水道の蛇口にホースがつないであって、その先から水が出ている。ホースはホース巻きに巻いたままだ。

 蛇口まではズボンの裾を濡らさずに行けそうだったので、行って水道の栓を締める。靴は泥に沈んだが、これくらいなら雨の日に濡れたのと大差ない。

 どうしようか、このまま見過ごして二階に上がろうか、と思ったけど。

 思い直して、一階の玄関のベルを押す。

 一回押しても反応がない。もう一回押す。これでも反応がなければ、自分の部屋に引き上げようと思う。

 でも、ばたばたばた、と玄関のなかで音がして、玄関の戸が開いた。

 ゆきさんが顔を出す。

 ぼくの大家さんだ。

 歳は二つほど下らしいけど。

 「あ、信喜のぶきくぅん」

 魂が半分以上どこかの世界に行ってしまっているような、ぼんやりした声だ。

 「おかえりなさぁい」

 そのあいさつには答えずに、ぼくは指摘する。

 「庭が沼になってますけど」

 「えっ?」

 何を言われたかわからないらしい。追加説明する。

 「水道の栓が開けっぱなしで、庭が泥浸しなんですけど?」

 「はあ……」

と、一瞬の間があって

「あーっ、たいへんっ!」

 倖さんが大声を上げた。大声でもどこか透き通っていて、声がこの世に完全に帰っていないみたいだ。

 「庭に水こうって水出して、台所の火を消したかなって確かめに行ってっ……」

 そこまでは、たいへんよろしい。

 「そのままソファに寝ちゃってたぁ!」

 「寝ちゃってたぁ」じゃないだろう……。

 このままここにいると、ろくなことにならないと思った。

 「あ、水道の栓はいま止めましたから、このままにしておいたほうがいいですよ。明日になって乾くのを待つのがベストかな。じゃ」

 そう言って、倖さんの反応は見ないまま、ぼくは二階への階段の上り口へと向かった。


 二階の玄関で靴の状態を確認する。泥に埋まったのは靴底の部分だけのようだ。

 靴の手入れや泥がついた階段の掃除は後にする。

 スーツを脱いでシャワーを浴び、ポロシャツに着替える。

 夕飯の材料は帰りに買ってきた。別に料理が趣味なのではない。いまのご時世、そちらの方が安上がりだからだ。

 買い物バッグを持って台所に行く。

 このぼくの部屋は、台所に行く廊下のところが狭くなっている。

 なぜ狭くなっているかというと、そこに階段があるからだ。

 いま、その階段の出口には扉が取りつけてある。こちらからは開けられない。

 たぶん向こうからも開けられないだろう。開ける仕組みはあるはずだが、たぶん、ゆきさんが開けかたを知らない。

 この扉が倖さんとぼくの居住空間を隔てている。

 この家は倖さんのものだ。

 もともと倖さんのご両親の家で、倖さんはここで生まれて育ったという。でも、その親御さんが仕事の都合で引っ越してしまった。親御さんは引っ越し先で新しく家を買い、この家が倖さんの家になった。

 一人で住むのに広い家はいらないし、寂しすぎるといって、二階を貸家にした。二階に独立した玄関を作り、台所とトイレと風呂を追加して、二階だけで生活することができるように改造した。

 その初代の借り手がぼくということらしい。

 しかし。

 「ま、要するに、用心棒だからね」

 まだ春の浅いころにこの家の契約に来たぼくに、倖さんのお母さんが言った。

 「ここらへんは治安は悪くないから、女の子一人暮らしでもその面は心配ないけど、その」

と、そこで隣に座っていた倖さんのほうに顔を向けて、言う。

 「この子、ぼんやりさんだから、何するかわからないからね」

 「もう、お母さんったらぁ」

と倖さんはじれるように言って、白くて光沢のある高級そうなセーターを着た腕で自分のお母さんに軽く肘鉄ひじてつを食わせるふりをした。

 そのときは、娘に対するありきたりの親のぼやきだと思っていた。

 しかし、そうではなかった。

 「あれって、たんなるぼんやりさんじゃないよなぁ」

と独り言を言って、鶏の胸肉のパックを買い物袋から引っぱり出す。めんどうな料理はやるつもりはない。フライパンで焼いて、ほうれん草も切って同じフライパンで炒めるつもりだ。

 そう言えば、倖さん。

 買い物に行って、買い物袋をどこかに置き忘れて帰って来て、けっきょく見つからずにまた買い物に行ったことがあったよなぁ。

 ほかにもいろいろあった。

 ぼくがここに引っ越してきて一か月半のあいだに。

 そんなことを考えていたら、香ばしい香りが漂ってきた。

 もう鶏肉が焼けたのか?

