(3)
「──あ、遅いよ鈴! ちゃんと全部出せたの?」
再びベンチに戻った志絢が聞いた第一声は、羞恥心を一切持たない下品な霖の問いだった。問われた鈴憧は意味が分からないといった具合に深く考え込みながら腰を下ろしている。リンクを見ると中間整氷が終わろうとしていた。リンク内の中央でこちらに向かって手を振っている舞の姿が見えた。振り返すと、彼女は自身のガッツポーズにニカリと笑う。
「それでは只今より、中間整氷後の女子1500mを再開いたします」
アナウンスが流れると、舞はスタートライン後方へとその両足を滑らせた。
「女子1500m16組目、インレーン緋瀬巫央奈、
志絢はサングラスを装着した舞に「がんばれ」と口だけを動かしてみせる。舞が殊勝に頷き、後輩たちに手を振り返す。
1500mはカルテット滑走を採用しているため、16組目の巫央奈たちがスタートしてから数秒後には続く舞の組がスタートする。
組み合わせやスタート順は日本スケート連盟(JSF)前年度タイム及び、申込み締め切り日時点における今シーズンのベストタイムを参考に、レフェリー立ち会いのもと選定される。尚、志絢や鈴憧のように前年度、今シーズンの両方に公式記録を持たない選手の順決めは、最下位に続けて抽選による順位付けとなる。
今回の女子1500mでは21組──計42名の選手が参加しており、各組のインレーンを上位者とし、全体の滑走順を通してみても、舞は上位選手の枠として位置付けられている。最終2組には世界大会で優勝経験のある有名選手の名前もあり、今回舞が1500mと3000mで参加を決めたのは、その選手たちとタイムを競いたかったからだ。
──go to the start......ready──
「今年の帯広の森競技会、超有名な選手も何人か出るんだよね……私も申し込もうかな」
ある日そう言って放課後の練習終わりに尋ねてきた舞に、志絢は自身の脱ぎかけのノースリーブを剥いで答えた。
「学校はどうすんだよ。二日間は普通の平日だから欠席扱いだぞ?」
「それは志絢だって一緒でしょ。──あ、でも私はほら、去年全国四位だから全日本選抜競技会の参加資格もあるわけだし、育成のためにスピードの大会とかは公欠にしてもらえるっぽいんだよねぇ。ニヒヒ」
嬉しそうにはにかんでいた表情は、今まさに氷の上で別人のようにレースに集中し始めている。遠くに見える彼女の呼吸が手に取るように伝わってくる。深く鼻呼吸で空気を吸い込み、丹田に左手を添えて目を閉じる。ゆっくりと鼻から息を吐き出して、自身の太ももを軽く二回叩く。そうして天を仰いで、スッと正面に向き直る。これはレース直前の舞のいつもの所作だ。静寂。ただ真っ白な静寂で、私たちの視線を氷の中へと叩きつける。
──パン!
スタートピストルの発砲音と同時に先陣を切った巫央奈の組が、すぐに横を通り過ぎて行った。
──パン!
それを追いかけるように、舞の明るい足音が繋がる。低身長なその体躯から繰り出される快活なフォーム。相手選手はJSFファーストアカデミーに所属している学年がひとつ上のエリート強化選手だ。
「舞先輩、ファイトォーー!!」
霖の溌剌とした応援が背後から聞こえ、志絢はぎゅっと膝の上で拳を作った。ニヒヒと笑ったついこの間の舞との回想がおかしなくらいに蘇ってくる。
──置いてくなんてズルいよ。志絢の復帰戦は、私が一番近くで応援しないとなんだから。
──私が志絢のために、先陣切ってリンクをあっためといてあげるからね!
同じ綾里第一高校スピードスケート部として参加しているのに、お揃いのユニフォームを持っていない。彼女はあんなに明るい菜の花の色をしているのに、自分は
──許さない。私は絶対に、志絢とオリンピックに行くんだ……。
「──go to the start......」
ふぅ……。
深呼吸をして前を向いた時、志絢の目にはあの頃の光景が広がっていた。優勝を手にした中学の頃の全国大会だ。ただ真っ白い景色だった。時間がゆっくりと流れては、鼓膜をうねる自分の鼓動が鮮明に響いている。
瞬きがやけに遅く、呼吸はひどく浅い。それなのに全然苦しくないし体も軽い。不安になるくらいに……。
「昨日のマイマイすごかったね。巫央奈先輩どころか、大学生よりも速いなんてまじで驚いた」
隣から聞こえた声にハッと顔を上げると、そこには八戸湊の
志絢はもう一度深呼吸をして氷にカチッと刃を突き立てる。
「当たり前だろ。あいつは私の憧れなんだから」
「えー、なんかハルハルっぽくない台詞」
「うるせー。ってかその『ハルハル』って呼び方いい加減やめろ」
「いーじゃん別に。久しぶりに同じリンクで競えるんだし」
「関係ねぇーだろ。もう黙れ、集中できない」
「ほぉーい」
……おかしい。
体に神経が通ってないみたいだ。煙のように、氷を掴んでいる足の感覚もない。
「ready」
……おかしい。
いつも通りに構えたスタートの姿勢が、ぼんやりとゆっくり揺れ動いている。
許さないってなんだよ。餓鬼かあいつは……。
ふっ、と呆れが込み上げてきた瞬間、響いてきたのは皮肉交じりな声援だった。
甲塚志絢! 沢峰なんかに負けんなーッ!
