焼きリンゴ(医師国家試験小説)
浅野浩二
第1話
焼きリンゴ(医師国家試験小説・恋愛小説)
それは、ある冬のことだった。
哲也は、医学部の6年生で、3ヶ月後には、医師国家試験が、ひかえていた。
哲也は、毎日、毎日、猛勉強の日々だった。
哲也は、自分のアパートで、勉強する、ことが出来なかった。
ストレート・ネックで、肩や腰が凝りやすいため、アパートの机だと、前かがみの、猫背になり。また、哲也は、副交感神経優位型の、人間なので、一人だと、アドレナリンが出ないため、気合いが、入らない。なので、人のいる所でしか、勉強できなかった。
これは、医学的に言うと、「人のいる所でないと、だらけて勉強できない症候群」と言う。
そのため、昼は、大学の図書館で、勉強した。
大学が休みの日は、市の図書館で、勉強した。
そして、図書館が、閉まった後では、24時間、営業の、マクドナルドとか、ファミリーレストランで、勉強した。
しかし、アパートに近い、マクドナルドが、閉店してしまったのである。
そのため、彼は、ある、アパートに近い、ガストで、夜、遅くまで、勉強した。
彼が、夜、いつも、来るので、レストランの、アルバイトの女に、顔を覚えられてしまった。
彼女は、彼が来ると、
「いらっしゃいませー」
と、彼女は、笑顔で、挨拶した。
しかし、彼は、きまりが悪く、感情を入れず、注文をした。
彼は、いつも、ガストの、リブロステーキを注文していた。
なぜ、リブロステーキを注文するか、といえば、彼の目的は、お腹が減って、レストランで、何か、食べるのが、目的ではなく、三時間、以上も、ねばって、レストランで勉強するのが、目的だったから、である。しかし、ファミリーレストランは、食事をする所であって、勉強する所ではない。
レストランとしては、あまり、粘られては、困るのだ。
レストランが、どう思っているかは、わからない。
まあ、一時間くらいなら、レストランも迷惑ではないだろうが。
そして、実際に、食事目的で、レストランに入って、ついでに、ちょっと、食後の食休みとして、文庫本を、少し読んでから、出で行く客もいる。
そういう客は、レストランとしても何の問題もない。
また、恋人同士とか、友達同士が食事目的で入って、その後、長々と、一時間、以上、長話し、する場合だってある。
しかし、レストランは、そういう客を迷惑だとは、思っていない。
男女に限らず、人間が、二人、入ったら、無限に、お喋りは、続きうる。
しかし、レストランとしては、それは、異様なことではない。
しかし、食事をするテーブルの上に、教科書を、堂々と、開き、ノートで、カリカリと、勉強するとなると、これは、明らかに、レストランに、不似合い、である。
実際、彼は、ある別の、ファミリーレストランで、5時間、以上、粘って勉強して、「お客さん。申し訳ありませんが、レストランで、勉強するのは、ひかえて下さい」と、言われたことも、あった。
その時は、ショックだった。
それで、それ以来、彼は、腹が減っていなくても、ある程度、値段のする、料理を注文する、ことで、レストランで、勉強することを、断られないように、したのである。
時間も、3時間まで、と、決めた。
レストランも、値段のする、料理を注文されたなら、儲かるのだから、「勉強しないで下さい」とは、言いにくくなる。というか、言いにくく、しようと、いうのが、彼の作戦であった。
そして、食事を食べて、3時間、したら、出て、他の、ファミリーレストランで、勉強することにした。
彼の作戦は、成功した。
というか。
ファミリーレストランでも、店長によって、考え方が、違っていて、別に長く居てもいいよ、と、思っているような、のんびりした性格の店長もいれば、食事以外のことで、長居されたら、困るな、と思っているような、神経質な性格の店長もいる。
あるファミリーレストランの店長が、どういう性格なのか、それは、客の側からは、わからない。
ただ。一度でも、「あまり、長居して、勉強しないで下さい」と、言われたら、もう、その店では、長居でなくても、20分とか、短時間でも、勉強できにくい、雰囲気になるから、ヒヤヒヤものであった。
店長は、厨房の奥にいて、出てこないから、どんな人か、わからないのである。
そういうわけで、彼は、昼は、図書館で勉強し、(といっても、大学の方でも、図書館を遅くまで利用したい人が多いので、アルバイトを雇って、夜7時まで、開けてくれていた)、図書館が閉まってからは、ガストで、勉強した。
彼が店に入ると、
「いらっしゃいませー」
と、ある、女のアルバイトのウェイターが、愛想よく、笑顔で、挨拶した。
彼女は、いつも、小さなハート型のピアスをしていて、それが似合っていた。
しかし、彼は、黙って、事務的に、テーブルに着き、リブロステーキ・セットを注文した。
彼女は、きれいで、彼女に会えるのは、彼にとって、嬉しくもあるのだが、彼は、不愛想に事務的に答えて、彼女と、感情的には、話さなかった。
それは、彼は、彼女のような、きれいな、女には、声をかけられたことなど、ないから、たとえば、旅で、余所の遠い土地で、そういうふうに、聞かれたら、彼も、笑顔で、感情を入れて、友好的に、対話できるのだが、ここの、レストランは、勉強のために、ほとんど毎日、使わなくてはならない。なので、彼は、事務的に不愛想に答えた。彼女は、彼に好意をもっているようなので、親しい態度をとったら、「勉強、たいへんですね」などと、彼女なら、言いかねない。しかし、そんなことを言われたら、彼にとって、決まりが悪くて仕方がない。
彼女との、感情的な関係を持つか、勉強をとるか、といったら、もちろん、彼は、勉強の方をとった。もちろん、女に無縁な、彼は、女を求める欲求は、人一倍、強いが、学問の価値に比べたら、女の価値なんて、紙クズみたいに、小さなもの、というのが、彼の価値観なのである。
