欲望

とがわ

絡み合う欲望

 エンジンが温まるまでの数分。少しでも暑さを凌ごうと窓を全開にする。しかし当然ながら猛暑だ、生温い、いや温風が顔に衝突してくるだけで暑さは増すばかりだった。

 可愛く見られたい欲求から、ヘアアレンジにも気合を入れてきたというのに、額から湧き出る汗の所為で前髪の一部がべたりと肌にへばりついてしまう。サイドミラーに映る自分が想像していたよりずっと可愛くなくて、咄嗟に目を逸らした。

「窓閉めるよ」

 どきりとした。すぐ右から低い男の人の声が、風の音と混ざりながら聞こえてくる。

「うん」と平静を装うように返事をすると、微かに機械音を発しながら窓が閉まっていった。同時にエアコンをつけたようで、ブオォと、これまた可愛くない音を立てながら冷風が吹いてきた。

「寒い?」

「ううん涼しい」

 一瞬で汗がひいていくのがわかる。エアコンの設定温度のパネルには二十二度と表示されていた。狭い車内で二十二度が保たれ続けるのは流石に寒いが、今は気持ちがよかった。しかしそんなことよりも、窓が閉められたことで外との繋がりが隔たれ、密室が完成したことにドキリとした。 目を瞑ってしまえば外の音など一切聞こえず、どこで何が行われているか分かるはずがなかった。同様に、わたしたちがこの車の中でどんな会話をしようと外に筒抜けになることはないのだ。頼れるものはもうなにもない。彼の車に乗り込んだ時点でそれはもう決定事項なのだった。


 それにしても沈黙が張り詰めていた。エンジンやウインカーの音、エアコンの風たちの無機質な音がより一層沈黙を確かなものにしている気さえした。彼はなかなか話をしなかった。運転に慣れていないことはない。ならば緊張しているのだろうか。今更こんな状況で緊張するほど経験のない人ではない。

「音楽とかない?」

 無音の中でわたしの音を発することは難しいと思うのに、出してしまえばなんてことない。では自信のある発言だったかと言われるとそうではないことにも、気づいている。

「Bluetooth繋ぐ?」

「ううん、コウの借りるよ」

「スマホ鞄の中だから漁っていーよ」

 人の私物の箱を開くことができるのは信頼しているからだろう。恋人とはきっとそういう位置にある。

 彼の鞄はわたしと彼の座るちょうど間に置いてあった。真っ黒色のブランド物のウェストバッグだった。チャックを開けて、必要以上に漁る。鞄自体小さめなためスマホの存在感は大きくすぐに見つかってしまったが、一体他に何を入れているのだろうと気になってしまうものだ。折り畳みの黒財布とニベアが入っているのを確認できたところで、「何見てんの」と声を掛けられ慌てて鞄のチャックを閉めた。

「何も見てないよ」

 笑いながらそう返す。彼は昔のように、少し呆れた様子で笑った。

「好きな曲流していいよ」

 彼がそう言うので音楽アプリを起動させ、まずは彼が普段何を聞くのか把握する。思えば、彼の音楽の趣味など今まで知ろうともしてこなかったことに気づく。何か共通の曲はないかと見るが、知っていても主体的には聞かない曲ばかりで口の中で溜息が溜まる。

 好きな曲をというが好みが全く違っていた。そうだろうと、ほとんど最初からわかっていたが、なるほどこういうところのズレかとはっきりと納得してしまう。結局無難に彼のプレイリストをシャッフルで流し始めた。

