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 帯広の森スピードスケート競技会──女子500m。

 会場にいる全員が、最終組に出場する『孤高の天才』の出番を待ち侘びていた。全32組の頂点に輝くであろう、世界を舞台に滑る有名選手たちと肩を並べるその高校生は、去年の世界ジュニアスピードスケート選手権大会で38秒19をマークし、今年十月に開催された全日本スピードスケート距離別選手権大会にて、国体選手、世界メダリストたちに勝るとも劣らない脅威の走りを見せ、自身の持つ日本高校記録を塗り替える38秒10というタイムを樹立し三位入賞を果たした。


 スピードの500m世界記録は2013年11月16日ソルトレイクシティーで開催されたワールドカップ、韓国人選手である李彩華イ・サイファの36秒36。日本人選手では2019年3月9日に同開催地で行われたワールドカップにて、平緒ひらお奈子なこが記録した36秒47が記憶に新しい。


 高校生で39秒台を出せる人さえ限られている中で、さらに38秒台、それもあとほんの僅かというところでその秒台すら凌ぐ可能性を秘めた女子高生など、中川椿を除いてほかにいない。高校二年時で38秒12を叩き出した椿は日本スピードスケート界において、極めて特別な存在と称賛されても余りある逸材だ。まさに『次世代氷上のスプリントクイーン』と謳われて相応しい。


 21組目がスタートした。自身の記録の上に積まれていく周到な競い合いの落下物が、これまで逡巡し続けてきた志絢の脳内を不思議なほど空にしていく。バックヤードの内側に貼り付けていた背中に響く大会の活気に、そっと屈んで天井を見上げた。汗だ。蟀谷こめかみを伝う精一杯の汗が、よくやった、と慰めるための材料に変わった。

 よくやった。よかった。これでよかったんだ……。

 何度もそう口に出して囁いては、やけに眩しい照明に目を閉じる。すると足音が近付いてきて、志絢は汗を拭き取った。


「……」


 痛い? 座り込んでいた志絢に椿は無言で指を差す。隠すように膝へ手を撫で置いた志絢は、彼女を見つめて微笑んだ。


「大丈夫。全然平気」


 レースを終えたばかりの志絢のその顔はひどく晴れ晴れとしている。椿は若干瞳を床に泳がせたのちその指を折り曲げる。


「いい……走りだったと思う……」


 そうしてすっと腕を下げた。志絢は数秒の穏やかな沈黙に二、三度瞬きをして、「そっか……」と束ねていたポニーテールを解く。人が三人横並びに歩けるくらいの狭い廊下で、互いに無言のままリンクに鳴るスタートの合図を聞く。気まずいなんて考えはない。椿はいつもこんな感じだし、志絢は志絢で記録に納得しているのだから。


「……行く」

「ああ」


 曲がり角の死角からこちらへ接近しつつある声を察知し、椿はおもむろにきびすを返した。歩き出した彼女の孤独な背中に向かって「レース頑張れよ」と伝えると、彼女は歩幅を一瞬だけ狭めて立ち止まり、そうして頷くことなく離れて行った。

 入れ替わるように巫央奈と耶知が現れる。


「沢峰、大丈夫か?」

「だから巫央奈先輩、志絢はもう沢峰じゃないんだって」

「あ、めんご」


 片手を軽く横に上げ、謝罪ついでに歩み寄った巫央奈と耶知に「よっ」と答えて見せると、巫央奈は隣に腰を下ろした。


「『よ』って。意外と元気そうじゃん」

「落ち込んでると思った?」

「まー、そりゃあそうでしょ普通。で、痛むの?」

「それが、まったく痛くないんだよね」

「なのに?」

「うん。あの記録」


 二人とは中学から本格的に競う機会が増えたが、話すようになったのは小学五年の頃からだ。親しい間柄というほど仲良しではない気もするが、互いに冗談かそうでないかの見聞きはできるし、タメ口で会話するくらいには好感を持っている。だから巫央奈は志絢が落ち込んでいるわけではないとすぐに分かった。が、耶知は言葉を選ぶように問い掛ける。


「いつからなの? ハルハル」

「いつからってなにが?」

「いや、だから……いつから気付いてたのかなって……」

「あれくらいのタイムしか出ないだろう、って?」

「いや、なんてゆーかその、……うん」


 耶知は執拗に手すさみながら志絢の頭部を見つめて横に佇んだ。巫央奈と同じように自分も屈んで目線を合わせてしまうと、再び立ち上がったとき寂しさのあまり帰れない気がして。