それを、察してか、彼女の方でも、「いらっしゃいませー」と、「ご注文は、何になさいますか?」と、店を出る時に、「ありがとうございました」、という、挨拶しか、しなかった。
○
ある日のことである。
冬のメニューに、焼きリンゴが、加わった。
めずらしいな、と、彼は思った。
彼は、子供の頃、焼きリンゴが、好きだった。
生の、リンゴは、酸味が強く、あまり好きではなかったが、砂糖で味つけして、甘く焼いた、焼きリンゴは、歯ごたえの感触が、よく、酸味が、砂糖で味つけされて、美味しくなり、それは、天国の美味だった。
それで、彼は、ガストの、焼きリンゴは、どんなものかと、注文してみた。
食べてみると、美味い。特別、美味い、というわけではないが、子供の頃、食べた、焼きリンゴの懐かしさ、が思い出され、また、食べる機会は、これを、除いては、無い。
ちょうど、綿アメ、や、焼きトウモロコシ、や、ケバブ、は、お祭りの時の、出店でしか、食べられないのと同じである。
それで、メニューに、焼きリンゴが、加わってから、彼は、リブロステーキ、だけでなく、焼きリンゴも、注文するようになった。
まず、リブロステーキだけを注文し、食べてから、さりげなく、国家試験の教科書を開いて、勉強し、一時間くらいしてから、テーブルにある、ボタンを押して、焼きリンゴを注文した。きれいな、アルバイトの女が、トコトコと、やって来る。そして、
「はい。ご注文は何でしょうか?」
と、笑顔で聞いてくる。
彼は、メニューを開いて、焼きリンゴを、指さして、
「焼きリンゴ、お願いします」
と言う。彼女は、
「はい。わかりました」
と、言って、厨房に向かう。
しばしして、彼女は、焼きリンゴ、を、持って、彼のテーブルにやって来る。
待っている間は、彼は、医学の教科書は、カバンの中にしまう。
それは、店へ、来るのは、勉強するのが、目的ではなく、あくまで、食事するのが、目的であり、勉強は、その、ついで、と、思わせるためであった。
その目的も、もちろんあったが、勉強で、疲れた頭を、一休みする目的もあった。
(はあ。疲れた。焼きリンゴを食べて、酷使した脳にブドウ糖を送らねば)
そう重いながら、彼は、焼きリンゴ、が、来るのを待っていた。
すぐに、アルバイトの女が、焼きリンゴ、を持ってきて、ニコッと、笑い、
「はい。どうぞ」
と、一礼して、おもむろに、テーブルに焼きリンゴ、を置いた。
彼は、いかにも、泰然自若として、紳士然として、焼きリンゴ、を食べた。
それは、もちろん、焼きリンゴ、を味わうためであることは、間違いないが、彼が、店に来るのは、こうして、食事をするためだ、ということを、協調するためでもあった。
○
しかし、ある時である。
それは、木枯らしが、ふいて、特に寒い夜だった。
彼が、毎回、焼きリンゴ、を注文するので、アルバイトの女は、焼きリンゴ、を持ってきた時、笑顔で、
「焼きリンゴ。美味しいですか?」
と、聞いてきた。
彼は、内心、おわわっ、と、あせった。
毎日、毎日、勉強に明け暮れ、さらには、俗なる世事に関心が向かわぬ、道学者なる彼にとって、世の女の心など、知る由もなかった。
ただ、彼女の態度から、彼女が、彼に好意を持っていることは、気づいていた。
彼は、彼女が、聞いてきたのは、焼きリンゴ、が、美味しいのか、どうか、と、いうことを、知りたい、という理由からではなく、彼に、話しかける、キッカケのためだと、感じとった。そして、それは、まず、間違いないだろう。
彼は、レストランで、勉強するのが、目的だったから、彼女の好意は、嬉しかったが、彼女と、親しくなりたくなく、それで、
「ええ」
と、小さな声で、厳格さを装って、答えた。
彼女は、彼が、無機的な態度をとったので、さびしそうに、厨房にもどっていった。
彼女が、彼に、好意を持ってくれていることは、無上に嬉しかった。
こんな機会は、彼の人生でも、めったになかった。
だから、勉強目的ではなく、単に、食事のためだけに、ガストに入っているなら、彼は、彼女と、うちとけて、心を開いて、話すことも、出来る。
自分の携帯番号と、メールアドレスを彼女に教え、また、彼女の方でも、彼女の、携帯番号と、メールアドレスを彼に教えてくれた、だろう。
というか、彼女に、メールアドレスを教えれば、きっと、彼女は、彼に、メールを送ってくれるだろう。彼に、メールを送ることで、彼女の、メールアドレスも、わかる。
そして、「一度、会いませんか」ということになって、どこかの喫茶店で会って、話して、意気投合して、親しくなり、彼の、夢である、大磯ロングビーチに、セクシーなビキニ姿をした彼女と、行くことも、出来たに違いない。
しかし、彼には、医師国家試験に通るまでは、勉強が何より、あらゆることに、優先するので、残念ながら、それは、出来なかった。
○
年が明け、いよいよ、勉強がラストスパートに入った。
国家試験は、二月の中旬だった。
彼は、昼間は、大学の図書館で、勉強し、図書館が閉館した後は、ガストに行って、勉強した。
そして、二月に入り、勉強は、今までの、復習と、模擬試験の復習の、ラストスパートに入った。
○
そして、とうとう医師国家試験の前日になった。
朝から、気合いが入った。
試験会場は、近畿大学だった。
彼は、試験会場に近い、ホテルを、あらかじめ、予約しておいた。
ホテルには、イヤーノート、パターンで解く産婦人科、100%小児科、チャート式の公衆衛生、の、教科書を持っていった。
医師国家試験の模擬試験の結果から、まず、自信は、あったが、今回から、それまでの、総合点、6割、合格、から、今回から、採点方法が、変なふうに、変更されていた。医師国家試験は4年ごとに、改定があるのだが、今年は、その年だった。総合点、6割、合格は、変わりないが、まず、必修問題というのが、決められて、それは、8割、取らなくてはならず、また、マイナー科目では、4割、以上、取らないと、足きりを、すると、厚生省は、発表していた。
彼の模擬試験の成績は、7割を切ったことがなく、合格は、まず自信があったが、必修問題で、8割、取らなくてはならない、となると、これは、油断できない試験だった。
