3  国宝及び重要文化財『東寺・立体曼荼羅の仏像群』~二十一尊の仏教宇宙の中、その一体だけが生きていた~


 ――帝釈天たいしゃくてんは永遠に静止した時の中にいた。

   持国天じこくてんは動いているようで、止まっていた。

   増長天ぞうちょうてんは止まっているようで、動いていた。――



 東寺とうじである。

 平たく言えば「京都の空海んち」である。


 正直、ここで空海&最澄の漫画をレビューしたこともあり、空海くーちゃんと私は気安い仲だと思っていたが。

 実際あいつんち行ってみたら、ド豪邸でビビった。


 なんなんだよこの住宅街に突如現れる延々と続く外壁……! 

 お前んち端から端まで歩くの何分かかんだよ……! 

 お前のとーちゃん社長かよ……!(違います) 


 とはいえ、そんなことはささいなことであって空海くーちゃんと私の(一方的な)友情に変わりはない。

 そういうわけで弘法大師空海様とは今後ともよろしくさせていただければ恐悦至極でございまして大変ありがたいです(早速変わってる)。



 それはさておき、立体曼荼羅まんだらである。

 曼荼羅まんだらとはご存知のとおり、仏のいっぱい描かれたアレである。

 より詳しく言えば、仏教の一派である密教の世界観を示したものとされている。言葉としては「真髄しんずいを円満するもの」「輪円具足りんえんぐそく――円輪のように全てが備わっているもの」だという。


 つまり「この世とは何なのですか、悟りとは何なのですか」というクエスチョンに対する「これやで」というアンサーと言ってもいいだろう。


真髄だいじなもんが全部円満しみちみちとるやろがい」

「大日如来の仏さんから菩薩、明王、地獄の閻魔えんまに人喰いの荼吉尼天だきにてんまで、一切合切がバチクソ輪円具足しひとつにつながっとるやろがい」

「言うたらお前、お前もわしもこん中におんねんぞ」


 なのだが、だいたいの人は「はあ……そう、ですか?」となる。


 空海はキレた。(たぶん)


「はああぁあ!? お前コラわしが命がけで唐から持ち帰った曼荼羅が分からんっちゅうんかコラ! ほなもっと分かりやすうしたるわ、3Dすりーでぃー化計画、フィギュア化計画じゃあ!」


 ――そういう経緯を経て出来た(と私が勝手に思ってる)立体曼荼羅、正式には羯磨曼荼羅かつままんだらという。

 胎蔵界たいぞうかい曼荼羅三百九十尊、金剛界こんごうかい曼荼羅千四百五十八尊――様々な曼荼羅があるがその根本、単に「曼荼羅」といえばこの一対のものを指す――より、選びに選ばれた二十一尊。

 それを胎蔵界金剛界どちらでもなく、独自の形に配置した、いわば「空海の密教思想を立体化、可視化したもの」それがこの立体曼荼羅。



 私はそれを見た。

 それは美しく荘厳であった。

 そう、美しかったのである。そしてちょっと、美し過ぎた。


 空海くーちゃん、この計画失敗なんじゃねぇの? と、ぶっちゃけ思う。

 なにせ、ほとんどの仏像が国宝なのである。後世に戦火で失われ、造り直されたものもあるが、それだって重要文化財なのである。

 残念ながら密教宇宙を感じる前に、一体一体の仏像に目を奪われてしまうのである。



 計画の成否はおくとして、仏像の話をしよう。

 二十一尊の仏像のうち、私の目から見て三尊、飛び抜けて美しいものがあった。

 いや、美醜の問題ではない。それはもはや、まとっている空気が違い、そして見る者にそう感じさせるほどに、く造られているのである。


 帝釈天たいしゃくてんは永遠に静止した時の中にいた。

 持国天じこくてんは動いているようで、止まっていた。

 増長天ぞうちょうてんは止まっているようで、動いていた。



 帝釈天たいしゃくてんは古代インドの伝説における雷神にして武神なのだが、この像はそれを全く思わせぬ穏やかな面持おももちである。


 いや、穏やか、とも違う。

 法具たる短双剣――独鈷杵どっこしょ――を手に、ふと思索しさくに入り視線を下に向けた、その一瞬。

 その一瞬を切り取ったかのような。あお白い月の光の下、永遠の思索の中にいるかのような、静謐せいひつな姿。



 持国天じこくてんは四方を守護する四天王の一尊、東方の守護者。

 いかにも武神といった風に鎧をまとい、右足は足元の邪鬼を踏みつけて高く上げられている。腰の前に構えた左手には日本刀を思わせる小太刀、振り上げた右手には短い三又の槍――三叉戟さんさげき――。


