姫君が結婚した年は、都に疫病が流行はやり、身分に関係なく多くの人が病に倒れました。人気ひとけの絶えた都大路を、痩せ衰えた躯にぼろぼろの着物を巻きつけ、髪ふり乱した、鬼とも人ともつかぬ格好の疫病神が、醜悪な物の怪たちを引き連れて駆け抜けてゆくのを、誰もどうすることもできませんでした。ふつうの人間には物の怪の姿は見えず、ただ家に籠って震えているほかありません。

 化野あだしのには死人を焼く煙が延々とたなびき、悲嘆にくれる人々の声は風に運ばれて、山にいる天狗たちの耳にも届きました。

 しかし青嵐にも、都を顧みる余裕はありませんでした。疫病神が寺社に入り込まぬよう目を光らせるほか、国境くにざかいを越えて悪さをしにやって来る烏天狗の群れを追い払うのに手一杯だったのです。

 その名のとおり、烏の嘴と羽を持つ烏天狗たちは、体も小柄で青嵐たちの敵ではありませんでしたが、叩き落しても蹴散らしても雲霞の如く湧いて出て、尽きるところを知りませんでした。

 ようやく、住み慣れた森に戻ってきたとき、木々が妙にざわめいていることに青嵐は気づきました。

 森の奥で大勢が騒いでいます。笛のも聞こえないことから、帰還を祝っているふうでもなさそうです。

 声のするほうに向かって、青嵐は木々の間を飛び抜けました。どんどん、森の奥深くへ入ってゆきます。御神木と崇められる、杉の巨木の祀られている方向です。嫌な予感がしました。

 御神木の生える場所は、下生えに覆われた小さな空き地になっていました。空き地を囲む木の一本に、天狗たちが群がっています。彼が留守の間に残していった仲間たちでした。

「何をしている」

 青嵐は狼のように吼えました。

 天狗たちが一斉に振り向きました。手に手にこわい武器を携えています。頭目の姿を認めると、天狗たちは無言で左右に道を開きました。

 中心にあるものを目にして、青嵐は言葉を失いました。

 天狗たちの真ん中には姫君が、蔦で幾重にも木に縛りつけられていたのです。

 青嵐は姫君に駆け寄りました。彼の手が触れるや否や、蔦蔓はするするとほどけてゆきます。力なく倒れかかって来た姫の体を、青嵐はその腕に抱きとりました。

 ひと目見たとき、姫君は血を流して事切れているように思えました。しかし、血と見えたのは緋のうちぎで、泥や草の汁で黒く汚れた中に、ところどころ紅色あかいろが残っているため、そのように見誤ったのでした。姫君はかすかに息をしています。

「凪、お前の指図か」

 凪は黙って首を横に振りました。

「その娘は、御神木に手をかけようとしたのだ」

 羽にまだらのある天狗が胴間声を張り上げました。

「輿に乗り、供の者を大勢連れてやって来おった。女房どもや担ぎ手の奴ばらは、我らがちょっと風を起こせば蜘蛛の仔のようにすぐ逃げ去ったが、こやつは飛礫つぶてを打っても木を引き倒しても、いっかな引き返そうとはせなんだ。仕様がないから捕らえたまで」

 姫君の瞼が動きました。斑の大声で気がついたようです。青嵐は血の気を失った姫の頬に、そっと、鉤爪の生えた手を添えました。

「……何故、ここに」

 姫君は目を開けましたが、その目は焦点を結ばず、青嵐の閻魔顔も、夢かうつつか判じ難いようでした。

「……妾の、良人おっとが、流行病はやりやまいなのです。山寺の童に教えられた薬は全部試しましたが、治りません。ですが、このお山の、深いところに生える草の根ならば、どんな病にも効くと教わったのを思い出し、採りに参りました」

 か細い声で言い終えると、姫君は再び目を瞑りました。汚れた頬に、涙がひと筋流れました。頭ががくんと後ろに傾いだ拍子に、たもとから熊けの鈴が転がり落ちました。姫君の着物からしていた妙な匂いは、虫除けの香草のものでした。

「……己が教えた」

 その声は、ひび割れた鐘のように響きました。

「熊が人の気配を嫌うことも、御神木の近くに薬となる草の生えることも、己が教えた。賢い娘だったのだ。まさか禁忌を犯すとは思わず――」

 天狗たちは困った様子で顔を見合わせました。頭目自らが災難を招いてしまったのでは、彼らは誰に裁きを委ねればよいのか、皆目わかりませんでした。

「――これだから人間は!」

 沈黙を破ったのは斑でした。

「御神木に何事もなかったとしても、もとよりこの辺りは、人間風情がおいそれと足を踏み入れてはならぬ場所。本来ならばこのような恩知らず、谷底へ打棄うちやるのが筋合いよ」