ホテルには、他の医学部の受験生も、多く、来ていた。
国家試験が近づくと、今年は、どんな問題が、出そうだとかいう、予想問題の本が出て、彼らは、噂によると、試験前日でも、夜遅くまで、勉強するらしかった。
しかし、予想問題など、たいして当たらない、ということも、彼は、噂で聞いて知っていた。
模擬試験で、まず、合格点が出ているのだから、彼は、持ってきた、参考書を、サラサラ―と、通し読みして、ゆったり風呂に、浸かって、軽い夕食をとって、早めに寝床に入った。
彼は、朝が弱いので、モーニング・コールと、目覚まし時計をかけて、寝床に入った。
寝つきの悪い彼ではあったが、睡眠をとっておかなくては、という意識が強く働いてか、いつの間にか、眠りに就いた。
○
翌朝。試験第一日目である。
目が覚めると、7時、少し前だった。
モーニング・コールも、目覚まし時計のセットも、必要がなかった。
彼は、机に、向かって、サラサラッと、昨日と、同じように、参考書に目を通した。
そして、軽いトーストと、ゆで卵と、紅茶の朝食を食べてから、少ししてホテルを出た。
少し早めにホテルを出たので、試験会場は、まだ、受験生は少なかった。
彼は、自分の席の番号の席についた。
ここでも、参考書を、再度、サラサラッと見直した。
だんだん、受験生が入ってきた。
この試験を落とすと、もう1年、暗い浪人生活を送らねばならないかと、思うと、嫌が上でも、緊張感が高まっていった。
試験監督が入ってきて、試験用紙を配った。
ガヤガヤ話していた、受験生たちも、しんと静かになった。
「はじめ」
の合図で、受験生は、一斉に、パラパラと試験用紙をめくった。
第1日は、一般問題、2つと、量の少ない、臨床問題、一つだった。
試験が、始まるまでは、緊張感で張りつめていたが、いざ、問題を解き出すと、だんだん、落ち着いてきた。
試験問題は、5者択一だが、しぼりきれず、二者択一となる、問題が、結構、多かった。
そういう問題は、模擬試験の時も、そうしていたが、一応、一番、正しいと思われる、ものに、マークして、△マークをつけて、後で、熟考することにしていた。
最初の問題が、終わると、ほっとした。
その後の、2つの試験は、リラックスして受けれた。
だいたい、大丈夫、だという感触があった。
ただ、必修問題で、しっかり、取れているか、が、気にかかった。
試験会場を出ると、すでに、今日の問題の、正解を配っている人がいた。
国家試験の予備校の人である。
どうして、そんなに、すぐに、解答を配れるのかは、わからなかった。
試験問題は、試験が終われば、持って帰れる。
しかし、試験問題を持って帰れるのは、受験生だけである。
厚生省が、国家試験の予備校にも、試験問題を一部、試験終了とともに、配っているとも思えない。
ただ、試験が終わったら、受験生は、試験問題を持っているので、それを、予備校の講師が、見せてもらって、猛スピードで、解いて、解答を出しているとしか思えない。
しかし、実際のところは、どうなのかは、わからない。
もちろん、彼も、解答の紙を受けとって、電車に乗り、ホテルにもどった。
1日目の問題は、2日目の問題の傾向が、わかりやすい、と、言われているが、彼は、1日目の、問題の、答え合わせは、しなかった。
他の人なら、答え合わせする人の方が、圧倒的に多いだろうが、彼はしなかった。
それは、もう、済んでしまった試験であり、採点して、いたずらに、気持ちが動揺しないように、という理由からである。
気持ちが、動揺して、眠れなくなることのリスクの方が、大きいとも、思っていた。
それに、模擬試験の結果から、まず、合格できる実力はあるのだから、小賢しいことに気を使わず、堂々と、していた方が精神的に、いいと、思ったからである。
精神の安定が、彼にとって、何より大事だった。
1日目の試験が終わって、高まっていた緊張感が、ぐっと解けていた。
彼は、風呂に浸かり、参考書を、パラパラッと、見直して、軽い夕食を食べて、モーニング・コールと、アラームをセットして、寝床に入った。
気持ちが、リラックスしていたので、その晩は、すぐに寝つけた。
○
2日目の朝となった。
泣いても、笑っても、今日で、試験は終わりである。
朝は、昨日と、大体、同じに、7時頃に目が覚めた。
彼は、机に向かって、パラパラッと、参考書に目を通した。
そして、軽い朝食を食べて、カバンを持って、ホテルをチェック・アウトした。
2日目は、ぐっと、気持ちがリラックスしていた。
2日目は、2つの試験で、2つとも、臨床問題である。
一般問題より、臨床問題の方が、頭を使うが、1日目の、3番目の試験は、量は少ないが、臨床問題なので、それが、予行練習となっていたので、それほど、緊張しないで解くことが、出来た。
1日目と、同様、試験問題は、5者択一だが、しぼりきれず、二者択一となる、問題が、結構、あった。
そういう問題は、1日目と同様、一番、正しいと思われる、ものに、マークして、△マークをつけて、後で、熟考することにした。
2番目の問題も、終わった。
試験が終わった時には、
(ああ。全力を出し切った)
という満足感があった。
ともかく、張りつめ続けていた、気持ちが、全部、吹っ飛んだ。
採点していないが、手ごたえは、十分、あった。
試験場を出ると、昨日と同じように、今日の試験問題の解答を配っている人がいたので、それを、受け取った。
手ごたえは、あったが、必修問題で、8割、取れているか、は、すごく気にかかっていた。
今すぐにでも、採点したい気持ちを押さえて、彼は、近くの喫茶店に入り、急いで、採点した。
総合点は、6割合格の試験で、7割5分、あったので、問題は、全くなかった。
しかし、必修問題を採点すると、78%だった。
彼はあせった。
(総合点で、十分、取っているのに、必修問題で、2点、足りないだけで、落とされるんだろうか?)