「好きな曲でよかったのに。あの男女グループ好きじゃん」

 そういわれ特定のアーティストは思い浮かんだが、名前を覚えていないということはわたしの好きなものに特段興味はないということなのだなと理解する。

「なんでもいいんだ別に」

 実際、その言葉に嘘はなかった。好きな曲やアーティストはいてもライブに行くほどではないし、なんでもいいといえばそれに尽きた。

 彼の家を出発して十分弱か、まだ見慣れた道を走っていた。

「高速乗るの?」

「乗るよ」

 目的地は県外だから当然といえばそうだが、高速道路に乗る分乗車時間が短縮されるのは不服だった。

「料金だすよ」

 そんな言葉を発するのも自分の良心だけがそうさせているのではないことに薄々気づいている。

「ETC入ってるから」といわれ結局財布の出番はなかった。

 彼は近所に住む家の子で、小中同じの所謂幼馴染という枠の中にいた。今日も家から彼の家まで徒歩で歩き車に乗り込んだ。わたしがそうしたいと言ったのだ。

 彼とは中学で一回、高校で一回、大学で一回、付き合った過去をもつ彼氏だった人だ。付き合っては別れ、二年ほどの月日を経て復縁をする。惰性で付き合うより質の悪いお付き合いだ。

 大学四年、就活を終え身軽になったわたしに入った一本の連絡はわたしを狂わせた。

「コウって運転結構するの?」

 高速道路に合流する手前でそう聞いた。

 合流するほんの数秒、悩むフリをして唸るような声を零し、合流すると「毎日してるけど」と呆気なく返事がきた。

「車買ったならそりゃあ、運転するよね」

「まあね。会社もあるし」

「一番遠くてどこまでいった?」

「忙しくて遠出なんてほぼしないよ」

 社会人の多忙さが来年への不安を倍増させる。けれどそれは今はどうでもいいことだ。

 再び二人の間に沈黙が漂う。しかし音楽があるお陰で沈黙感は幾分消え、居心地はそう悪くない。むしろこの流れを乱してはいけないとさえ思う。そろそろ二十二度の冷房が寒くなってきたところだが、下げたいというその一言が言葉にできなかったし、勝手に下げることは無礼だった。

 言ってしまえばなんでもないのを知っていても、わたしたちの間に時間が空けば、それは時間に比例せず関係性にまた一つクレーターができるみたいにぽっかりと空白の穴ができる。凸凹として歩きにくく、最初の一歩をどこに落とせばいいか考えなければならないし一番エネルギーを使う。話し始めてしまえば、ここには最初から何もなかったのだと錯覚するほどにスムーズに歩けるというのに。

「温度上げていい?」

 そう思っているのはわたしだけなのかもしれないと都度思う。彼は躊躇いなく進む。わたしからどう思われようと気にしないのか、ただ、言葉だけをわたしに向ける。それは何も素直ということではない。

 肯定の返事をすると八十キロを出しながら左手をエアコンの温度調整ダイヤルに伸ばし、右まわりに回した。二十六度に変わった。

「親になんて言ったの?」

 また、彼の方から話題が振られる。

「大学の友達と行くって」

「へぇ」と少しばかり笑いを含ませていう。

「まあ、放任主義ではあるけど、嘘つくのは胸が痛いかな」

「だろうね」

「彼氏なら、そう言えるけど」

 わたしも大概狡いのだ。恋人になってほしいという表現は正しくないが、もう一度付き合ってみたいという思いが先行しているのは事実に限りなく近かった。

 彼はそれについて何も言わない。わたしの狡さをわかった上であろうと思う。じゃあ付き合う? と、彼はもう言わない。

「何時着予定?」

 凸凹していた道を先に歩いてもらったお陰で、わたしも幾分か歩きやすくなってきていた。沈黙は、こうやってなくなっていくのだと毎度実感する。

「ナビに表示されてるから自分で見てください」

 幼い頃から知っているとはいえ年上に敬語を使われるのはむしろドキリとする。しかし年の差は意外と大きな壁だったりもする。大学二年の夏の終わり頃、復縁が始まったのはタイミングが悪かった。彼は三年で就活の真っ最中にいた。忙しいと言われ続け上手くいかず一方的に不満を垂らし三度目の消滅をした。彼とわたしではタイプに差がありすぎていた。そうだ、差は歴然のはずなのだ。