 いや。

 いくらなんでも、まだパックに入ったまま、火にかけてもいない鶏肉が焼けるはずがない。

 ふと振り返って見ると、階段の扉のすき間から煙が細く漏れて漂っているのがわかる。

 え?

 庭を沼にしたと思ったら、こんどは火事?


 下りて行く。急を要するかも知れないので、庭の沼に足を取られないように気をつけながら直接に居間のガラス戸を強くノックした。

 居間には白い煙が渦巻いている。炎は見えない。

 ガラスを叩いた音を聞いて、白い煙の向こうから、上半身を大きく揺すりながらゆきさんが近づいてくる。煙を吸ってふらついているのかどうかはよくわからない。

 ゆっくりとガラス戸を開けた。開けると同時に、大きく咳き込んでいる。

 「どうしたんです?」

 ぼくが声をかけると、倖さんは左手をそろそろと動かして、後ろを指さした。

 台所から白い煙がいまも湧いてきている。

 ここも二階と同じでIHヒーターのはずだから、ガスに引火する、という心配はまずないのだが。

 倖さんが苦しい息で言う。

 「いや。お肉焼いてて」

 はい?

 「で、焼けるまでのあいだに、テーブルのとこ、座って、お庭どうしよう、って考えてたら、こんなになっちゃって」

 それに答えるように、台所で「ぽんっ」と何かがはじける音がした。

 たぶんいまも加熱が続いているのだ。

 ぼくは大きくため息をついた。

 「まずヒーターのスイッチをオフにしませんか?」

 「えーっ?」

 その反応……。

 何?


 様子を見に来てそのまま引き上げるわけにも行かないので、家に上げてもらって、その惨状を確認する。

 フライパンの上で、分厚い高級そうなステーキ肉が炭化たんかしていた。

 いや。

 タマネギも、にんじんも、トウモロコシも、その姿のまま炭になっていた。

 その姿は、適当なタイトルをつけて展覧会に出せば芸術品としても通用しそうなくらいだ。

 ぼくが何も言わないでいると、ゆきさんは

「どうしよう?」

と言う。

 自分で考えれば?

 ……と言いたいところだけど、それで「えー? 考えてもわかんない」とか言われたらかえってめんどうだ。

 「表面に傷がつくといけないから、柔らかいフライ返しがあればそれでその焦げたのをはぎ取って、あとは」

 「いや、そうじゃなくてぇ」

と倖さんがさえぎる。

 そうじゃない、って何だろう?

 振り向くと、倖さんは思いきり情けなく言った。

 「わたしの、お夕飯……」

 そして、うつむいたまま、ぼくの顔を上目づかいで見る。


 すべての感情を抜きにして、手間も時間もかからない解決法を考えるとしたら、それは、ぼくが買ってきた鶏肉を焼くことだろう。

 幸い、なのかどうか知らないが、まだパックを開けていない。鶏肉もほうれん草も、スープに入れるつもりのタマネギも二食分はある。

 ぼくは二階の自分の部屋に行って、鶏肉を買い物袋に戻し、買い物袋ごと持って下りてきた。ゆきさんのフライパンは使えないので、フライパンも自分のを持って来た。それに、倖さんのエプロンを使うわけにも行かないので、自分のエプロンを持って来た。

 鶏肉の焼いたのとほうれん草のバター炒めと、タマネギの薄切りが入ったスープをぼくが作るあいだに、倖さんはテーブルの上を片づけ、炊飯器のご飯を温めてお茶碗に盛ってくれた。それが終わって、お皿を二枚、スープ椀らしい陶器のお椀を二つ……。

 え?

 つとめて、そっけなく言う。

 「あ。ありがとうございます。じゃ、二階に持って行って、いただきますから」

 「何言ってんの?」

 軽くぷんぷんした、という言いかたで、倖さんが言う。

 「信喜のぶき君、ここまで料理を手伝ってくれて、このまま二階に帰る気? ここでいっしょに食べようよぉ」

 ねるように言って、ぼくの顔を見上げる。

 いや。

 その。

 それ以前に。

 料理を手伝ったのではなく、ご飯以外の食材は全部ぼくのものなんだけど!


