介護疲れの美女とトップセールスマン

春風秋雄

第1話 炎天下の公園のベンチで寝ていた美女

今日は夏もそろそろ終わりかと思うほど、すごしやすい。しかし、木にとまるセミは、最後の力を振り絞るように鳴き叫んでいる。俺は少し遅い昼食をとるため、コンビニで買ったおにぎりと、サンドイッチを持って、営業ルートの途中にある公園を訪れていた。春頃は毎日のように来ていた公園だったが、先週まではとても暑くて、外で食事などする気になれなかった。しかし、これくらいの気候なら青空の下で食べるのは気持ちよい。俺は、先ほどから前のベンチに座っている女性が気になってしょうがなかった。とても綺麗な女性だ。女優の木村多江に雰囲気が似ている。年の頃は40歳前後といったところだろうか。しかし、その女性が気になるのは、綺麗だからというだけではなかった。その女性は買い物袋を横に置き、焦点が合わないように、ボーと何かを見ている。そうかと思うと、時々うとうとし、首をガクッとさせている。人を観察するのは営業マンとしての習性だ。あの女性はとても疲れているのだろう。服装を見る限り、仕事中というわけではなく、主婦が買い物帰りに公園に寄ったといった感じだった。疲れているのであれば、早く家に帰って休めば良いのにと思う。俺は食べ終わったゴミをコンビニの袋に入れ、小さくなるように縛った。さて、どうしようか、時計を見ながら考えた。今日の仕事はすでにすませた。今月の営業ノルマを早々に達成させている俺は、月末まで特にあくせく働く必要はない。映画でも見にいこうかなと思って、ゴミが入ったコンビニ袋を営業カバンに詰め込み、立ち上がろうとした時、前のベンチの女性がいないことに気づいた。買い物袋は置いてあるので、トイレにでも行ったのだろうと気にせず、公園の出口へ向かって歩こうとしたとき、あの女性が出口に向かって歩いているのに気づいた。

あれはトイレに向かっているのではないよな?

買い物袋を忘れている?

俺はあわてて女性に駆け寄って

「買い物袋を忘れていますよ」

と声をかけた。

驚いたように振返った女性は、何を言われたのか分からなかったのだろう。キョトンと俺の顔を見ている。俺はもう一度

「ベンチに買い物袋を置いたままですよ」

と言った。

女性はやっと俺の言葉を理解したのだろう。だらりと下げた両手に目をやり、ハッと気づいたようだ。

「ああ、すみません。ありがとうございます」

女性はそう言ってベンチへ引き返した。

俺は出入口横に設置してある駐車場にとめてあった社用車のエンジンをかけた。少し涼しくなったとはいえ、車内は蒸し風呂状態だ。窓を開け、風を通し、車内の温度が下がるのを待つ間、外でタバコを吸っていると、先ほどの女性が買い物袋を提げて、トボトボと出口から出てきた。俺に気づくと、軽く頭を下げ、通り過ぎて行った。


俺は梶川健吾。47歳。若い頃に一度結婚をしたが、2年くらいで離婚し、その後は独身のままだ。仕事は全国に支店を置く、事務機器の会社の営業をしている。役職は課長だが、うちの会社は部長職を除き、役職も関係なしに営業社員全員にノルマが課せられる。そのかわり、自分のノルマさえ達成しておけば、あとは何をやっていても構わないという社風だった。一応部下もいるが、みんなベテランばかりなので、手もかからず、特に管理者らしいことはやっていない。俺はずっと全国でも3位以内に入るトップセールスを続けているので、ノルマを達成することは容易く、月の半ばには自分のノルマを達成しており、部下の数字が足らないときは自分の成績をつけてやっている。だから、月後半のこの時期になると、午前中だけ得意先を回って、午後からは遊んでいるというわけだ。


昨日と同じような時間に、またあの公園へ行った。昨日は少し涼しくなったなと思ったのに、今日は真夏日に逆戻りしている。昨日のベンチに腰掛けると、向いのベンチにあの女性が今日もいた。今日は買い物袋ではなく、近くのホームセンターの袋を横に置いている。ホームセンターで何か買った帰りなのだろう。俺は営業ノートを取り出し、午前中に回った取引先の状況を書き込んでいた。しかし、暑い。これ以上ここで時間を過ごすのは無理だ。どこかクーラーの効いた場所に行こうと立ち上がったところで、向いの女性の異変に気づいた。女性はベンチに横たわっていたのだ。寝ているのか?仮に寝ているのだとしても、こんなところで寝ていては熱中症になるかもしれない。俺は向いのベンチに近寄り、声をかけた。