「最近だよ。三ヶ月くらい前かな。見切りをつけようと思ったんだ」

「それって、スケートに……?」

「そう。いつまでも舞に期待させてもしょうがないと思って、妙ちゃん──あ、顧問の先生のことな、スケート未経験の。その妙ちゃんにお願いして、二人でYSアリーナに行ったんだ」

八戸はちのへに来たの?」

「ああ。その時500mを全力で走ってみたんだよ。そしたらさ、自分でもビックリするくらい良い走りが出来て、妙ちゃんもストップウォッチを見たあと手を叩いてて」

「良いタイムだったんじゃないの? じゃあなんで……」


 俯瞰ふかんで捉える志絢の表情は明るい。そう耶知が疑問を口にすると、志絢は笑いながら答えた。


「今日と同じ、47秒だったよ。体感的に速いって感じてたから、測定ミスだと思ってもう一回滑ってみたんだけど、結局どのタイムでも47秒を切れなかった。だから、」

「だから?」

「だから、舞に見せたら諦めてくれるかなって思って、今日のこの大会を復帰戦に選んだってわけ」


 言い終えて見上げてきた志絢の顔を耶知はただ眺める。返す言葉がなにもない。本当に平気だから言っているのかもしれないけれど、なんだか素直すぎる気がするから、それが彼女らしくない。

 ほんとにいいの? 後悔しない? 耶知は問い掛ける。迷いがないような晴れた表情が伸びをしながら腰を上げた。


「ない。ほぼ二年間、死にたいと思いながら頑張ってきた結果だから」


 二人はその言葉を聞いて思い出す。



◇天才、沢峰志絢。本物にはなれなかった非才、凋落に臥す◇


0001 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:24:55.87

 こけたw


0002 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:35:31.35

 だっさ♪


0003 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:41:06.65

 唾つけてりゃ治る


0004 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:51:52.65

 話題作りの天才

 スピードを盛り上げてくれて感謝。ある意味


0005 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:52:04.02

 中川選手のほうが好き♡


0006 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:52:12.42

 >>5

 間違いない。なんか怖いんだよね……目つきとか


0007 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:52:28.54

 刈られた盆栽。


0008 名無しさん@烏骨鶏 2019/01/11(土) 10:53:02.13

 >>7

 摘まれた甜菜。




0234 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 08:00:02.13

 高校入学おめでとう

 で、どこの強豪校よ♪


0235 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 11:08:44.13

 >>234

 岩手


0236 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 11:28:01.57

 >>235

 盛岡?


0237 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 12:16:22.04

 >>236

 綾里第一っぽい


0238 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 12:33:00.19

 >>237

 知らん!笑


0239 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 14:08:53.27

 >>238

 調べたけどスピード部ないね

 カーリングとフィギュアのみ


0240 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 14:31:25.25

 尚、受け入れ先がなかった模様


0241 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 15:18:10.01

 推薦もなかった模様


0242 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 15:38:36.32

 膝が痛いので……


0243 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 15:39:29.02

 >>238

 『天才』と呼ばれてました……


0244 名無しさん@烏骨鶏 2020/04/11(土) 15:43:11.11

 やめたれw


    全部 前100  次100 最新50




 心無いネットの書き込みはすぐに広まり、志絢は自分の足元だけを見て歩くようになった。もちろん良心的な応援のスレも同じように存在していたが、人間不信になっていた志絢には、善し悪しに関わらず全てが自虐する要因でしかなかった。期待を裏切ってしまった自分。期待されなくなった自分。ひどい書き込みをしているクズのような人たちにも、こんなことを書かせてしまったのは自分だからと一切を誰かのせいにはしなかった。一度だって、志絢は逃げたことがなかったのだ。


