(2)
レース一日目。今日行われる種目距離のタイムスケジュールは、九時の女子1500mから始まり、男子1500m、男子10000mの順番になっている。今日のレースに出場するのは舞だけとなっており、競技開始前のリンクには八戸湊の緋瀬巫央奈とともにウォーミングアップをしている彼女の姿があった。二人は去年の東北大会の3000m・5000mで一位と三位、全国大会では四位と七位という成績を収めており、東北大会では巫央奈が、全国大会では舞が白星を勝ち取ったのだ。以来、舞は巫央奈に目を付けられている。
志絢が観覧席で舞の滑りを注視している間、前方から他校の選手の会話が耳に入って来ていた。男子と女子に関わらず、舞の名前が度々話題となっている様子だった。トイレから戻ってきた霖に理由を尋ねられ、志絢は去年のことを淡々と告げる。──ええっ! という驚きと同時に、霖は自身の頭を両手で押さえ付けた。
「舞先輩って、そんなすごい人だったんですか!?」
「あれ? 知らなかったのか」
「全然ですよ! 全国四位……あの舞先輩が!?」
「うん。ってか、じゃあ一体今まで雑誌のなに見てニヤついてたんだよ」
綾里第一高校のスピードスケート部の部室には、スケートに関する雑誌が幾冊か置かれている。その雑誌のほとんどは志絢が取り上げられているものを集めたものばかりだが、一冊だけ舞が取り上げられている号が存在しているのだ。全てを読破しているはずなのになぜ知らないのか……。霖は余すとこなく馬鹿だ。
「でもじゃあ、先輩はどうだったんです? 去年」
「え?」
頭を押さえていた後輩が
「私は、」
自然に吐き出そうとしていたはずが言い
私は出られなかったから。
ただそれだけの台詞のはずが、大会という二文字の空間にいるせいで喉を通らなかった。離れていたせいか、二年間のブランクが背筋に巻き付いて居心地が悪かった。
「私は、体作りに専念してたからさ」
「おぉ〜。だからそんなに引き締まってるんですか!」
なんの疑いもなく、その後輩は関心の目を向けた。クスリと返した笑みが舌の上でざらつく。
「見るか? 私の割れた腹筋」
「良いんですか!」
「ばーか。見せねぇーよ」
「えー、いつもは見せてくれるじゃないですか!」
「見せてるんじゃなくて、お前がいつも見に来るんだろうが」
コツン、とやけに近距離なおでこを押し離すと、霖は悪戯しくニヤけながら患部を撫でまわす。飼いならされた犬のように傍を離れない後輩の近くには、同行していたはずの鈴憧の姿が見当たらなかった。
「ところで鹿住は?」
「大です」
「は?」
「だから、大なんです! 先に行っててって」
「あー……そうなんだ」
「はい!」
どうやらこいつには羞恥心というものもないらしい。フンと息んで赤らむ顔が無邪気なだけに恐ろしい。
「──それでは、本日のタイムスケジュールをお知らせいたします」
すると、会場内にアナウンスが流れ始めた。気付けばリンク内には選手ではなく大会役員や清掃員の数名が見受けられ、舞や巫央奈はリンクの中地スペースで他選手たちも交えて語らい合っていた。
「このあと九時より、女子1500mがスタートします。中間
続く男子競技の放送が会場内に反響するなか、いそいそと顧問である妙崎が戻ってきた。腕組みしながら寒さを和らげようと小走りに駆け、ポリ袋を脇にガサガサとぶら下げている。パシリ帰りだ。
「は、はい二人とも。こ、こででいいっ……?」
「おう、さんきゅー妙崎様」
「ありがと妙ちゃん先生!」
ぶるぶると唇を震わせている妙崎に、二人は心配ひとつ口にせず礼を告げる。今朝は雪模様。外の気温は5℃らしい。
「あ、あなたたち、さささ、寒くないのっ…!?」
「寒いよ。そりゃ」
「でも、寒いって楽しいですよね!」
「ぽっぽぽ、ポジティブなのね……っ」
胸を張ってビルディングポーズを取る霖に、妙崎はガチガチに凍った首を鎖骨にめり込ませながら小刻む。ガサリとポリ袋から新品ノートと三色ボールペンを取り出した志絢はそれを後輩に贈呈し、菓子パンを食べているところに
「これ、私からのプレゼント。入部祝いの」
「入部祝い? 先月ちゃんとしたのもらいましたよ私。こ〜んなでっかいお札の置物」
言いながら、霖は両腕を伸ばせるだけ伸ばして宙に波打つ長方形を描く。その置物が『千億円』とただ舞が手書きしただけの、実は『昆布』であるということに疑念の産毛も生やさぬままに。
「あれは舞からだ。んで、これは私から」
「ありがたいですけど、でもでも、なんでノートなんです? 自慢しますけど、私こう見えても美文字ですよ?」
「それで大会のメモ取れ」
「メモ? 美文字だから?」
「久季がこの大会で感じたことを、箇条書きでもなんでもいいから取っておくんだよ。あとで自分の役に立つから」
「段位は師範です!」
「へーすごいすごい。ちゃんとメモ取るんだぞ」
「達筆。──ガッデム!」
ベンチの裏底に向かって力強く言い放たれた有名すぎる捨て台詞。前列の大学生数名が声の方をチラ見してクスクスと笑い出した。
ビクリ。と、その笑い声を聞いた途端背筋が
戻りが遅いので、志絢はもう一人の後輩を探しにトイレへ赴いた。すでにレースは始まっており、9組目と10組目のスタートピストルが今まさに
緊張の閑散が、廊下の至るところに張り巡らされている。平静を保とうと流し目程度に見遣り続けたが、志絢はどこか自分の背中が小さくなっている気がして、まっすぐに顔を上げて歩くことを意識せずにはいられなかった。