 テーブルセンターを置いただけのテーブルで、ぼくとゆきさんは向かい合ってご飯を食べた。

 別に機嫌を取る義理もない。だから、ぼくは、ぼくがここに入居してから今日までの倖さんのいろんな失敗を数え上げてやった。

 買い物に行って買い物袋を忘れて帰って来た事件のほかにも、洗濯物を入れるのを忘れて洗濯機を回し、

「えーっ洗濯物がどっか行っちゃった!」

と大騒ぎしたこともあった。洗濯まではちゃんとやったけど、洗濯物を干したとたんに竿を地面に落としてしまい、最初から洗い直しになったこともあった。

 とくに人騒がせだったのは、買い物に行った帰りに鍵をなくしたと言って、この世の終わりみたいな悲惨な顔でぼくの部屋に来たときだった。玄関の戸を開けようとしたら、鍵がどこにもないことに気づいたという。ポケットにもバッグにもない。どうしよう、と泣きそうになるので、不動産業者さんのところに鍵はあるはずだ、と言って安心させた。そんな話を契約のときに言っていたのを思い出したのだ。ぼくの契約書で連絡先を探して業者さんに電話して、持ってきてもらう。やっと人心地がついて倖さんの家の玄関を開けると……。

 鍵をさす前にドアは自然に開いた。

 もともと鍵はかかっていなかったのだ。

 倖さんは、鍵をテーブルの上に置きっぱなしにして鍵をかけずに出かけていたのだった。

 業者さんに電話したのはぼくだったので、ぼくが何度も謝って業者さんを見送ったのだが……。

 ご飯を食べながら、ぼくがそんな話をしても、倖さんはにこにこして

「そう言えば、そんなこともあったねぇ」

と懐かしモードで言うばっかりだった。

 そして

「ところでさぁ」

と、倖さんは、また、あの声が半分異世界に消えているような言いかたで言った。

 「いっそのこと、ここの庭、池にしようか?」

 「はいっ?」

 まあ、倖さんの考えについて行けない、なんていまさら嘆く気はないけれど。

 倖さんは続ける。

 「だって、最初から池にしておけば、今日みたいなことは起こらないわけだし」

 それはそうかも知れない。池にすれば、ちゃんと排水の設備もつくわけだから。

 「それに、小さいころから、庭に池があって、そこに金魚とか鯉とかふなとかが泳いでる、っていうのが、夢だったんだぁ」

 はあ。

 「いや、それって解決になってないから」と冷徹に指摘するか、でなければ、てきとうに「小さいころの夢は夢があっていいよね」とでも言っておけばよかったのだろう。

 でも、ぼくは

「いやぁ? 鮒は普通は池で飼わないんじゃないか?」

とか言ってしまった。

 倖さんは残念そうに

「そうか、飼わないかぁ」

と言っただけだったが……。


 そのあと、倖さんがいまはまっているドラマというのをいっしょに見て、二階の自分の部屋に帰って来たときには一〇時を回っていた。

 別に、何かやることがあるわけではないから、いいのだけど。

 「疲れた」

とぼくは言って、畳の部屋に腰を下ろした。

 けれども。

 ぼくの気もちは「疲れた」とは違っていた。

 倖さん、今日も、セーター着てたな。

 ピンクと、灰色と、レモン色のセーター。

 この季節にセーターとは、寒がりなんだろうか?

 髪は中途半端に黄色く染めていて、頬もオレンジっぽく塗ったつもりか、鎖骨のところから上が黄金色っぽい感じだった。

 こんどは、いつ会えるんだろうか?

 いつ、あの甘えた、すきとおった、出した声の半分がどこかに消えてしまうような声を聞けるんだろうか?

 そして、ぼくの想像はひとりでに……。

 倖さんとぼくが肩を並べて、あの一階の居間の表のガラス戸を開けて、庭にできた池を見下ろしている、というところに進む。

 夏の日射しが池の水にちらちらと反射して、池の中では、金魚や鯉や、それに鮒が泳いでいる。

 そんな気候でも、倖さんはセーターを着ているだろうか?

 それとも……。

 いまぼくが何より驚いているのは。

 いま自分がそんな想像をしていることに、自分のなかから何の抵抗感も湧いてこないという、そのことだった。


 (終わり)

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ぼくの大家さん 清瀬 六朗 @r_kiyose

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