 後悔はない。そう言って壁から背を離した瞬間、志絢の前に出番を控えた鈴憧がやって来た。


「お疲れ様でした、甲塚先輩」

「おう、もう順番か?」

「はい。ちょっとウォーミングアップしようかと」

「あはは、今頃かよ」

「はい。変ですか?」


 純粋な真顔で詰められ、志絢はもう一度笑う。二人のやりとりを静かに聞いていた巫央奈と耶知が身を寄せる。


「おい沢峰、この子誰」

「は。昨日もいたじゃんか。私らの後輩」

「飛び級少女の他にもいたの? 名前は?」


 耶知が鈴憧をグッと覗き込む。なにこの子、綺麗な顔……。


「鹿住鈴憧です」

「あたしは汐海耶知。八戸湊高校の二年。よろしくね鹿住さん」

「はい」

「で、こっちはあたしの先輩の緋瀬巫央奈。あたしたちとハルハルマイマイは小学校からの付き合いで──」

「甲塚先輩、サングラス貸してもらえませんか。私忘れたみたいです」

「え、あ、ああ……おう」

「ありがとうございます。それじゃ」


 足早に、というように鈴憧があからさまに二人のことを避けたので、志絢は少し得意な心持ちになって北叟ほくそ笑む。鈴憧が来てくれたおかげで場が軽くなってホッとした。


「ちょっと待て鹿住」

「え、なんですか」

「大丈夫か? 緊張は?」


 問われ、鈴憧は借りたサングラスを頭に掛けた。


「平気です。あんな走り見せられたら、緊張なんて吹っ飛んじゃいましたから」

「……」


 まるで雀の鳴き声が空を跳ねるように、振り返った後輩の姿は喜びに溢れていた。少しの迷いもなく、その声は志絢の耳朶じだを打った。やっぱり、甲塚先輩は速かったです。かっこ良かった。


「嫌味かよ」


 扉を閉めて去って行った後輩に向かいそっと独りごちる。運営側の手違いにより、滑走順が最後になってしまった鈴憧の相手は椿だ。みんなが注目している選手だということを、彼女は全く知らない。初の試合が日本高校記録保持者と同じ組だと舞から伝えられたとき、鈴憧は『興味ないです』と言って他のことで不安を膨らませていた。

 志絢は我が後輩ながらに、鈴憧のそういう無関心さをつくづく凄いと思った。素直に尊敬さえ覚えた。いつもどんな時代でも、きっとこういう奴から本物は生まれてくるのだ。ただの嫉妬だ。清々するほどよどみのない嫉妬だ。


 椿には……きっと私ではなく鈴憧みたいな奴がライバルに相応しいのだろう……──。





「──女子500m最終32組、インレーン中川椿、美深びふか晴嵐せいらん女学院・アウターレーン鹿住鈴憧、綾里第一高校──」


 ready......


 静まり返る会場の雰囲気に飲まれたら、カッ、と二つの刀身が同時に氷をしぶかせた。白いラインを基調とした絶対的な強者の孤独と、真っ黒なレーシングスーツに身をした無名の孤独。両者ともに前方を一切見ず、足先たった数メートルの氷上に反射するであろうピストル音の一瞬の光を待つ。


 その異様な空気に霖が息を吐き出すと、二人の肩から脱力の影が落とされた。


 ──バン!!


「最終32組がスタートしました。インレーン中川椿・アウターレーン鹿住鈴憧。100m通過、中川10秒53。鹿住10秒55」


 唸るように、100m通過時点の二人のタイムに会場がどよめき立つ。椿に対してはもちろん、けれど鈴憧に対しての会場の眼差しが突如黄色く染まった。


 あの子なに!? 高一!? 嘘でしょ!?

 波を避けるように立ち上がり始めた観戦者たちのざわめきが、氷上に鳴り響く彼女の足音に釘付けにされていく。バックストレートの交差区域で入れ替わった二人のタイムにはほんの誤差しかない。

 椿が最終コーナーでさらにタイムを縮める。このまま行けば、高校記録の更新は確実だ。

 期待が椿に集中するなかで、鈴憧のギアがグンと跳ね上がった。舞がハッと身を起こす。合宿の時と同じだ。またあそこで加速した。あの瞬間、舞は彼女が特別な存在だと確信したのだ。次元が違いすぎると、羨ましいほどに嫉妬させられたのだ。


 残り一○○メートル。直線上に並ぶ二つの突出した才能が再び会場を黙らせる。どちらが勝つのかまったく予想ができない。

 八○メートル……六○メートル……四○メートル……──。


『天才』という言葉では、この光景があまりにも退屈に思えてしまうほど、氷の飛沫しぶきは美しすぎた。霖の目には、綺麗すぎる彼女がいた。


 ──地味で結構。私はここが、大好きだから──


 あの日だ。あの日初めてリンクの上に立った鈴憧を見て、私の世界はここだと思ったんだ。いつ心停止するかも分からない人生をほとんど病室で過ごしてきたから、それまで友達と呼べる誰かはいなかった。