「大丈夫ですか?気分でもわるいのですか?」

まったく反応がないが、かすかに寝息が聞こえる。俺は肩をゆすって起した。

「こんなところで寝ては、熱中症になりますよ」

女性が目をあけた。しかし焦点があってないようで、ボーとしている。

「大丈夫ですか?疲れているのであれば、帰られた方がいいですよ」

女性はやっと我に返ったようだ。

「ごめんなさい。大丈夫です」

そう言って、ようやく俺の顔を見た。

「昨日の方?」

「ええ、昨日もお会いしましたね。それより、歩けますか?車で送りましょうか?」

「ありがとうございます。でも、大丈夫です」

女性はそう言って立ち上がりかけたが、ふらついて、またしゃがみこんでしまった。どうやら、軽く熱中症になっているようだ。

「ちょっと待ってください。冷たい水を持ってきますから」

俺はそう言って入り口のところにあった自動販売機に向かった。冷たい水を2本買い、1本を差出し、飲むように促すと、カバンを開けて、お客さんに配るために持ち歩いているタオルをひとつ取り出し、もう1本の水で濡らし、首の後ろを冷やしてあげた。

しばらくすると落ち着いたようで、車で送りましょうかと聞くと、女性はスマホの時計を見て

「ありがとうございます。でも、私は、まだ家には帰れないので、もう少しここにいます」

と言った。俺は驚いて

「こんな暑いところにいたら、また熱中症になりますよ。まだ帰れないとは、どういうことですか?」

と聞いたが、女性は答えようとはしない。仕方ないので

「では、喫茶店でも良いので、どこか涼しいところへ移動しましょう」

と提案すると、素直に従った。

女性を車に乗せ、取引先の人とよく行く駐車場がある喫茶店へ向かった。

クーラーがよく聞いた店内は生き返る思いだった。

アイスコーヒーを飲みながら、先に俺が名刺を渡し自己紹介すると、女性はポツリポツリと話してくれた。


女性の名前は落合智子さん。43歳。専業主婦らしい。ご主人は都市銀行の銀行マンで、現在は東北の支店の支店長をしていて、単身赴任中だとのことだ。ご主人とは年が11歳離れており、智子さん自身は初婚だが、ご主人は再婚らしい。前妻とは9年前に離婚しており、子供はいないとのことだ。智子さんとは6年前に婚活で出会い、結婚したとのこと。

「どうしてご主人と一緒に東北へ行かなかったのですか?」

「介護が必要な義母がいるんです。それで、義母を連れていくのは難しいということになって」

ご主人のお母さんは、現在83歳。智子さんが結婚した当初は義姉夫婦のところで暮らしていたが、結婚して1年もしないうちに義姉が押し付けるように連れてきて、それ以来一緒にくらしているとのこと。

「とても良いお義母さんだったんです。私に対しても優しくて、料理も色々教えてもらいました」

ところが、3年くらい前から認知症の症状が現れ、あれよあれよと思う間に、智子さんのことを義姉の名前で呼んだり、前の奥さんと間違えてしきりに謝ってくる。どうやら、前の奥さんは義姉との折り合いが悪くて離婚したようだった。お義母さんは、それを私の育て方が悪かったから、義姉があんなふうになってしまったと謝るらしい。

「それを聞いて納得してしまったんです。私も義姉は苦手なんです」

義姉は母親を押し付けてきたくせに、義母の世話についてあれこれ口を出してくるらしい。週に何度も電話をかけてきては、あれこれと小言を言われ、なかなか電話を切らせてもらえないということだ。認知症がひどくなった義母はいつも目が離せない状態になり、家事や自分のことが何もできなくなってしまったので、半年くらい前から義母をデイサービスに出すようにしたところ、「何故他人に面倒を見させるのだ!」と怒って電話してきたらしい。義姉はスマホの操作が苦手らしく、家の電話にかけてくるので、どこにいても追いかけられるということがないことが救いだが、午後の2時から4時は義姉が暇な時間らしく、毎日のようにその時間に電話があるらしい。義母の面倒で夜中にも何度も起きるので、睡眠不足になっており、本当はその時間に少しでも寝ておきたいのだが、義姉の電話で寝れないということだ。