まさか、と思いつつ、その悩みは、深刻だった。
しかし、まさか、そんな理不尽なことは、しないだろう、という考えも、一方で、強くあった。試験後、すぐに配られる国家試験の予備校の解答は、必ずしも、100%、正確というわけではない。また、国家試験は、不適切問題、というのが、毎年、2~3問、ある。
試験は、マークシート形式だから、採点は、早く出来るはずだが、国家試験の合否の発表は、1ヶ月後である。国家試験の模擬試験の、全国の平均点は、ちょうど、6割くらいであり、それは、本試験でも、同じである。ちょうど、合否をわける60点、前後をとった受験生が、圧倒的に多く、そのため、厚生省としても、合否の決定は、慎重にする。
不安な思いのまま、彼は、アパートに帰り、コンビニの幕の内弁当を買って食べて寝た。
○
翌日になった。
彼は、必修問題で、2点、足りないことが、気にかかって仕方がなかった。
それで、彼は、医師国家試験の模擬試験や、医師国家試験の予備校、医師国家試験用の参考書などを出版している、大手の、(株)TECOMに電話してみた。
すると、(株)TECOMでは、
「総合点は、6割、越しているが、必修問題で、8割、取れていない、私と、同じような人からの、問い合わせが、殺到している」
「今回の試験では、必修問題での、8割、での、足きり、や、マイナー科目での、4割、以下、の足きりは、しないだろう」
という答えが、かえってきた。
彼は、それを聞いて、ほっと、胸を撫で下ろした。
医師国家試験は、資格試験であるから、運転免許試験と同じであり、規定の点数が取れていれば、合格となるはずなのだが、それは、建て前的な、要素があるのである。
国家試験の、過去の合格率でも、大体、いつも、9割、に近い、8割台で、続いている。
医師国家試験は、合格率、9割の、選抜試験的な面があり、受験生100人に対し、10人、落とす試験、と、毎年、なっている。
そのため、厚生省としても、合否の決定は、1ヶ月かけて、慎重にする。
しかし、TECOMで、私と同じように、総合点では、合格点なのに、必修問題で、8割、取れていない受験生が多い、ということと、今年は、必修問題での、8割、の、足きりは、無いだろう、という、ことを聞いて、彼を悩ませていた、不安は、一気に、取り除かれた。
まず、合格できる、だろうと、彼は、強く確信した。
総合点で、75%も、取っているのに、それでも、落とせるものなら、落としてみろ、という、開き直り、の気持ちに、彼は、なっていた。
不安が、一気に吹っ飛んだ。
それまで、医学部の中間試験、期末試験、そして、国家試験と、試験に次ぐ、試験の日々を送ってきたが、もう、これで、試験はなくなるのだ。
そう思うと、試験、という今まで、のしかかっていた重圧が、全て吹き飛んだ。
彼は、歌でも歌い出したい気分になった。
医者になっても、たえず、進歩する、医学の勉強は、一生、しなくては、ならないが、合否を分ける試験というものは、もう、無いのだ。
あらゆる、束縛から、解放されて、彼は、自由の身になった喜びを感じていた。
思えば、医学部に入ってからというもの、試験に次ぐ、試験の毎日だった。
それが、試験のない時でも、潜在意識として、彼の心の重荷になっていた、学生生活だった。
いつの間にか、それが、当たり前の、生活と思うようになっていた。
しかし、国家試験が、終わって、潜在意識で、絶えず、彼を圧していた、重荷から解放されて、彼は、羽が生えて、飛べるかのような、解放感、自由の有り難さを、あらためて、ひしひしと感じた。
医学部といえども、入学して2年間の教養課程は、比較的、楽であり、遊ぶゆとりの時間があった。
特に、1年は、楽で、実習もなく、ほとんど、みな、車の免許を取り、授業には、出ず、アルバイトに励んでいた。
100人のクラスで、授業に出ているのは、10人もいない授業も多かった。
1年の時は、法学だの、美学だの、人類学だの、の授業があったが、講師が、早口で、まくしたてるだけで、何を言っているのか、さっぱり、わからなかった。
それでも、彼は、数人の、授業に出ている、真面目な生徒と、出席し、そして、彼らと、友達になった。
3年からは、基礎医学が始まって、一気に、医学一辺倒の勉強になった。
もう、3年からは、遊べなかった。
ひたすら、分厚い医学書で、医学の知識の、詰め込みである。
人間は、机に向かって、頭ばかり、使っていると、体を動かしたくなるものである。
他の生徒は、部活の運動部で、その生理的欲求をはらしているのだろうが、彼は、集団に属することが嫌いで、部活には入らなかった。
○
彼は、久しぶりに、琵琶湖バレースキー場に行った。
琵琶湖バレースキー場は、2年の冬に行ったのが、最後だった。
彼は、うんと、思うさまゲレンデを滑った。
スキーの技術は、衰えていなかった。
一度、身につけた技術が、衰えるということはない。
それで、その後には、近くにある、テニススクールに、スポットレッスンという、スクール生でなくても、随時、一回、一定の料金を払えば、スクール生と、一緒に、レッスンを受けられる、テニススクールがあったので、そのテニススクールで、久しぶりに、テニスをやった。
彼は、大学一年の頃、しばしば、スポットレッスンで、そのテニススクールで、レッスンを受けたことがあった。
そして、大阪へ行って、市内観光バスで、大阪市内を見学した。
国家試験直後に、十分、休みをとったら、また、脳に、活動したい欲求が起こってきた。
それで、彼は、毎日、小説を読んだ。
医学の、ややこしい、本を読み続けてきた、ために、頭の回転が、良くなっていて、小説、や、文学書は、一気に、かなり速く読めた。
○
そうこうしている内に、卒業式が行われた。
男は、スーツに、ネクタイで、女は、着物だった。
彼は、スーツを持っていないので、友達に、スーツを借りた。
長い、勉強一色の六年間だった。
しかし、もう、これで、クラスメートと会うことも無い。
彼は、本当は、実家に近い、横浜市立大学医学部に入りたかったのである。
国公立は、二校、受験できたが、横浜市立大学医学部は、東京に近いためか、偏差値が、少し高く、もちろん、彼の第一志望で受験したが、最終的には、合格できなかった。
それで、彼は、第二志望として、群馬大学医学部も、考えた。
群馬大学医学部は、国立だが、なぜか、偏差値は、そう高くなく、模擬試験でも、十分、合格の判定が出ていた。
