陶酔

桜庭ミオ

陶酔

 仕事帰り、最寄り駅に電車が着いたが、俺はアパートに帰る気になれなくて、コンビニで缶ビールを三本買い、エコバッグに入れてふらふら歩く。

 最近、一日に飲む量が増えてるよな。日奈ひながいた時は一日一缶で充分だったのに……。


 あちこちで桜が咲いて、月が出てるのに誰もいない。たまに車が通るが、猫の声もしない。

 普段使わない道の先にあったのは、ブランコと滑り台と鉄棒がある公園。ここに来たのはあの日以来だ。


 静けさに包まれた夜の公園。満開の桜はライトアップされているけど、月だけでも十分明るい。 

 公園の街灯近くにあるベンチに座り、横に鞄とエコバッグを置く。エコバッグから缶ビールを取り出し、プシュっと開けて、ちびちび飲む。


 何食べてもマズイのに、ビールが美味い。昔は苦手だったのにな。ストレスがあると美味いと感じるって、昔誰かが言ってた気がする。


 顔を上げ、月を眺める。

 こんなところで一人、酒飲むなんてさ、馬鹿みたいだ。


 風が吹き、「寒っ」と声を出す。缶ビールをゴクゴク飲んで、桜に目をやる。

 乾杯と、缶ビールを持った手を桜に向けた後、ガキだなと嗤う。


 強い風が桜の枝を揺らし、橙色に照らされた花弁がはらはらと舞い落ちる。

 地面に散らばる幾つもの花弁が風に運ばれていく。明日になれば誰かに踏まれてしまうかもしれない。用無しなんだ。俺みたいに。


 彼女の日奈と一緒に年越しして、初詣に行った時は、こんなことになるなんて夢にも思わなかった。


 新年早々、お袋からの電話で、実家に帰らないことを責められたうえ、『いつ結婚するの?』なんて尋ねられた時は苦笑しながら、『うん、いつだろう』なんて答えたっけ。


 あの時は、彼女が出て行くとは全く思いもしなかった。


 出て行ったのは今年の二月。バレンタインデー前の雪の日だ。

 いつ結婚するんだとか、笑顔で聞いてくる友人達にはまだ伝えてない。


 季節は冬から春になり、桜が開花したのに、俺の心はあの日から、進むことができないでいる。


 酒を飲んでない時でも酔っているかのようにふわふわして、ミスが多く、上司に注意されることが増えた。同僚達にも呆れられてる気がする。心配してくれる人もいるが、俺は素直になれないんだ。


 同棲していた彼女に浮気されてたなんて、そんな恥ずかしいことは言えやしない。

 布団に入ると、彼女の笑顔が浮かんで泣いたり、今頃彼女はあの男と……なんて想像して、なかなか寝つけず、やっと寝られても悪夢ばかりなんて……。失恋を引きずる情けない男だと周りに思われたくねーんだよ。


 それと、あの蛇の話はできねーし。

 ヤバイ奴だと噂されたくねーもんな。

 まっ、俺も正直、疑ってる。あれは現実だったのかって。

 ビール飲んだ後、走ったしな。酔いが回ってても、おかしくねーもん。


 日奈と出会ったのは大学一年の時だった。向こうから話しかけてくれた時は緊張した。笑顔の可愛い子だなと思った。だって、楽しそうにこの俺としゃべってくれたのだから。俺は男子校だったため、女子に免疫がなかったけど、自分にも春が来たって浮かれてたんだ。


 彼女に近づくとふわりとバニラの香りがして、女の子って本当に、甘くて良い匂いなんだなって感動した。香水だって教えてもらった時は驚いたっけ。


 俺はバニラアイスが好きになった。バニラアイスを見ると、無邪気に笑う日奈が浮かぶから。


 あの頃は純粋だった。蛇や狐がいるような田舎から出て来たもんな。大学生の俺は、青春を謳歌してた。男の友人達にも恵まれたし、二年の春に彼女ができた。もちろん日奈だ。


 彼女の柔らかな髪を撫でると、気持ち良さそうに目を細めた。

つかさ君に触られるとね、気持ちがいいの』

 恥ずかしそうに囁く日奈が可愛くて、天使かと思った。大切で愛しくて、この世で一番の宝物だったんだ。


 ファーストキスは大学の図書館だった。いきなり日奈に甘え声で『ちゅーして』っておねだりされて、キス顔で待たれてしまったのだ。キュンとして、夢かと思った。俺は男だ。男は度胸。