「大体二時間なんだ」

「チェックイン三時だからそれまでは観光ね」

 そうか、到着が十一時なら昼もどこかで済ませなければならないのか。

「夜バイキングだよね?」

「そう」

「じゃあ着いたらすぐお昼食べた方がいいね」

「どこでもいいよ食べるのは。コンビニでも」

 どこでもいい、という言葉に引っ掛かりを覚えるが彼は前からずっとこうだと言い聞かせる。

「まあ昼よりまずどこいくか決めたい。行きたい所は?」

「どこでもいい」

 食い気味に、今度はわたしがそう返す。彼は嫌な顔をするが、それは決めるのが面倒だという表情なだけであって、悲しみでは決してない。

「じゃあ滝とか?」

 結局提案するのはわたしだ。

「滝か。調べてみて」

 今度は自分のスマホを取り出して検索をかける。滝はいくつもヒットしたが、目的地に最も近いところから口コミを見ていくことにする。

「細い道いける?」

「細すぎるのは嫌だけど運転はできる」

 その答え方だと結局いいのかわからないが都合よく解釈することにする。

 口コミ数と内容を吟味して決めた滝を彼に伝えると、案内してと言われた。車のナビは今も案内したままだ。何メートル先左折だとか、それを伝える機械的な女性の声が宙を舞う。わたしが操作できればナビを終わらすこともできるが、如何せん車は運転しない。

 わたしたちの地元を出発してから数十分。会話に緊張感がふっと消えていく。彼とはいつもそうだ。言葉を発するのが難しいとか、妙にこそばゆいとか、最初だけに過ぎない。最初の一歩を超えるとその後はやはり、なんてことない道のりなのだ。

 最後に連絡をした日から、いや最後に別れ話をしたあの日から今日までの時間が、あったのかと錯覚するほどに繋がっていく。復縁の原因はこの距離感だ。

「一眼って持ってきたの?」

「持ってるの知ってんの」

「前部屋行った時棚にあった」

「あー」

 過去を脳裏に映し出す。一人で北海道旅行に行ったらしい彼が撮った、神威岬の写真。青空に真っ白の雲が少し浮いている。太陽の光が海に反射して煌めいている。日本海へと、細く真っ直ぐに伸びる崖(実際は細くもないのだろうけれど)。真夏の緑がはっきりと主張している。そんな写真を見せられたあの日だ。一眼を購入するほどに写真が趣味なことをその時初めて知った。

 あの時、わたしは大学二年の春だった。あの日のことを彼はきっと、ほとんど覚えていないのだろう。それは悲しいだろうか。さほどショックを受けていなさそうだ。

「一応観光地だし持ってきたよ」

「綺麗に撮れるといいね、滝」

 彼は一体どんなものをどんなふうに切り取ってどんな感覚でシャッターを切るのだろう。その一眼で、彼女の写真は撮ってきたのだろうか。きっと撮っている。わたしたちには写真がない。

 突如高速道路に右ルートと左ルートが現れた。行き先も距離もほぼ同じだがこの対策で渋滞を阻止できるらしい。しかし今着眼すべきなのは彼が迷わず左ルートを選択し走行していることだ。