しかし、彼は、第二志望として、群馬大学医学部は、考えなかった。
なぜか、というと、群馬大学医学部は、二次試験が、なぜか、数学と国語だったからである。それと、小論文であった。
彼は、ガチガチの論理的思考型理系人間なので、英語や、数学や、理科、は、得意だったが、物事を大づかみに理解する、文科系学問である、国語や社会は、苦手だった。もちろん、小論文も苦手だった。
模擬試験の総合偏差値の結果では、入れる可能性が十分あったが、それは、理系の学科で、点数をかせいでいる、のであって、二次試験の、国語や小論文で、入れるか、どうかは、非常に不安だった。
彼は、カケをしない性格であった。
彼は、危険なバクチは、しない。
東北や沖縄の国公立医学部では、遠すぎる。
それで、彼は、本州の国公立医学部で、家から、大学まで、新幹線で、五時間で、行ける、奈良県立医科大学を、第二志望に選んだ。
奈良県立医科大学の、二次試験は、英語、数学、理科二科目、で、小論文もなく、彼にとって、得意な学科で、勝負できた。しかも、奈良県立医科大学は、一次試験よりも、二次試験の配点の方が、高かった。
なので、彼は、第二志望に、奈良県立医科大学を選んだのである。
そして、合格した。
もしかすると、第二志望で、群馬大学医学部を受験していても、入れたかもしれない。
しかし、それは、わからない。
彼は、危険な賭け、は、しない主義だった。
試験は、合格か不合格かの、全か無か、なのである。
そのため、彼は、安全策をとって、奈良県立医科大学を第二志望として受験し、そして無事、合格した。
しかし、彼は、関西が肌に合わなかった。
そのため、彼は、卒業前の6年の夏に、横浜市立大学医学部の内科に、入局の願いをしていたのである。そして、大学の方でも、それを、快く認めてくれたのである。
○
卒業式が終わって、数日後に、国家試験の発表の日が来た。
発表の場所は、大阪の、厚生局事務所だった。
近鉄大阪線に乗って、彼は、大阪の、厚生局事務所に行った。
受験番号「4126」
彼は、まず、大丈夫だろうと、思いつつも、一抹の不安も、持っていた。
必修問題で、8割、行かず、78点だったからだ。
しかし、掲示板に、彼の番号はあった。
ほっとした。
「やった。これで、オレは、医者になれたのだ」
「もう、厳しい試験勉強をしなくてもいいのだ」
そういう思いが、胸から、沸き上がってきた。
これで、彼は、完全に、ほっとした。
彼は、近鉄大阪線で、アパートに帰った。
○
アパートに着いた彼は、久しぶりに、彼は、ガストの、焼きリンゴ、を食べたくなった。
リブロステーキも。
そのため、彼は、ガストへ行った。
国家試験が終わって、合否の発表まで、一ヶ月あり、その間、一度も、ガストには、行かなかったので、一ヶ月ぶりである。
もう、勉強するためではなく、食事を味わうためである。
しかし、食後、小説を読もうと、カバンに、小説を数冊、入れて、持っていった。
久しぶりに、彼に、好意を持ってくれている、アルバイトの女性に会えるのが、非常に、楽しみだった。
彼は、事務的な、受け答えではなく、彼女に話しかけられたら、彼も、感情を入れて、対話しようと思った。
レストランで、受験勉強をしていた時は、試験に、合格できるか、どうかの、一世一代の、大きな、試練だったので、彼女に、心を開けなかったのだが、今は、もう、医師国家試験に合格した、立派な医者である。
まだ、一人前ではないが、法的には、医者である。
彼女が、「焼きリンゴ、美味しいですか?」と、聞いてきたら、「ええ。とっても、美味しいです」と、笑顔で、嬉しさを込めて、答えようと思った。
そして、彼女との、会話も、弾んで、携帯電話の番号や、メールアドレスも、教えあって、「いつか、どこかの、喫茶店で、お話しませんか」ということになって、どこかの喫茶店で会って、話す。そして、意気投合して、夏には、リゾートプールで、抜群のプロポーションのビキニ姿の彼女と、手をつないで、プールサイドを歩く。などという、想像が、どんどん、ふくらんでいった。
高鳴る気持ちを押さえながら、ガストのドアを彼は、開けた。
「いらっしゃいませー」
アルバイトの女の店員が声を掛けた。
しかし、そのアルバイトの店員は、彼女ではなかった。
彼は疑問に思いながらも、あるテーブルについた。
「何になさいますか?」
アルバイトの女が彼の所に来て聞いた。
「リブロステーキを、お願いします」
そう彼は、注文した。
しばしして、アルバイトの女が、リブロステーキを持ってきた。
彼は、リブロステーキを食べた。
受験前の勉強の時は、疲れた頭を休める休息のための食事だったが、潜在意識に、受験の緊張感が、いつもあったので、料理を、ゆっくり味わう、ことが出来なかったが、全ての肩の荷が降りて、純粋に、食事のために、味わう、リブロステーキは、格別に美味しかった。
リブロステーキを食べ終わると、彼は、カバンから、文庫本を取り出して、読んだ。
彼は、森鴎外の、「渋江抽斎」の続きを、読み始めた。
彼は、学生時代中に、森鴎外の、素晴らしさに、気づき、森鴎外の、歴史の短編小説を読んでいたが、「渋江抽斎」は、長く、国家試験の勉強が、始まってからは、勉強一色の毎日になってしまったので、とても、長編小説は、読む時間がなくなり、国家試験が終わってから、読もう、と、思っていた。
「渋江抽斎」は、特に、ストーリーのある、話しではないが、森鴎外の、文章は、読んでいて、心地良い、不思議な魅力があった。
しかし、彼は、一方で、あの、アルバイトの女は、どうしたんだろう、と、そのことが、気にかかっていた。
もう少し、待てば、来るかもしれない、と、思いながら、彼は、小説を読んだ。
一時間くらい経った。
しかし、彼女は、来ない。
彼は、読書の一休みとして、テーブルのブザーを押した。
アルバイトのウェイトレスがやって来た。
「はい。ご注文は何でしょうか?」
新しいアルバイトのウェイトレスが聞いた。
「焼きリンゴ、を、下さい」
と、彼は言った。
「はい。わかりました」
そう言って、アルバイトの女は、厨房に戻って行った。
しばしして、ウェイターは、焼きリンゴ、を、持ってきた。
そして、焼きリンゴ、を、テーブルの上に置いた。
「あ、あの・・・」
アルバイトのウェイトレスが話しかけてきた。
「はい。何でしょうか?」
彼は、聞き返した。