応援席から聞こえて来る。何よりも鮮明なその声の持ち主は、私の大切な友達だ。
「GO──!!」
もう膝のことなんて考えるな。ただがむしゃらに走るだけだろ。どう足掻いたところで、掬い上げた自分はただの過去にすぎない。汚くて触れたくない嫉妬のような栄光でも、今この瞬間に走り出したのは私なんだ。どうせ私は私だ。天才でもなければ
「女子500m5組目がスタートしました。インレーン汐海。アウターレーン甲塚。100m通過、汐海10秒99。甲塚11秒81」
転倒したっていい。思うようなタイムが出ないことは最初から分かってる。
「──志絢ッ! 乗り越えろッ!!」
志絢の横顔が通り過ぎたのと同時に、舞はその背中に向かって必死に叫んだ。半月板の損傷で起こるロッキング現象は、重度の場合完治するのは難しい。志絢は中学二年の秋、練習中のコーナーリングで足を踏み外して右膝から異常な音を
手術は成功ですが……。
医者は濁すような遠回しの語勢で気遣い、志絢にではなく舞に『おそらく完治はしないでしょう』と告げた。舞は言った。リハビリをしてもですか? ええ、難しいです。
どうして志絢なんだと思った。どうしてあんなにすごい志絢が、こんな目に遭わないといけないんだと。
医者は言葉を選ぶように、もしロッキングが起こったら、自分たちで手を出そうとせず、すぐに病院へ連絡してください、と続けた。はい……。
「もう完治してんだろッ! あとは克服するだけなんだろッ!!」
けれど、志絢は諦めずに治療とリハビリを受け続けた。ストレッチング、筋力トレーニング、ウォーキングや適度なジョギングと、LSDと呼ばれる長い距離をゆっくり走ることによって全身の持久力を高めるランニング療法。そのほか消炎鎮痛や超音波を使用した治療法。また滑れるようになるために、ネットの誹謗中傷にも努めて耐えながら、その他できること全てをやってこの二年間を過ごしてきた。そうして完全なる完治とまではいかないが、充分に走れるほど回復させた。志絢はただ、今はトラウマを克服できずにいるだけなのだ。外れた時の激しい痛みは、きっと想像を絶するほどの恐怖に違いないから。
舞は反対側の直線で懸命に滑走する志絢に「がんばれ!!」と叫ぶ。その方法でしか、目を開けて彼女を追いかける術を持てなかった。一瞬だって転んだ瞬間の彼女の姿を思い出すまいと、その言葉でしか拳を握り続けることが出来なかった。
「志絢センパァーイ! かっ飛ばせェーー!!」
霖の声援が自分の声と重なる。この後輩はキラキラした瞳で志絢の滑りを注視している。フォームがかっこいいだの紫色のレーシングスーツがクールだの、レース前からメモ帳に何かを淡々と書き連ねながら、競い合っているという緊張を取っ払って、無邪気に楽しい瞬間だけを見つめている。きっと霖が一緒じゃなければ泣きじゃくって観ていられなかったかもしれない。鈴憧は『ひとりになりたいので』と言ったきり昨日と同じでトイレにこもっておそらく寝ている。先輩の気も知らないで後輩ふたりして自由すぎると注意すべきなのかもしれないけれど、そのおかげで舞は俯かずに済んでいた。
依然志絢は耶知に距離を離され続けている。ゴールまでの残りの距離を考えると、志絢が追い着くことはもうない。勝てない。どれだけ恐怖と闘い走り切ったとしても、耶知との距離を埋めることはもう不可能だ。
「なんでだよ……」
それが全力であってほしくなかった。これじゃああまりにも志絢が可哀想だ。
「──只今の結果、インレーン汐海耶知、八戸湊高校42秒34。アウターレーン甲塚志絢、綾里第一高校47秒43。以上です」
呆気なく止んでいったアナウンス。A級にさえ手の届かなくなった志絢のタイムが、会場壁上に設置されている大型電光表示盤に小さく映し出される。その抜け殻のようなタイムを力無く見つめながら、舞は静かに腰を下ろした。私のせいだ。私が志絢の大会出場を拒んでいれば……急かすような期待を持ち掛けてさえいなければ、こんな結果で終わることはなかったのに。
「なんでなんだよ……っ」
悔しかった。悔しくて悔しくて、レースを終えた彼女の姿を、この目でちゃんと見てあげることが出来なかった。
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