「なんで左にしたの?」

 しっている。合流は右ルートが左ルートに入ってくるのだということ。合流を避けて楽に走行するならば左ルートだ。

「合流やだから」

 そう返ってくることは想定内でも別の理由を、むしろなんとなくという返答を求めていた。

「まあそうだよね」

 苦笑いをしながらそう返事をする。運転と人生をイコールで結びつけること自体不可解だ。しかし彼にとってわたしは、左ルートを選ぶことと同等にしか思えなかった。

「ねぇ、彼女とはなんで別れたの?」

 一キロ先合流という看板が見えた頃、意思を持った言葉がわたしの口から発された。

 彼は動じることなく「えーわかんない」と言った。

「振られたの?」

「うん」

 高校の時に付き合っていた彼女は彼の方から別れを告げたのを知っている。わたしたちの場合もどちらかというと彼からの別れだった。

「残念だね」

「そうだね」

 ただの社交辞令で、同情などしてやろうと思ってもいないのに、彼は残念という言葉に共鳴してきた。

「好きだったの?」

 小馬鹿にするようにしてそう聞くが、彼は「まあそうだね」と照れもせず言った。

 大学三年冬。別れてから約一年が経った頃、就活のストレスも相まって彼への未練が再熱していた。突然連絡をするというわたしの行動は、今になっては吉と出たように思うが当時は恥だった。しばらくやり取りをした後に、彼女がいると言われた。ただその時、期待もした。そしてそれが期待通りにやってきた。タイミングは最悪だった。これがわたしと彼の腐れ縁だ。

 知らぬ間に右ルートは左ルートに合流をしていた。スマホのマップを再度確認する。まだ道なりのようだ。

「彼女要らないって言ってたのにね」

「なんか欲しくなった」

 人の心とは簡単に移り変わる。

「どうして付き合おうと思ったの?」

 彼は少し考えてから答えた。

「遊んだ後にまた遊びたいと思ったからかな」

 その言葉に既視感を覚えた。

 それは友達がアドバイスしてくれたものだった。一緒に遊んでいて楽しいと、また遊びたいと思わせろと言われた。彼とのデートのためではない。好きな人だ。彼ではない別の好きな人とのデートのためだ。

「やっぱそういうの大事なんだね」

 ずっと心の奥にいた別の男性がふっと浮上してきた途端、余裕が生まれ始めた。わたしには好きな人がいるのだという自信だ。

「そーじゃない?」

 これは決して欲を満たしたいのではなく、幼馴染との仲良し旅行なのだと言い聞かせられる。それほどのしっかりした想いが別の人にある。

 SNSの繋がりで、コウに彼女がいることは知っていた。しかしSNSの写真がなくなった頃、彼から直接別れたという報告がきた。過去、それからなんやかんやで付き合った。その経緯があるからこそ、今回も復縁の可能性を見出してしまいそうになる。けれどもうそれでは駄目だ。

「次で降りて」

 この想いはコウには伝えていない。

 案内を頼りに国道を左折し、木々に囲まれている細い道を通った。進んでいくと少し開けた駐車場がでてきて、わたしたちはそこに車をとめた。

 密室だった車のドアを開け外の世界の空気を吸う。立ち上がると、ワンピースがストンと流れ落ち綺麗なラインを作った。それは彼もそうで、スタイルの良さに目を奪われる。

 五分袖の黒シャツを着こなしてくるのはわたしのハートを射抜くには十分だった。鎖骨と、それからシルバーネックレスが覗いている。一眼を首からぶら下げた姿も格好のいいものだった。

「かっこいいね」

 本心だが、好きな人にはすんなり言えるものではない。ならばコウへの想いは一体なんなのだろう。

 三分ほど森の中を歩くと、水が連続的に流れ落ちる音が聞こえてきた。

「涼しいね」

 わたしの声が緑に吸い込まれていく。こうして隣を歩くと彼の存在を強く感じる。

 駐車場からの距離はすぐだった。急に開けたと思えば滝が二つ、流れていた。

 人も意外といる。駅からも歩けるようだったからそういう人もいるのだろう。家族で来る人もいれば男女ペアもいた。恋人同士だろうか。わたしたちもそう見られているのか。

「小さいけど滝っていいね」

 そう言いながら、彼はカメラを覗き始めた。彼からこの滝は、この瞬間は、どのように映っているのだろう。そんなこと、どうでもいいのだ。

 水の音がする。十メートルほどの落差のある二本の滝。大きな音を立てて打ちつける水たち。落ちていった水がもっと下流へと流れていく音。いつしかみた日光華厳の滝とは比べ物にならない小規模な滝だが、静けさの中で兄弟のように流れていく滝たちをそっと眺めるのも神秘的だ。だからこそ、わたしの曖昧さに腹が立った。