俺は、それらの話を聞いて、合点がいった。まだ帰れないと言っていたことや、公園のベンチでうとうとしていたことは、そういう理由だったのか。

「ご主人に言って、お義姉さんをなんとかしてもらえないのですか?」

「主人は向こうへ行ってから、家のことは放ったらかしです。LINEしても既読スルーだし、電話しても出ないか、出ても少し話すと今忙しいからと言って切ってしまうし。向こうで女でも出来たんじゃないかと思います」

「事情はよくわかりましたけど、この暑い時季に公園のベンチで時間を潰すのはよくないですよ」

「最初は喫茶店で時間を過ごそうとしたんです。そしたら、店員さんから寝ないで下さいと注意されて。仕方なくインターネットカフェにも行ったんです。でもあのような場所では圧迫感があって落ち着かなくて、それでも疲れているから寝ていたら、今度は寝過ごして、デイサービスが送りに来ているのに家に誰もいないと電話があって、デイサービスの人に怒られてしまって」

俺は心底同情してしまった。

「ごめんなさい。初めて話をする人にこんな話までしてしまって。でも何故か梶川さんにはスラスラとしゃべりやすいんです」

営業マンは相手の話を引き出すのが仕事だ。長年培った俺の雰囲気がそうさせたのだろう。

「じゃあ、提案です」

智子さんは何だろうという顔で俺を見た。

「さっきも言ったように、俺は午後からの時間は暇しています。明日から午後の1時から4時まで、俺の車でドライブしましょう。落合さんは助手席で寝ていればいいです。どうですか?この案は」

「そんなことして、梶川さんに、何のメリットがあるのですか?」

「美人の人妻を助手席に乗せてドライブするなんて、人生でそうそう経験できることではないですよ。あ、でも寝ているうちに変なことをするとか、そういうつもりは全然ないですから安心して下さい」

「私なんかとドライブして楽しいですか?」

「私は、昨日落合さんを見たときから、綺麗な人だなあと思っていましたよ。だから公園のベンチに座っているときから気になっていたので、買い物袋の忘れ物にも気づきましたし、今日も本当に心配で声かけたんです」

「そんなふうに言ってもらえるなんて、若い頃に戻ったような気分です」

「じゃあ、決まりですね。明日からドライブしましょう」

営業マンは押しの一手だ。


翌日のドライブ初日は雨だった。

「せっかくのドライブなのに、天気が悪いですね」

窓の外を眺めながら、智子さんが残念そうに言った。

「でも、この雨では公園には行けないから良かったのでは?それに、落合さんは寝ていればいいのですから、雨でも晴れでも関係ないでしょ?」

智子さんは、ドライブを楽しんで、全然寝ようとはしない。

「ドライブなんて、本当に久しぶりなので、寝るのがもったいなくて」

「だめですよ。ちゃんと睡眠とらないと、体がもちませんよ。とりあえず、シートを倒して上を向いてください」

智子さんは言われたとおりにシートを倒した。よほど疲れているのだろう。ほどなく寝息が聞こえてきた。その寝顔がとても愛らしかった。


ドライブをするようになって、3日目に智子さんが聞いてきた。

「ずっと運転していて、梶川さんは疲れないですか?」

ドライブするとき、さすがに3時間もぶっ通しで運転するのは無理なので、45分くらい運転しては、人気のないところで止めて、15分くらい休憩するといったインターバルで運転していた。それでも疲れることは疲れる。しかし、智子さんに疲れるとは言えず、黙っていると、智子さんが話を続けた。

