そのうちに、都では帝の代替わりがありました。

 ある日の夕刻のこと。青嵐が里山の上を飛び過ぎようとしたとき、ふたりの尼僧が畦道に立ち往生しているのが見えました。片方の尼がひどく足を挫いたようです。

「妾が先に参って、たれか人を寄越すよう頼み上げましょう」ひとりの尼が言いました。

「かようなところで独り待つなど真っ平です。追剥の出るやも知れず……それにこの辺りでは、天狗が人を攫うというではありませぬか」

 尼僧の言葉に、青嵐はちょっとむっとしました。しかし、修行者を捨て置くわけにもゆきません。尼僧のふたりくらいなら、その言葉どおり小脇に抱えて攫ってゆくこともできましたが、ひとまず様子をみようと、童子姿になって畦道を歩いてゆきました。

 黄昏時の中、足を挫いたほうを慰めていた尼僧が、彼のやって来るのに気づいて顔をあげました。

 薄明かりでも、青嵐には、尼僧が誰であるのかはっきりわかりました。白鷺のように髪は白くなり、やわらかかった頬はけていても。

「もし、そこな童」

 と姫君は言いました。

「童ではない。己の名は薫だ」

 と青嵐は応えました。

 姫君はうっすらと笑ったようでした。

「薫。良い名ですね。むかし、そなたと同じ名の男童おのわらわがおりました。物事をよく知っていたので、今頃は長じて立派な僧徒になっていることでしょう。これも何かの縁。我らは尼寺へ参りますが、連れが足を挫き難儀しております。お寺はここから遠いのですか?」

「その足では無理だ。己が行って人を呼んできてやろう」

 姫君の礼も耳に入らぬうちに、青嵐は駆け出していました。

 彼を見据えた姫君の眼からは、かつての輝きが消えていました。罠にかかった獣がみせる、くらい水底のようなまなこでした。

 暗いのを幸い、天狗の姿で尼寺までひと飛びすると、姫たちを迎えにゆくよう、寺男に大声で呼ばわりました。

 姫君は尼寺に引き籠ると、蓑虫が下がっても竹の花が咲いても一顧だにせず、一歩も外に出ようとはしませんでした。

 ――あのとき、姫からは立ち枯れる木のような匂いがした。

 青嵐は杉の木の上で思い返していました。

 己だと、気づきもしなかった。

「どうしました、浮かぬ顔をして」

 いつのまにか、凪が羽音もさせずに傍らに来ていました。

うるさい」

 凪は訳知り顔に、片方の眉を上げてみせました。

「そういえば、いつぞや話したあの黒い粉で、少しばかり面白いものをこしらえたのです。ある種の岩や石を砕いて混ぜると、彼岸花のように綺麗な火花が散る。新しい余興になるとは思われませんか?」

 二羽の天狗は木の葉を散らして飛び立ちました。その後、天狗が姫君の前に現われることは二度とありませんでした。



                     終

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虫愛づる姫或いはお山の昔語り 吉村杏 @a-yoshimura

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