 隣からシャッター音が響く。満足するまで撮らせればいい。わたしはコウを置いていろんな角度から滝を眺めた。

 滝の音が、わたしの中で反響する。あぁ、これを好きな人と見ることができたら、きっと。きっと、なんだろう。続きの感情に靄がかかる。

「どっか行ったかと思った」

 コウが近寄ってきていた。

「どこにもいかないよ」

 わたしは笑う。咄嗟とはいえ、そんな言葉が出てきたことに嫌悪する。

「そういえば、昼食べてないな。もう十二時だ」

 彼はスマホを取り出して時間を確認する。

「腕時計してないんだね」

「あぁ、忘れた」

 大学で付き合った頃、それはちょうど彼の誕生日に被っていてわたしは腕時計をプレゼントした。腕時計が好きだと言っていたからだ。もう好きでもないのかもしれない。

「そろそろ行くか」

「うん」

 滝の音が、遠ざかっていく。涼しさは暑さに変わっていく。駐車場の車の数は減っていないが、車は入れ替わっていた。

 車に乗り込むとエンジンの次にクーラーをかけてもらった。エンジンが温まっていないからまだ涼しい風は出てこない。しかし音楽は再生し、幾らか息がしやすくなった。

「どこ行くか」

「どこでもいいけど」

 わたしのいうどこでもいいは、どこでも楽しいよと同等なはずだった。

「ま、ここまで来たなら定番の湖だろ」

「コンビニでおにぎりとか買ってそこで食べようよ」

「うん」

 細長い骨ばった指でパネルを操作し目的地を設定するとサイドブレーキを外して出発した。

 自分への苛立ちと嫌悪は健在している。

 未練の残る自分にようやく別の、好きな人という存在ができた。大学サークルの同級生だ。話をするようになって、その人のミステリアスな雰囲気に次第に惹かれていった。同時にコウの存在は薄くなり、もう大丈夫だと胸を張れていた。それなのにタイミングは悪く、コウから連絡がきた。友人と出掛けるため朝七時に起きたあの日。顔を洗った後くらいだったか、スマホの通知音がした。別れたという一言だけが、画面に表示されていた。一瞬で気持ちが揺らぐことに、そしてどこか浮かれてしまう自分に嫌悪して、今日までずっとそれは健在だ。

 その日、友人から〝好きな人いないの?〟ときかれ大学の人を挙げたが、胸を張って好きと言えなかった。そんな日々を送ってきた。

「コンビニついてるけど?」

 コウの声で我に返る。気づけばエンジンも切られ、彼は既に下りて助手席のドアを開けて待っていた。

「ごめん!」

 外に出ると滝のところとはだいぶ暑かった。だが避暑地なだけあって多少なりとも過ごしやすそうだ。

 コンビニではおにぎりと唐揚げを買ってもらった。

 すぐに出発して目的地の湖についた。

 来たことは何度かあるが、今日は晴れていて見たい景色が美しく浮かび上がっていた。

「すっごい綺麗! すごい!!」

 久しぶりに声を発したという感覚だった。普段気分が高揚しがちなわたしがずっと静かめだったのがおかしいくらいだった。

 コウもカメラを覗き始め、眼前に広がる景色をカメラに収めていた。刹那、興奮が止むようにして座れる岩に腰を下ろすとおにぎりを食べ始めた。

 楽しいという感情を今日ずっと忘れていたように思う。好きな人とは、同じ瞬間をともに楽しめることだと思うし、そうでありたい。

 ひと段落したようで、コウも近くの岩に座り同じくおにぎりを頬張りだした。

 湖の水面はそよ風によって、緩やかに波紋を広げている。周囲で同じ様に湖に感動する人々の声も、湖に溶けていく。こんなにも気持ちの良い空間を彼と過ごしていいのだろうかと、考えてしまうほどには、良く思っていない。