「お客さま。もしかして、一ヶ月、ほど前まで、毎日、夜に、ここへ来ていた、お客さまでは、ないでしょうか?」
アルバイトの女が聞いた。
「え、ええ」
彼は、どうして、彼女が、それを知っていて、そんな質問をするのだろうか、と疑問に思いながら、聞いた。
「やっぱり、そうでしたか」
アルバイトの女が納得したような口調で言った。
「一体、どういうことでしょうか?」
彼は、どういうことなのか、さっぱりわからず、疑問に思って聞いた。
「お客さまが、来ていた時、髪の長い、ハートのピアスをした、女のウェイトレスが、いたのを、お客さまは、覚えていらっしゃるでしょうか?」
アルバイトの女が聞いた。
「ええ。覚えています。今日は、彼女は、休みなのでしょうか?」
彼は聞いた。
「いえ。一週間前に、やめました」
アルバイトの女が言った。
「ええっ。そうなんですか?」
彼は、驚いて、思わず、大きな声を出した。
「ええ。それで、ここで、求人の広告があったので、私が、一週間前に、彼女がやめる日に、彼女と、入れ代わるように、私が、勤め始めたんです」
と、アルバイトの女が言った。
「私は、彼女と、一日だけですが、一緒に働きました。彼女が、やめる日です。そして、彼女は、さびしそうな顔で、こう言ったんです。『もし、私が辞めたあとに、万一、リブロステーキと、焼きリンゴ、を、注文する、学生くらいの歳の男のお客さまが来たら、この手紙を渡して下さい』と。そう言って、彼女は、辞めていきました」
これがその手紙です、と彼女は言って、一通の封筒を、テーブルの上に置いた。
そして、アルバイトの女は、厨房に戻って行った。
彼は、急いで、封筒を開けた。
中には、手紙が入っていた。
それには、こう書かれてあった。
「焼きリンゴ様。こういう、呼び方をすることを、お許し下さい。私は、あなた様の、名前を存じませんので。あなた様が、店に来られるのは、私の、密かな楽しみでした。率直に、言いますが、私は、あなた様を好きでした。あなた様が、店に来られる時、私の胸は高鳴りました。しかし、一方、あなた様が、私のことを、どう思っているのかは、どうしても、分かりませんでした。私が、あなた様と、懇意になりたくて、親しく話しかけても、あなた様は、感情を出さないで、事務的に、答えるだけで、あなた様の、私に対する気持ちは、どうしても、分かりませんでした。しかし、もしかすると、私に好感を持って来ていてくれるのではないか、とも思っていました。毎日、店に来て下さるのですから。外食は、値段が高く、自炊したり、自炊しないのであれば、コンビニ弁当を買って食べた方が、ずっと、安いはずです。それでも、来るのは、私が目的、なのではないだろうか、と、私は、思いました。男の人は、特に、気難しい、神経質な性格の人は、女の人を、心の中で、好いていても、それを、素直に感情に表わさない、または、表せない人もいる、ということは、聞いて、知っていました。あなた様は、そのタイプなのだろうかと思いました。しかし、あなた様は、とうとう来なくなりました。私は、その時、確信しました。あなた様は、私に対して、特別な感情は、持っていないのだと。そして、あなた様には、親しくしている女の人が、いるのだろうと。それで、三週間、来なかったら、店を辞めようと思いました。私も生活が楽ではなく、田舎に帰って、見合いすることを、親に勧められていました。それを、断って、店のアルバイトを続けていたのは、あなた様に、会いたい一念からでした。しかし、あなた様は、来なくなりました。さびしいですが、私は、田舎に帰ります。私の実家は熊本です。ただ、私の、切ない胸の内は、どうしても、告げておきたくて、手紙を、新しく入った、アルバイトに、渡して、あなた様が、万一、来たなら、渡して欲しい、と、頼みました。さようなら。幸せになって下さい。かしこ」
読み終えて、彼は、顔が真っ青になった。
彼は、テーブルのブザーを押して、ウェイトレスを呼んだ。
ウェイトレスは、すぐに、やって来た。
「はい。ご注文は、何でしょうか?」
ウェイトレスが聞いた。
「いや。注文ではありません。この手紙の女の人の住所か、連絡先は、わかりませんか?」
彼は聞いた。
「・・・い、いえ。わかりません」
ウェイトレスが言った。
「そうですか。店長は、いますか?」
「はい。います。厨房の奥にいます」
「店長と、ちょっと、話しがしたいのですが、呼んでいただけないでしょうか?」
「どんなご用件でしょうか?」
「それは、会ってから、話します」
「わかりました」
そう言って、ウェイトレスは、厨房に戻って行った。
すぐに、中年の男が、やって来た。
ウェイトレスと一緒に。
「私が、この店の店長です。お客さま。ご用は何でしょうか?」
中年の男の店長が聞いた。
「まあ、掛けて下さい。といっても、あなた店ですが・・・」
そう言って、彼は、店長に、座るように、手を差し出して、促した。
言われて、店長は、彼のテーブルに、彼と向かい合わせに座った。
「ご用は何でしょうか?」
店長は、再び、同じ質問をした。
無理もない。客が、店長を、呼び出して、話す、ということなど、まずない。料理に、ケチをつける客なら、もっと、乱暴な口の利き方をするはずである。
彼は丁寧な口調で話し出した。
「一週間前まで、この店で、働いていた、アルバイトの女の人が、いましたよね。耳にハートのピアスをした。そして、彼女は、一週間前に、この店を辞めましたよね」
「ええ。それが何か?」
店長は、彼を、訝しそうな目で見た。
「彼女の、住所か、電話番号か、何か、彼女の身元は、わかりませんか?」
彼は聞いた。
「それを、調べて、どうするのですか?」
店長が聞き返した。
「彼女に会いたいんです。お願いします」
そう言って、彼は頭を下げた。
店長は、困惑した表情になった。
「・・・しかし、そう言われましても。お客さまに、店員の個人情報を、お教えすることは、出来ないのですが・・・」
店長は、困った様子で言った。
「そこを、何とか、お願いします。さっき、ウェイトレスから、彼女からの、手紙を、受け取りました。これが、それです。ちょっと、これを読んでください」
そう言って、彼は、手紙を店長に手渡した。
店長は、手紙を、受けとると、すぐに、手紙に目を走らせた。
そして、読み終えると、彼に目を向けた。
「そんなことが、あったんですか。全然、知りませんでした。それで、お客様は、何のために、彼女に会いたいのでしょうか?」