 彼女が目を閉じているのをいいことに、俺は急いで周りを見回して、誰もいないことを確認してから、桃色の可憐な唇に口づけた。


 愛しの彼女の唇は、ふにって柔らかくて、マシュマロみたいだった。ドキドキして胸が熱くて、おかしくなりそうだった。いや、もうなってたかもしれない。キスした後、どんな顔をすればいいのか分からなくて、きょどってたし。


 あの日からマシュマロが好きになった。夜中、部屋で何度もマシュマロにキスしたりした。もっと上手になりたかった。日奈も俺がファーストキスだったらしく、俺がいろいろリードしなきゃと張り切った。


 司君すごいって彼女はいつも褒めてくれてたから、俺が何でもしてやるぜって、心から思ったんだ。

 ずっとずっと愛してた。誰よりも君を幸せにできると信じてた。


 卒業後すぐに同棲を始めた。

 最初の頃はよく、ありがとうと感謝してくれたし、すごいねって褒めてくれた。優しいね、大好きだよって微笑む日奈を見ると、仕事も家事も頑張るぜ! って、気合が入った。


 でも。


 いつからだったか、食べた後の食器はすぐ水につけてとか、水をこぼしたらすぐに拭いてとか、トイレのスリッパはちゃんと揃えてとか、ちょっとしたことで彼女が怒るようになり、不機嫌な日奈をなだめるのに必死になったりもした。


 同棲して二年過ぎても彼女は変わらず、部屋に帰れば小さなことで怒るし、仕事の愚痴を言う日奈に、正直うんざりしてたのは確かだ。


 俺だって、泣きたいことの一つや二つあるけど、アイツに愚痴をぶつけたりはしない。愚痴を言っても現実が変わらないことを知ってるからだ。

 会社の同僚達とうまくいかないみたいで、アパートに帰ると、ちょっとしたことでイライラしたり、愚痴を吐き出す日奈。


 自分だけが辛く苦しいと嘆く、悲劇のヒロインぶる彼女は、毎日のように俺に喧嘩を売って、最終的には泣きながら部屋を出て行ったし、俺はもちろん、日奈も謝らなかった。


 別れたかったわけじゃない。

 初めての彼女だ。日奈のことが好きだった。彼女を幸せにしたかった。いつも笑っててほしかった。

 いつかプロポーズして、結婚して子供ができる日を想像したことは何度もあったんだ。


 それを目にしたのは偶然だった。

 誰もいない部屋に帰り、コンビニで買った夕食とビールを済ませて、だらだらとテレビを見ていた俺はふいに、バニラアイスが食べたくなり、部屋を出た。


 夜道をのんびり歩いていた俺は、コンビニのそばで、彼女が、金髪のチャラい感じの男の男とキスしているのを見てしまったんだ。

 二人の唇が離れて、日奈が俺に気づく。目を見開く彼女を見て、俺は逃げた。何も言わずに。


 街灯の明かりを頼りに走った。

 逃げるなよ! 男を殴れよ! このヘタレ!

 北風の中、自分の弱さを責めながら駆ける。何度もこけそうになり、惨めさに涙した。

 何処に行くんだと思いながらも足を止めることができなかった俺は、この公園を見つけたんだ。


 ベンチに座って気持ちを落ち着かせようとした俺は、ベンチの下にいる白蛇に気づき、ぎょっとした。蛇が微かに光って見えるだなんて、頭がおかしくなったと思った。


 俺は、鞄の持ち手を握り締め、しばらくの間、とぐろを巻いて舌をちろちろさせる白蛇と見つめ合っていたが、無性に語りたくなった。相手は蛇なのに。


 口を開き、大学時代からつき合ってる彼女が、見知らぬ男と唇を重ねていた時の衝撃を言葉にして吐き出した。逃げてしまった臆病な自分のことも。

 蛇はじっと俺を見てた。柘榴色の眼で。


 白い何かがちらりと見えた。

 空を仰げば、分厚い雲。舞い降りてくる白い雪。

『……雪、か』

 じわりと溢れる涙。胸が苦しい。だけど、いつまでもここにいるわけにはいかないんだ。


 意味もなく、アパートの近くをウロウロしてから部屋に戻る。

 日奈が荷造りしてた。俺に気づいても無言で彼女は動き、部屋を出る前にようやく目を合わせた。

『新しい彼氏がいるの。あなたと違って優しい人。さよなら』

 と、日奈は無表情で呟いた。

 ヘタレな俺は、彼女に何も言うことができなかった。


 俺は優しくないのだろうか? という疑問が頭の中でグルグルした。

 あれからふと気づくと、同じことで悩んでる。


 女心なんか分かんねーよ! クソがっ!