ちょうど、前を向いた時にトイレの入り口から誰かが出てきたので、不意にぶつかりそうになる。
「あ、すみませ──、」
「……」
半歩後退る志絢を
「
彼女は下げようとしていた右手首を、そっと支えて自身の胸元へ押し込んだ。うん、と頷きに合わせて聞こえた気がしたが、彼女の口元からは声と呼べる音の響きはほとんどなかった。
日本スピードスケート競技500m現高校記録保持者──
「その……久しぶり、だな」
「……」
「元気、だったか……?」
うん、とまた軽く頷いただけの彼女の右手が下ろされ、今度は肘を抱き寄せるように佇み直す。約二年ぶりの再会だが、何も変わっていない。椿はいつも人と目を合わせることを嫌う。会話することも。
そっか、良かった。やや気まずく相槌を打ったが、彼女は頷きもせず、ただ志絢の右膝を指差して返答を待っていた。志絢が静かに「心配ない」と告げると、その気弱に曲げられていた指先がしゅんと垂れた。
「そう……」
「うん。また会えて嬉しいよ」
「……」
それだけの会話だ。彼女はただひと言『そう』とだけ囁いて、何事もなかったかのようにどこかへ消えていった。椿の背中は孤独を纏っているように随分と冷たかった。不安が
大丈夫。きっと大丈夫。椿には……。
「甲塚先輩、何してるんです?」
「──え」
最後に脳内へ刻もうとしていた言葉を、聞き覚えのある声が遮ったのはそれから数分後のことだった。顔を上げてみると、そこには不思議そうにこちらを覗き込む鈴憧の表情があった。「あ、ああ……別になんでもない」言いながら、志絢はカーキ色のブルゾンジャケットの
「もしかして痛むんですか?」
「……いや、そうじゃない」
「本当ですか? 少し顔色が悪いですよ」
「別に悪くないよ。鹿住のこと探し回ってたら、ちょっと疲れただけ」
「私を? どうしてですか」
「どうしてって……、戻りが遅いからだろ」
「あー……すみません。ちょっとトイレで寝てました」
「は?」
鈴憧はそう言うと軽く目頭を擦って微笑む。てっきり不安で塞ぎ込んでいるんじゃないかと心配していたのに、「今何時ですか?」と悪びれた様子もなく体を近付けてくる。志絢はやや
「私、結構寝てたんですね。すみません」
「謝んなくていい。 それより、大丈夫か?」
「ちょっと……やっぱり怖いですかね。今日走るわけじゃないのに」
「不安か? それとも、」
言いかけて、志絢は後輩の下がった視線を目で撫でた。鈴憧が首を左右に小さく振る。思い直すように呑み込まれた沈黙の気配が再び見つめてきた。
「記録のことなら、怖くありません。私には先輩たちがいるので」
「私たちじゃなくて、久季がいるからだろ。あいつにはまだ話さないのか?」
「……正直、迷ってます」
「迷う? なんでだよ」
「それはその……、だって霖の目には、綺麗な私しかいないので……」
言葉の調子はひどく嬉しそうな意味合いなのに、彼女が底に沈ませている心情は複雑なものなのだろう。綺麗な自分しか映っていない、というのは良いことのようにも思えるが、鈴憧の過去を知っている分、その気持ちを簡単に汲み変えてやるには気が引けた。
自分だってそうだから。舞の目に映る自分だって、いつだって輝いている。どんな時でも舞は『私が憧れる志絢には変わりないもん』と言う。そう気持ちをまっすぐに伝えてもらえると嬉しいし、だから真剣にスケートと向き合って来られた。けれど同時に、そうあるべきだと自分を偽ろうとするあまり、それに見合わない感情を自分の中に発見してしまうと、
「汚かったら話せるのか? そのほうが良いって、お前は思ってるのか」
「そういう……わけじゃ、」
「そういうわけだろ。鹿住は自分のことを
「……」
きつい言い方をしてしまっただろうか。志絢は咄嗟に嫌味ではないと付け加えようとしたが、鈴憧は「その通りです」と苦い笑みを添えながら肯定した。その通りです。私は自分のことを綺麗だと思いたくありませんから。だから汚いままでいたい。綺麗だと思った瞬間に、きっと自分は滑れなくなる。
それを『プレッシャー』だと捉える人もいる。ほとんどの人が、それを重荷だと勘違いして潰れていく。彼女はまだ、そのどちらにも成りきれていない何かを掬い上げようとしているだけなのかもしれない。必死に受け入れようとしているのかもしれない。彼女はあまりにも繊細だ。競い合うというスピードスケートの世界において、その繊細さはブレーキをかけるだけの重荷にしかならないのに。
「……当たり前のことだから、だらだら言うつもりはないけどさ、」
競技エリアに通じる廊下を歩き始めた鈴憧の背中はやはりどこか椿と似ている。彼女も孤独な色の背中をしている。けれど、明らかに二つの孤独には違いがあった。上手く言葉では言い表せないが、確かに鈴憧の背中には、椿にはない孤独が眠っていた。
「とりあえず楽しんでみれば良いんじゃないのか? 久季みたいに無邪気に」
「霖みたいに……」
「そ。あいつは汚いままのお前でも応援する。もちろん、舞も私も。良いじゃないか別に。どう偽ろうとしたって、どうせお前はお前だよ」
どうせ……。我ながら無責任な言い方だと思う。きっとこれは自分自身に言い聞かせたくて出てきた言葉に違いない。
志絢は半歩前を歩いていた後輩の背中をゆっくりと追い越す。大丈夫。きっと大丈夫。そう自分の脳みそに何度も刻み込みながら。
大丈夫。きっと大丈夫。椿には……。
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