店長が聞いた。
「彼女の誤解です。私は、彼女を好きでした。今でも、好きです。彼女が誤解したまま、田舎に帰って、見合いしてしまうのは、私にとっても、彼女にとっても、やりきれないことです。ですから、どうか、彼女の身元を知っていたら、教えて欲しいのです」
彼は、熱心に、そう店長に頼んだ。
店長は、しばし、思案を巡らしている様子だった。
しかし、少しして、店長は、口を開いた。
「わかりました。そういう事情なら、特別に、お教え致しましょう。ちょっと、待っていて下さい」
そう言って、店長は、厨房に戻って行った。
そして、また、すぐに、彼のテーブルに戻ってきた。
店長は、テーブルに、彼と、向き合うように座った。
そして、彼にメモを差し出した。
メモには、住所が書いてあった。
「これが、彼女の住所です。彼女の履歴書をまだ捨てていませんでした」
そう店長は、言った。
「どうも、有難うございます」
彼は、深々と頭を下げると、彼女の住所を、スマートフォンに入力した。
彼は、レシートを持って立ち上がった。
そして、レジで、リブロステーキと、焼きリンゴの代金を払って、店を出た。
店の前の、道路を待っていると、すぐに、空車の赤ランプ、のついた、タクシーがやってきた。
彼は、手を上げて、タクシーに乗り込んだ。
「この住所の所まで、お願いします」
そう言って、彼は、タクシーの運転手に、彼女の住所のメモを渡した。
「わかりました」
そう言って、タクシーの運転手は、車を走らせた。
10分、ほど、タクシーは、走って、その住所の所に着いた。
同じ市内だが、そこは、彼の行ったことのない場所だった。
二階建ての、10棟の、集合住宅だった。
彼は、彼女の、部屋番号である、203号の前に立った。
表札には、「安藤美奈子」と、書いてあった。
彼は、勇気を出して、チャイムを押した。
ピンポーン。
チャイムが、部屋の中で響く音が聞こえた。
「はーい」
女の声がして、パタパタと、玄関に向かって、走ってくる音が聞こえた。
「どなたさまでしょうか?」
ガチャリ。
戸が開いた。
「こんにちは。いや、はじめまして。いや、はじめて、ではないですね」
と、彼は、笑って挨拶した。
「あっ」
彼女の顔は、真っ赤になった。
彼女は、何と言っていいか、わからない様子で、困っている。
「あの。おじゃまして、よろしいでしょうか?」
彼の方から聞いた。
「は、はい。どうぞ。お入り下さい」
彼女は、あせって言った。
彼は、彼女の部屋に入っていった。
部屋は、まるで、入居前のように、きれいにかたづけられていて、段ボールが、何箱も、積まれていた。
「私のことを、覚えていて下さっているのでしょうか?」
彼女がおそるおそる聞いた。
「ええ。はっきりと、覚えていますよ。ガストで、アルバイトしていた人ですよね」
彼は、余裕の口調で堂々と言った。
「あの。さっき、ガストへ、行ってきたんです。そして、あなたと入れ替わりに、新しく入ったアルバイトのウェイターから、あなたの、私に宛てた手紙を受け取りました。それで、店長に、あなたの住所を聞いて、そのまま、やってきたんです」
彼は、穏やかな口調で言った。
「そうだったんですか。お手数を、おかけしてしまいまして、申し訳ありません」
彼女は、丁寧な口調で言った。
「手紙、読みました。このように、荷物がまとめられているのは、実家の熊本へ帰るためですか?」
彼は聞いた。
「え、ええ。明日、宅配便で、実家に送って、明日、ここを出る予定です」
彼女が言った。
「そうだったんですか。それは、ちょうど、よかった」
彼が言った。
「何が、良かったのでしょうか?」
彼女が聞いてきた。
「美奈子さん。僕は大東徹と云います。あなたの手紙、読みました。私は、あなたを、悩ましていたのですね。申し訳ありませんでした」
そう言って、彼は、両手をついて、彼女に深々と、頭を下げた。
「いえ。変な手紙を、お渡しして、しまって、申し訳ありません。あんな手紙を読まれてしまって恥ずかしいです」
彼女は謝った。
「いえ。私の方こそ、あなたに、変な態度をとって、あなたを、悩ましてしまって、本当に申し訳ありませんでした」
彼も謝った。
「変な態度、って、どういうことでしょうか?」
美奈子が聞いた。
「つまり、あなたが、親しく話しかけてくれたのに、私が不愛想な態度だったことです」
彼は言った。
「いえ。私に、気がないのですから、変でも、何でもありません」
美奈子が言った。
「美奈子さん。正直に言います。実は、僕も、あなたの、笑顔や、温かい心が、とても、嬉しかったんです。僕も、あなたと、親しくなりたいと思っていたんです」
そう言って、彼は、彼女の手をとった。
彼女の手は、冷たかった。
「ええっ。本当ですか?」
彼女の表情が、一気に変わった。
「ええ。本当です。あの時、僕は、人生の生死を分けるほどの、試験である、医師国家試験の勉強が最大のことだったんです。僕は、実は、ガストへ、毎日、行っていたのは、勉強するのが目的、だったんです。僕は、一人では、緊張できなくて、勉強できなくて。あなたが親しく話しかけてきても、合格するまでは、勉強を最優先にしたい、と、思っていたんです。そのため、あなたの、親しげな、話しかけも、合格するまでは、感情を現さないように、と、勤めていたんです。それで、試験に合格できて、やっと、あなたと、親しく話せると、思ったら、こういうことになっていて、あせって、やってきたんです」
彼は、強い口調で、一気に言った。
「本当ですか?」
彼女は、まだ信じられない、という感じだった。
「ええ。本当です。僕は、ストレート・ネックで、肩が凝りやすく、また、意欲が出にくいため、人のいる所でないと、勉強できないんです」
と、彼は言った。
だが、彼女は、まだ信じられない、という顔つきだった。
「美奈子さん。よろしかったら、お付き合いして頂けないでしょうか?」
彼は、そんな大胆な告白をして、彼女の手を、そっと、握った。
「本当なんですね?。本当なんですね?」
彼女は、何度も聞き返した。
「ええ。本当です」
彼は、キッパリと答えた。
ここに至って、やっと、彼女は、彼の言っていることを信じたようだった。
「嬉しいわ。大東さん」
そう言って、美奈子は、泣いた。
「では、田舎へ帰るのは、思いとどまって、くれますか?」
「ええ。もちろんです。田舎へ帰るのも、親のすすめで、見合い結婚するのも、私の本意では、ありませんもの」