 苛立ちを感じ、二本目の缶ビールをプシュっと開けて、口に近づけ、ぐいっと飲む。


 ――その時。

 キーキーという、音が聞こえた。

 ブランコが、風の力で揺れているのだろう。


 そう思い、ブランコがある方に顔を向ける。

 俺は驚き、息を止めた。手から、缶ビールが落ちたけど、そんなのはどうでもいい。

 石榴色の双眸がひたと、こちらを見てるんだが、これは夢だろうか?

 ってゆーか、苦しい。静かに息を吸う。そして吐く。


 大丈夫。女は動かない。ドキドキするー。怖いよー。


 ブランコに乗り、俺を凝視してるのは、シルクのような光沢のある白いワンピース姿の女だ。でけぇ胸……。


 女がぼんやりと光って見えるんだが俺、酔ってるんだろうか? 酔ってるよな? 二本目だし。

 彼女、白髪なんだが。二十歳ぐらいに見えるが実は老婆? 老婆なのか?

 目が柘榴色だし、吸血鬼か。白い髪だから雪女ってのもあるよな。

 って、今、春か。


 アハハハハ。俺、酔っぱらって寝ちゃったのかな? 

 春だし、春眠なんとかって言うもんな。よく分かんねーけど。アハハハハ。夢に決まってるよな? そうだそうだと言いました。

 あの女、裸足だし……。肌が白いな。やっぱり雪女? 長い髪が濡れてるみたいにしっとりしてて怖いわっ! 雨なんか降ってねー! 雪女なら雪降らせー!!


 心臓がものすごいバクバクする。熱いからなのか汗がすごい出てる。俺の血が生きろ生きろと騒いでるぜっ! アイツになんか負けねぇっ! 俺の大事な心臓を守ってみせるぜ!! あっ、雪女だったか。うん、どうでもいい。人外だ。人外。人じゃない何か。


 面白い物でも見つけたような顔で、謎の女がにんまり笑う。


 その瞬間、ゾクッとした俺は立ち上がろうとして、生まれたての子鹿みたいにプルプルしながら地面にしゃがみ込み、どんっと尻もちをついてしまった。痛てぇっ。ガタガタと震える身体。ガチガチ音を立てる歯。舌噛みそう。ちびりそう。もう嫌だっ! 早くここから逃げ出したいっ!


 何を考えているのか、女は妖艶な笑みを浮かべると、ゆるりと立ち上がり、ひたひたと近づいて来る。

 怖ぇよっ! 来んなっ!

 魅惑的な香りにクラクラする。


 ぎゃぁ!! すぐそばに来たぁ!! 

 巨大な狼に食べられそうな子兎になった気分で怯えていると、彼女はそんな俺に微笑みかけた。ドキッとする俺に向かって、女は華奢な腕を伸ばす――。


 ウギャァ! 食べられるぅ!!

 と思ったが、彼女の細い腕はベンチ上に向かってた。細くしなやかな指で、三本目の缶ビールに触れる。そして音を立てて缶を開けると、グビグビ飲んだ。


 細くしなかやな指。動く喉が色っぽく、俺は彼女を見上げたまま、生唾を飲み込む。


 ――喉が渇いた。女の細い首にむしゃぶりつきたい。


 ハハハハハ。俺の方が吸血鬼みたいだな。血は飲まねぇけどエロいもんな。俺だって男だもん。エロいのはしょうがねぇ。この女は酒が飲みたいだけで、俺の血や精気には興味がなかったのか。そうか……。


 と思った時だった。


 女が、缶をことりと地面に置き、俺を見る。柘榴色の瞳に魅入られたかのように、ぼーとした。

 女の白い手が、俺の頬を撫でる。

 ああ、冷たくて気持ちいい。


 彼女の艶やかな紅い唇が近づいて、興奮した俺は口を開いた。

 それなのに女は、俺の鼻や頬や額に口づけをする。口を開けてる俺が馬鹿みたいだ。鳥のヒナかよ?


 彼女が俺の首を舐めるので、味見されているような気持ちになって。そうだ、化け物だったと思い出す。忘れるとかおかしいだろ。恐怖が快感になってるよーな気がするわ。大きな胸が当たってる。ってか、押し倒されてんじゃん。魔法かよ? アハハハハ。酔ってるな。俺。そうだった。酒、飲んだもんな。


 女が、俺の唇をハムハムするので、ゾクゾクした。なんだこれ。クセになりそう。彼女の舌が生き物みたいに俺の口の中でうごめく。

 もう、どうにでもなれっ! 俺は、たおやかな肢体を掻き抱き、貪るようなキスをした。

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陶酔 桜庭ミオ @sakuranoiro

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