 ふと、わたしもスマホを取り出して眼前の光景をカメラに収めた。美しいものを見た時、共有したいと思った人が好きな人だと、誰かが言っていた。

 昼ご飯を食したあと、とぼとぼと湖の周りを二人で歩いた。ぽつりぽつりと言葉が飛び交う。

 一緒にいて楽なのはコウだった。長年の付き合いがそうさせているのだろうが、それにしても気楽で程よく胸が高まる。けれど不純だと思う。

「まだ一時か」

 彼がいうのでわたしもスマホを取り出して時間を確認する。

「早く出過ぎたね。行くとこない?」

「観光するところはあるけどね。道の駅とか?」

「あぁいいかもね」

 わたしはまた車にのってまた同じ思いを繰り返す。

 道の駅でお土産を見ている時、好きな彼を思い出した。友達と行ってきたんだと胸を張れない関係ということを改めて思い知らされる。そもそも友達にも今日のことを話してはいない。

 隣を歩けば手は繋がなくても腕に手を添えてしまうし、道を間違えたら手首を掴まれる。触れた肌に熱が生まれる。

 ちょうどいい時間になった頃、何度目かの乗車をして最終目的の宿へ向かった。少しずつ現実味が増していく。心臓がドクンドクンと鼓動を早めてきているのがわかる。

 チェックインが完了するまでの時間。宿の説明を聞いている間、ほとんど内容は入ってこない。コウはきちんと聞いているようだった。肩が触れ合うほどの近さにコウを感じる。顔が赤く染めあがる。

 しかしそれとは裏腹に、気持ち悪さが身体中を巡っている。

 部屋番号が刻印された重たいガラスについた鍵で部屋に入る。ふっと畳の香りが鼻腔をくすぐる。小さな部屋だが、窓際には一人がけのソファが二つ、小さな正方形の机を包むように置かれていた。窓際といっても、畳の段より掘り下がっていて床はマットだった。車の密室とはけた違いの設備の整った密室だった。

 鞄を部屋の隅に置きエアコンをつけると、コウがわたしの手首を掴んで布団に座らせた。さっきまで折り畳まれていたはずの布団がいつの間にか敷かれていることにぞくっとした。

「なに?」

 コウは誤魔化すようにして少し笑った。

「ひとまず手洗わせてよ」

「確かに」

 先にわたしが立ち上がり洗面台に立った。コウと恋愛をすることに飽き飽きしているというのに、髪の毛や化粧を気にしてしまうのに嫌気が差す。

 彼が時間差で入ってきた。颯爽と洗面所を出ると、窓際まで歩いてそこから見える景色を眺めるため、カーテンをめくった。

 途端、彼が戻ってきたようで、腹に左腕を回され、残った右手でカーテンを閉められた。入ってきた時よりも部屋に差し込む日光が遮られた。

 付き合っていた中学も、高校も、大学も、わたしたちにデートの時間はあまりなかった。コウがデートをしたがらなかったからだ。家に呼ばれることは度々あった。その理由は言わずもがな。ただ、中高は年齢のこともあり拒否をし続けることができた。成人をした今それは難しくなっていった。大学二年、わたしは既に成人をしていて迫られることは多かった。不覚にも今も、押し倒される形になって胸を高まらせている。

「ちょっと、待ってよ」

「なんで?」

 付き合ってないのに。そんな言葉を出そうとしたが、のこのこ旅行についてきたのは自分の責任の他なかった。元からコウがわたしの体を求めていることは知っていた。わたしは、その感情を利用した。

「怖いんだよ」

 その言葉に潜む理由はただひとつだった。しかしそれを赤裸々に話したところで無意味だろうし、もう二度と手を出されなくなる。理解されにくいその感情がコウの前だと少しだけ、変化する。コウからの興味を失せられることに多少なりとも残念がる自分がいるように思えるのだ。