彼女の目からは、涙がポロポロ流れていた。
「よかったー」
彼は、美奈子の手を力強くギュッと握った。
「大東さん。ちょっと、待っていて下さい」
と、言って、彼女は、台所に向かった。
彼は、座ったまま、彼女を待った。
オーブンが鳴って、彼女は、何やら、料理しているようだった。
しばしして、彼女は、皿をもって、戻ってきた。
そして、それを机の上に乗せた。
それは、焼きリンゴだった。
「はい。大東さん。焼きリンゴです。大東さんが、焼きリンゴが、好きなので、付き合うようになったら、私が作ってあげたい、と、思って、作り方を、覚えたんです」
彼女は、ニコニコ笑いながら言った。
「美奈子さん。そんなことまで、してくれていたなんて、嬉しいです」
彼は言った。
「いえ。そんなことよりも、召し上がって下さい」
「はい」
彼は、彼女の作った焼きリンゴを食べた。
「うーん。レーズンと、シナモンの味が、美味しいです。ガストの、焼きリンゴより、美味しいです。もっとも、ファミリーレストランの料理は、冷凍してあるものを、解凍するだけですから、当然ですが」
「お気に召して下さって、嬉しいです。大東さんに、食べて頂くことが、楽しみだったんです。それが、出来なくなって、とても、さびしかったんですが、食べて頂けて、すごく嬉しいです」
彼女は、ウキウキした、顔で言った。
「美奈子さん。僕は、地元の神奈川県に引っ越します。そして、横浜市立大学医学部の医局、に入局して、二年間、研修することになります。ですから、僕は、横浜に引っ越します。美奈子さんは、こっちに残りますか。それとも、横浜に来ますか?」
「私も、横浜に行きます」
美奈子は、即座に答えた。
「お仕事とか、住まい、とか、大丈夫ですか?」
彼が聞いた。
「ええ。何とかします」
彼女は、即座に答えた。
彼女は、そう言ったが、彼女が仕事を見つけられるか、大丈夫だろうかと、彼は不安に思った。
しかし、あまり、立ち入ったことを聞くのも、彼女に対して、失礼だと思って、彼は、具体的なことは、聞かなかった。
それに、彼女は、しっかりした性格のように見えて、彼女なら、きっと、何かの仕事を見つけられそうにも見えた。
「そうですか。研修医の二年間は、給料は、少ないですが、二年の研修が、終わって、病院勤めの、勤務医になれば、給料は、ぐっと、高くなります。二年間、辛抱して頂けませんか?」
「はい」
彼女の、彼を慕う強い思いを、彼は感じとった。
「美奈子さん。さっそく、明日にでも、どこかへ行きませんか?」
彼も、自分の彼女に対する想いが、本当であることを、できるだけ早く、彼女に実感させたくて、そんな提案をした。
「は、はい」
彼女は、二つ返事で答えた。
「僕、京都には、行ったこと、ないんです。京都でいいですか?」
「はい」
美奈子は、即座に答えた。
○
翌日、大東と、美奈子は、早春の京都に行った。
二人は、清水寺や、平安神宮、金閣寺、嵐山、などを見て回った。
彼は、家から、奈良へ行く時、東海道新幹線で、京都で降りて、近鉄京都線で、橿原市に行っていた。京都は、乗り換えで、プラットホームからは、いつも見ていたが、勉強が忙しく、六年間で、一度も、京都、見物をしたことがなかった。
京都は、大阪と違って、心が落ち着く町だった。
特に、初めて見る、金閣寺に、彼は、圧倒された。
彼は、寺の建築美が好きだった。
しかし、彼は、人の来ない、さび、のある、無名の、古寺、荒れ寺、などの方が好きだった。
そういう、さびしい物の方が、幽玄さ、や、想像力を、かきたてられた、からである。
しかし、金閣寺は違った。
彼は、金閣寺の美しさに、胸が震えるほどの感動を覚えた。
三層作りの、この寺は、一層は、貴族の寝殿造り、二層は武家造りで、三層は禅宗様式である。二層、三層は、まぶしいほどの金箔であり、寺というには、あまりにも、優美すぎた。
その、違和感が、金閣寺の魅力なのかもしれない。
また、寺に面した、物音一つしない、小さな鏡湖池は、明らかに、金閣寺から眺めてみて風流を楽しめるのが、一目瞭然だった。
釣り殿など、家に居ながら、釣りを楽しもうなどと、何と、贅沢な優雅な発想なのだろう。
それは、寺でありながら、優雅な別荘であった。
見ているうちに、自分の意識や視線が、その別荘の中に、引きこまれていくような錯覚に、一瞬、彼はなった。
金閣寺は、室町幕府、三代将軍、足利義満が、自分の権威を示すために、最高の、優美さと、荘厳さ、を、示すために、美と風雅の限界を求めて作った、という、故人の意志が、はっきりと、伝わってきた。
「いやー。綺麗ですね」
と、彼が言うと、美奈子は、
「そうですね」
と、相槌を打った。
歩きながら、美奈子の手が、彼の手に触れると、彼女は、そっと、彼の手を握った。
彼も、彼女の手を、彼女以上の握力で、握り返した。
こうして、京都の観光旅行は無事、終わった。
○
数日後、彼は、大学に近い所にあるアパートに引っ越した。
美奈子も、彼のアパートに近い所の、アパートに引っ越した。
忙しい、研修が始まった。
しかし、やりがいもあった。
学生時代の、机上の勉強と違って、やりがいもあった。
研修医といえども、れっきとした医者である。
指導医が、あれこれ、事細かく、指導してくれるから、ちょうど、運転免許で言えば、それまで、小さな教習所の中を走っていた、生徒が、仮免許を取って、一般車道を、走れるように、なったような、そんな感覚だった。
毎日、自分の、医学の実力が、目に見えて、ついていくような、実感があった。
そして、休日には、美奈子のアパートに行った。
美奈子は、彼の好きな、リブロステーキと、焼きリンゴを作って、待っていてくれた。
夏季休暇には、大磯ロングビーチにいったり、した。
美奈子のビキニ姿は、美しかった。
またディズニーランドにも行った。
二年の研修が、終わると、彼は、横浜市立医学部の関連病院、の総合病院に勤務した。
研修医の年収は、300万、と少ないが、勤務医として、病院に就職すると、給料は、非常にいい。
彼は、広い、二人で住めるくらいのアパートに、移り住み、美奈子と、一緒に暮らすようになった。
そして、二人は、結婚した。
平成28年1月21日(木)擱筆
焼きリンゴ(医師国家試験小説) 浅野浩二 @daitou8
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