 久季霖です、と自己紹介をするのは白衣やナース服姿の大人の人か、さもなければ老体の多くだった。

 話し相手はボールペンを握りしめる主治医の先生か、隣室にいる九十過ぎの老婆が一人。母親は二人の姉を必ず連れて三人でやって来る。一人で来るのが辛かったのだろう。父親は家庭に居場所がないからしょっちゅう独りで来ていたが、大抵がコロコロ変わる新しい仕事の内容だとかくだらないお金の話だった。


 毎日がうんざりするほどつまらなかった。あれもダメこれもダメと制限され、これを飲めあれを飲めと体を気遣われ、子供らしい遊びといえば、楽しかったのは散歩くらいなものだった。

 もっと速く走れたらと思った。疲れるくらいに走れたらと。見つけたい。自分にできる何かを……。思ったから、母と姉たちの反対を押し切って病院から逃げて来た。好きなことだけに時間を使おうと決めて来た。そのせいで離婚をさせてしまうことになったけれど、どうでもいいことだと薄情を装って自分の意思を突きつけ続けた。


『いいよねお母さんたちは……。自由なくらい不自由な悩み事があってさ……』


 たったひと言の、つい口にしてしまった愚痴だった。初めての軽蔑するような嫌味だった。睨みつけ、奥歯を噛み締めながらの。きっと移植手術を受け入れてさえいれば、こんな思いはしなかったのかもしれない。だけど、断ったから自分はこうして世界の一員になれたんだと思う。みんなと出会えたんだと思う。


『ねえ鈴、どうしたら鈴みたいに滑れるの?』

『滑れるようになりたいわけじゃないんじゃなかったっけ?』


 合宿の最終日に質問してみたら、彼女は不満気な眉を作って細目になった。あとちょっとだけ滑れるようにはなりたい、と答えると、鈴憧は呆れ笑いを寄こしつつはにかんで、


『潜るんだよ。深く深く、氷の中へ』

『氷の、なか……』


 その眼差しは透き通るような夕日を浴びながら、鮮明に黒曜石色の瞳を瞬かせていた。本当に澄んだ人だと思った。

 そんな彼女が、いま自分の目の前で氷の中を泳いでいる。月明かりのようにはっきりと、その音を響かせている。

 綺麗なんてものじゃない。美しいという言葉さえも似合わない。ひどく優しくてあたたかい、奇跡のような音の飛沫……。


「──只今の結果、」


 電光表示盤に二人の記録が出た。三度会場が唸るようにどよめき、ふたつの記録の横にはローマ字の略号が点っていた。


「あっはは。あいつ、まじでやりやがった」


 別の場所でレースを観ていた志絢が目蓋を赤らめながらベンチに戻って来た。舞はその晴々とした表情を見つめながら、釣られて噴き出すように鼻を噛む。


「ほんと鹿住ちゃん、やばすぎだよっ。あはは」

「すごいんですか! 二人の記録の横に表示されてるあのローマ字って、いったいなんですか!」


 霖がソワソワと瞳を輝かせて、左右にいる先輩二人を交互に何度も見返る。

 舞が答えた。


「あれは日本高校記録の略号だよ。High school Record」

「? なんで?」

「なんでって、今のレースタイムが日本高校記録として更新されたからに決まってんだろ」

「ええぇぇ──ッ!!」


 あっちょんぶりけな霖の叫びが盛大に鳴り響く。

 表示盤には上位四名の名前と所属とタイムが蛍光色に映されていた。



 【500m】

 1 中川椿   美深晴嵐  38秒04 HR

 1 鹿住鈴憧  綾里第一  38秒04 HR

 2 須羽みなみ 日本体共大 38秒40

 3 黒木三夏  山梨学園大 39秒37



 リンクの上をゆっくりと周回していた鈴憧に、霖は歓喜のあまり大仰に叫んで手を振る。全力のレースだったのだろう、息を整えながらうな垂れていた彼女がその面を上げると、他の歓声には無関心を貫き、ただ自分の友達の顔をじっと見据えて笑った。


 十一月の、まだ、動き出したばかりの肌触りの中で。







        第一部 おしまい




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氷上よ、鳴り響け! ──綾里第一高校スピードスケート部── 1 川辺いと / 代筆:友人 @Kawanabe_Ito

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