「されるがままになってみな」

 わたしの言葉は軽くあしらわれる。

 コウの顔が近づいてくる。初めての時はそれが恥ずかしくて退けていたが、今はそれをする段階ではなかった。

 まるでコウだけが、性欲に侵されて馬乗り状態になっているみたいだな、と思った。

 本当はきっと、それはわたしだった。

 誠実でいたい。そう思った。親が放任主義とはいえ、大切にされていないわけがなく、道を外すことは許さない親に顔向けできないことをするのは気が引けた。これまで優秀で通ってきた自分が、突然不誠実な罪を犯すことがいたたまれない。付き合っていればいいと思った。コウとは付き合っている感覚が薄かった。

 けれどその反動か、コウの肌に触れられたいと思う気持ちが強くなった。

 好きな人がいるはずなのに、コウへの欲が溢れて止まらない。誠実でいることなどできないと悟った。わたしはコウの肌に熱く包まれることになった。全て思惑通りだった。


 セックスってこんなものかと思ったのが最初の感想だった。ふらつく足を持ち上げてシャワーを浴びながら、ふっと浮かんだ感想だ。嫌悪が渦をまいて内側を侵していく。続いて彼もシャワーをしに浴室に入った。裸を見せるも見るも、こんなものなのか。

 浴衣に着替え、乱れた布団を横目で捉える。自分の鞄に手を忍ばせスマホを手にする。十五時四十分だった。そんなものだ。

 彼がシャワーから上がるよりも先に、わたしは荷物を持って温泉に向かった。連絡は残したとはいえ薄情な行動だとはわたしも思う。

 部屋に戻ったのはそれから一時間後のことだった。相性が悪かったと、捨てられてしまえれば追うこともないのにと期待する中で、さらなる期待で胸が熱くなっている。

「やっと帰ってきた」

 彼はいつもと何ら変わらなかった。

「お腹空いたかも」

 わたしもなんでもないようにして、言う。

 その後、夕飯になって共に部屋を出たが記憶は朧気だった。カチャカチャと皿やスプーンなどが擦りあう音や、色々な食材の合わさった匂いはしたし、味もした。けれどそのどこにもコウの姿はなく、記憶は歪んでいた。

 気づけば一人がけソファに座っていた。目の前のソファにはコウが。いたのか、と思った。

 机の上と、わたしの右手にはチューハイがあった。どうやら自販機で酒を購入し、間接照明だけをつけカーテンを開けた状態のほどよい暗がりの中で酒を嗜んでいる最中らしかった。

 右手にはしっかり重さがあり、まだ一口分の減り具合だ。空の缶はなさそうだし、この時間は始まったばかりらしい。

「ねぇ」

 コウが優しい言葉を発す。

「ナツは俺のこと好きなの?」

 何を言いだすかと思えばわたしへの質問だった。それを聞く前にいうことがあるだろうということは言わなかった。

 好きな人がいるというのに体を重ねた事実はわたしをより一層苦しませている。不誠実さが露骨だ。コウと付き合ったところで幸せにはなれなくても、好きな彼と付き合えば誠実さは保たれる。天秤が揺れている。わたしはコウが好きではない。好きな人がいる。

「俺は好きなんだけど」

 また、言葉と瞳の熱さで胸を高まらせる。知ってしまった肌の熱さや体の重さが思い返される。

「このお酒美味しい」

 わたしはそんなことを返していた。本当は背伸びしているだけで、アルコールを美味しいと感じたことはなかった。

 けれどそれでよかった。この瞬間を望んだのは紛れもなくわたしだ。

 気持ちがいい。セックスよりずっと。快感だ。

「好きって結局錯覚だし、洗脳だよ」

 わたしがそう言った瞬間、ようやく、わたしの中で長年の腐れ縁が切れた音がした。コウはゆっくりと、じっとりと重たい、息を吐いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

欲望 とがわ @togawa_sora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