「私も車のシートで寝ていると、睡眠はとれますが、体が疲れます」

「この企画は失敗でしたか?」

「ちゃんとした、お布団で寝たいです」

俺は思わず智子さんを見た。智子さんは正面を向いたまま、すました顔をしていた。俺は黙って車を走らせた。


ホテルの部屋に入ると、智子さんは

「うわー、お布団だ」

と言って、ベッドにダイブした。

「そのまま寝てしまいますか?それともシャワーを浴びますか?」

「シャワーを浴びます。家ではお義母さんが気になって、お風呂に入るのも忙しないので」

そう言って智子さんは浴室へ消えていった。

俺はしばし考えた。このまま流れでしてしまっていいのだろうか。相手は既婚者なのだから、不倫ということになる。

しかし、その思考は長く続かなかった。生来楽天家の俺は、なるようにしかならないと思ってしまった。

しばらくして、智子さんが着ていたものを持って、バスローブ姿で戻ってきた。

「せっかくだから、梶川さんもシャワー浴びたらどうですか。気持ちいいですよ」

完全に主導権を智子さんに握られてしまった。それでも俺は智子さんの言葉に従いシャワーを浴びた。俺もバスローブを着てベッドに戻ると、智子さんは寝息をたてて寝ていた。

仕方ない、俺も少し寝るかと、帰り時間を計算してスマホのアラームをセットし、智子さんの横にもぐりこんだ。

どれくらい寝たのだろう。ふと目を覚ますと、智子さんがこちらを向いて俺の胸を撫でている。

「男の人の肌に触るの、久しぶり」

「旦那さんとは?」

「結婚して2年くらい経ったら、もう手を出さなくなった。結局あの人は、妻が欲しかったのではなくて、お義母さんの世話をしてくれる家政婦が欲しかったのよ。おそらくお義姉さんから急かされていたのだと思う」

「こんな綺麗な人と一緒に暮らしていて、手を出さないなんて、もったいない」

「一緒の布団に入って、手を出さず寝入っているのは、もったいなくないの?」

「もったいない。だから、いまから取り返すことにする」

俺は智子さんにのしかかり、唇を塞いだ。


家ではゆっくり風呂に入れないと言っていたので、浴槽にお湯を溜め二人でつかった。お風呂で俺は色んなことを話した。俺の仕事の話、若い頃に結婚を経験している話、もっと話したいことはいっぱいあったのに、寝室でスマホのアラームが鳴った。俺たちは、大急ぎで帰り支度をした。


翌日からは、公園の駐車場で待ち合わせ、そのままホテルへ直行するようになった。シャワーを浴び、ベッドで交わり、そして1時間くらい睡眠をとる。最後にお湯につかり、色々な話をする。

さすがに俺の年で毎日交わるのは無理なので、実際に交わるのは3日か4日に1回、あとは裸でいちゃつくだけだ。それでも智子さんは喜んでくれた。智子さんは会うたびに綺麗になっていくようだ。俺はどんどん智子さんに溺れて行くのを自覚した。


月が変わり、営業の新たなノルマが課せられると、毎日会うわけにはいかない。俺は入社以来、これほど働いたことはないというくらい営業に駆けずり回った。とにかく早くノルマを達成したかった。ノルマさえ達成すれば毎日会える。そのために俺は必死で働いた。気になったのは、その間、義理のお姉さんから電話があるかもしれないということだった。そこで俺は、うまくいくとは限らないけど、と前置きして、ある作戦を智子さんに授けた。長年培った営業手法を駆使した戦法だった。


やっとノルマを達成し、ゆっくり智子さんと会えるようになった。いつもの月より、1週間近くも早く達成した。会うなり智子さんが言った。

「作戦、成功かもしれない。電話があったとき、梶川さんに言われたとおりに言ってみたら、それから電話がないの」

俺は、その時のやりとりを詳しく聞いてみた。再現すると、こんな感じだったらしい。


いつものように、義姉の小言をとりあえず聞いて、話が切れたところで智子さんはこう切り返した。

「私、前々から思っていましたけど、お義姉さんは、本当は私なんかにまかせずに、ご自分でお義母さんの面倒をみたいのですよね。以前デイサービスに預けたのを知って、何故他人に面倒をみさせるのだって、怒っていらっしゃったですものね。それは、血の繋がっていない私なんかに任せるより、自分で面倒をみたいという意味でもあるんでしょ?でもお義兄さんの手前、そんなこと言えないと悩んでいらっしゃるんでしょ?お義姉さんが、そこまでお義母さんのことを思っていらっしゃるなら、私、辰彦さん(旦那さん)と一緒にお義兄さんに頼みに行きますよ。お義姉さんがどうしてもお義母の面倒をみたいと言っているので、何とかお義姉さんの気持ちをくんで、お義母さんをそちらの家で面倒みてもらうようにお願いしにお伺いしますよ」

「誰もそんなこと言ってないじゃない」

「いいえ、私にはわかります。それでなければ、私にあんなに細かいことまで色々言わないですよ。それは、自分がやればそこまでやるのに、他人に任せなければいけないというジレンマでそう言っていたのでしょ?」