「……姫を、都へ帰してやってくれ」

 青嵐は地面に膝をつきました。大きく広がっていた黒い翼は、しおれて姫君と彼の体を覆いました。

「それは許されませぬ。御神木に仇なすつもりではなかったにせよ、禁を破ったことには変わりない」

「……したが己が教えねば、この娘は山に何があるか知りようもなかったのだ。山での身の処し方を己は教えた。決して立ち入ってはならぬ場所のあることも……」

「何を。頭目は我らのつとめを何と心得られるか――」

「わかっている。だがこの娘とて、我欲のためにやったわけではないのだ。頼む。己が代わりに松の木に吊るされてもよい……」

 天狗たちはますます困って俯いてしまいました。隣とひそひそ話す者もいます。こんな頭目を見るのは初めてだったのです。

「……凪よ、どうしたらよい?」

 斑も頭を掻きつつ、凪に助けを求めました。

「私の一存では決めかねます」

 ここは大天狗様にお伺いを立てるのがよいでしょう、と凪は言いました。

 大天狗、松籟しょうらい坊は齢二千を数えるとも言われる天狗で、青嵐に跡をまかせてからは、若い天狗たちにも滅多に姿をみせなくなっていました。

 ふだんは洞窟の奥で瞑想をしているという大天狗に、邪魔をする非礼を詫びるため、凪がふくろうのようにひっそりと飛んでゆきました。

 ほどなくして、松籟坊は小岩ほどの巨体ながら、木の葉をそよとも揺らさず、御神木の前にその姿を現わしました。

 凪と斑、そして青嵐から話を聞き終わると、大天狗は口を開きました。

「なんとも剛毅な姫よ。それゆえに禁を破ったとしても、我らにも慈悲の心の無いわけではない……。こたびのことはその豪胆さに免じて許してやろう。しかし」

 今後一切、姫には山に入ることまかりならぬ、と松籟坊は申し渡しました。そして、青嵐も、都に足を踏み入れてはならぬ、と。もし再び背いたときには姫の命はないと思え、とも。

 斑は不服そうでしたが、大天狗の決定は絶対です。姫君の命が助かるのであれば、青嵐に否やのあろうはずもありません。

 それから、松籟坊は青嵐に、姫君を山の麓まで連れてゆくよう命じました。

「ただしお主はそこから先にはゆけぬ」

 松籟坊はおごそかに言い渡しました。

 青嵐はうなずくことしかできませんでした。都まで、女の足では何日もかかります。輿もなく、随身もないでは、途中追剥に遭うやもしれません。天狗の羽ばたきならば、ひとっ飛びであるのに……。

 凪ともうひとり年若い天狗が、ついてゆくと申し出ました。大天狗は承知したとひとつうなずくと、現われたときと同じように、忽然と姿を消しました。

 青嵐は姫君の体を抱え上げました。泥にまみれた白い手に、掘り出した薬草の根をそっと握らせます。

 地面をひと蹴りすると、三羽の天狗は木々の梢よりも高く舞い上がっていました。頭上には月が煌々と輝いています。

 岩場から落ちかけた修験者を掬い上げて飛んだこともあるというのに、姫君の細い体はずっと重く感じられました。戦いではどこも傷つかなかったはずなのに。

 三羽は人里に一番近い寺の境内に降りました。天を衝く巨体、人間とは思えぬぎょろりとしたまなこに驚いて腰を抜かしている僧に姫君を預け、目を覚ましたら、二度と山へ踏み入ることのないよう伝えよと、天狗は言い残しました。

 僧の答えるのを待たず、三羽の天狗はつむじ風となって消えました。

 都では、左大臣の姫が天狗に攫われたという噂が、野火のように広がっておりました。

 僧侶たちの助けを借りて、姫君はなんとか都に辿り着きました。しかし、山に捕らえられていた間、人界では三箇月みつきが過ぎていました。姫君の夫はすでに亡く、姫君の嘆き悲しむ声は夜毎、闇を裂いて、はるか山奥の青嵐の耳を打ちました。その叫びは、青嵐の知るどの獣の声よりも長く消えずに残り続けたのでした。

 山に戻った頭目を、仲間の天狗たちは何事もなかったように出迎えました。彼らにしてみれば、ことが過ぎてしまえばいつもと同じ。頭目が頭目であることに変わりはないのです。

 青嵐も彼らに混じって、再び合戦や篳篥の輪に加わりました。

 よく晴れた日や月の明るい晩、山の稜線に目を凝らすと。茶色や黒の竜巻が幾つも舞っているのが見えたといいます。

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