「あなたには、嫁としてのプライドはないの?」

「私のプライドなんかどうでもいいです。一番優先しなければいけないのは、お義母さんにとって、誰に面倒みてもらうのが、一番幸せかということですから。私も、いままでは小さなプライドで、自分でなんとかと思っていましたけど、やはりお義姉さんの、自分で母親の面倒をみたいという気持ちには勝てません。一度お義兄さんのご都合を聞いておいて頂けますか、それに合わせて辰彦さんとお願いに伺いますから」


実際はもっと細かいやりとりはあったのだろうが、要約すると、このようなやりとりだったようだ。

「よくスラスラと言えたね」

「私も必死だったし、相手を否定するのではなく、相手を持ち上げて相手にノウと言わせない戦術だって聞いていたから、しゃべっていて、本当にお義姉さんはそう思っているんじゃないかと思えてきて、スラスラと言えた」

「これでお義姉さんから電話がこないようなら、わざわざ俺とここに避難する必要はなくなるということか?」

「健吾さんは、それでいいの?」

「よくない」

「だったら、そんなこと聞かないの!」

そう言って、智子さんは俺のものを握ってきた。


智子さんと付き合うようになって半年ほど経った頃、思いもしないことが起きた。俺に転勤の辞令が出たのだ。福岡の支店の業績が落ち込んでいるので、建て直しに行ってほしいということだった。入社以来、今の支店を離れたことがなかった俺にとっては、寝耳に水の出来事だ。またここに帰ってこれるかと部長に聞くと、基本的には福岡支店の業績が安定すれば用は終わるので、呼び戻すとは言ってくれたが、行って現状を見てみないことには何年かかるかわからない。

智子さんに転勤が決まったと告げると、顔をひきつらせた。俺は思い切って言ってみた。

「それで、この際、旦那さんと別れて、俺と結婚してくれないか。そして、一緒に福岡にきてほしい」

智子さんはじっと俺をみつめた。その目が少し潤んできた。

「うれしい。あなたと一緒に福岡へ行きたい。でも、そんなに簡単なことじゃない」

「旦那さんだって、他に女を作っているんだろ?」

「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。証拠もないので、何ともいえない。それより、お義母さんを放っておけない」

「でも、血の繋がった母親でもないんだし、それこそお義姉さんに任せればいいじゃない」

「認知症になるまでの短い期間だったけど、お義母さんには、本当によくしてもらったの。実の母親のように接してくれたの。だから、そんなお義母さんを放って福岡へは行けない」

これ以上何か言えば智子さんを苦しめるだけだと思い、俺はそれ以上のことは言わなかった。


福岡へ行く前日に最後の逢瀬をした。

「月に1回か2回は、会いに帰ってくるから」

「こっちのマンションは引き払うのでしょ?遠いから無理しなくていいよ」

「俺が来たいんだ」

「わかった。でも、私はあてにしないことにする。あてにすると、いつ来てくれるんだろう、もう少ししたら会えるのかなって、いつもいつも考えてしまいそうだから。そして、期待して待っていても、結局来てくれなかったら辛い思いをするだけだから」

俺は、思わず智子さんを抱きしめた。


その翌日、俺は福岡に赴任した。


この公園にくるのは何年ぶりだろう。福岡支店に結局5年いた。5年で福岡支店は全国で1~2位を争う支店に成長した。そして、部長に頼み、やっとこの地に呼び戻してもらった。

初めて智子さんに会ったときは、セミの鳴き声がうるさかったが、今は桜の花びらが舞っている。いつも座っていたベンチを目指し歩くと、向いのベンチに寝そべっている女性をみつけた。俺はその女性に近寄り声をかけた。

「大丈夫ですか?こんなところで寝ていると風邪ひきますよ」

女性はむっくりと起き上がり、俺の顔を見た。

「おそーい。約束の時間を20分も過ぎてるじゃない」

「ごめん。赴任の手続きに手間取った。それより離婚届けは出してきたの?」

智子さんのお義母さんは、一昨年身罷ったと連絡があった。これで自分の役目は終わったと旦那さんと離婚交渉を続け、やっと離婚が成立した。

「ちゃんと出してきたよ。今日から100日後には健吾さんの妻として婚姻届を出せるよ」

「病院へ行って、妊娠していないという証明をもらえば、すぐにでも婚姻届を出せるよ」

「え、そうなの?」

「じゃあ、今から病院へ行く?」

「それよりも、ちゃんとしたお布団が敷いてあるところへ今すぐ行きたい!」

智子さんの笑顔は5年前より輝いていた。

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