 『破邪顕正はじゃけんしょう――邪悪を打ち破り正義を表す――』の言葉を形にしたかのような、いかめしくも力強い姿。

 「かつ!」と口を開け、叫んだような形相、上げた右脚と右手で掲げた戟。力と躍動感、まさに動きに溢れた、武神像の一つの完成形とさえいえる姿。



 では同じく武神にして四天王、南方の守護者増長天ぞうちょうてんはどうか。

 同じく鎧をまとい、これも同じく左手の小太刀を腰に添えている。右手は長い三叉戟さんさげきの、石突いしづき――柄側の先端――を地に着けている。右脚は、高く持ち上げた持国天とは対照的に、真っ直ぐ伸ばされ地に(正確には足元の邪鬼の上に)着いている。


 止まっている。止まっているのである、増長天は。

 ならば、躍動感に溢れた持国天像より劣った、つまらぬ像かといえば――そうではない。



 持国天は『動いているようで、止まっている』。正確に言えば『動いた後』だ。

 増長天は『止まっているようで、動いている』。正確に言えば『これから動く』。まさにこの一瞬後に。



 持国天は確かに躍動感に溢れている。が、それはたとえるなら歌舞伎役者が『見得みえを切った』姿。

 「喝!」と言い、「打つぞ!」と叫んだ、その姿は。膝にも肘にも遊びがなく、つまり溜めがない。

 『そのポーズ』で完結してしまった姿であり、次の動作につながる姿勢ではないのである。



 では増長天はどうか? 

 一見して、それはただ突っ立っている。右手の戟は長い柄を地に着けており、右脚もまた伸ばされている。

 だが、前に半歩出された左脚。この緩く出された膝に、わずかな遊びがある。突っ立った右脚にかけている体重、これを左脚に移し駆け出すための余裕がある。『次の動作につながる溜め』があるのだ――東寺の写真は何度も見たが、現地で見て初めて気づいた――。


 逆に、写真を見て気づいたことだが。その顔は持国天同様いかめしいが、口元が違う。

 完全に開いた、『叫んだ後』の持国天に対し。増長天はわずかに歯を見せて口を開きかけた『今まさに叫ぼうとしている』かのような形。


 つまり、この増長天は。

 前に出した脚に重心を移動させ駆け出す、その直前。

「行くぞ!」と叫んで駆け出す、その『』が発音されるかどうかの瞬間。


 駆け出す直前、叫ぶ直前、動作に移るその直前の『動きを秘めた一瞬』その中に増長天はいる。

 静止した仏像の群れの中、彼だけが『今から動く』。その姿でいる。



 永遠の静寂の中にいる帝釈天、隅々にまで力のみなぎった持国天。それらはそれぞれ、神仏像として完成された傑作中の傑作であるが。


 造作としてはわずかに劣るかと見えた、増長天だけがその先にいた。

 二十一尊の仏教宇宙の中で、増長天だけが『生きている』。



 ……というか、これは純粋に自身の体験だが。

 立体曼荼羅のある講堂、二つある入口のうち、増長天側から入ったとき。

 堂内の薄暗がりに目が慣れぬそのとき、一瞬にも満たぬわずかな時間こう思った。

 ――なんか、端っこに警備員さんが突っ立ってるな――。

 それが、増長天像だった。

 ひとり増長天だけが、二十一尊の密教宇宙を護っていた。




 ――さて、空海と密教に話を戻そう。

 密教では『体験』を何より重んじる。それは経典を読み学ぶといった、知的理解ではない。儀式などを含めた体験から悟りを得て、いつか来世でではなく「今この時この身で悟り、仏となる」=『即身成仏そくしんじょうぶつ』こそがその眼目とされる(死んでミイラ化する「即身仏そくしんぶつ」はまた別物)。


 呪術儀式に偏重し、釈迦自身の提唱した原始仏教から離れているように見えるそれはしかし、『経典による独習ではなく、悟った者から直接学ぶこと』を大原則とした原始仏教にむしろ回帰する試みとも取れる。


 で、立体曼荼羅である。

 これはまさにその『体験』、曼荼羅を観るのではなく「曼荼羅の中に飛び込ませる」ための、いわば「悟れるアトラクション」であろう。


 だがまあ、先述したようにどれも美し過ぎるし、広くてどこから見たものか分からない。


「そこやで」

 だから、これは。もしかしたら、空海が引いておいてくれたスタートラインなのかもしれない。

「そこやそこ。隅っこにほれ、増長天警備のおっちゃんおるやろ? その横から見たらええねん」


 ――四天王は単に四方の守護者というわけではない。

 大乗仏教の伝承上、世界の中心には須弥山しゅみせんという巨大な山があり。その四方の海に大陸が一つずつ浮かんでいる。そしてそのうちの一つ、南方の大陸こそが人間世界だという。

 四天王はその四つの大陸をそれぞれ守護する存在。そして人間世界である南方の大陸、そこを守護するのが増長天。


 つまり、最も人間を守護してくれる神仏の、最も人間らしい像。人間たる我々はその横からこの曼荼羅を、宇宙を眺めればよいのではないか。



 個人的には、堂内をずいぶんうろうろしてみたが。増長天の横から全体を観るのが、眺めとして一番しっくり来た。


 そこからの景色は、決して外から見た眺めではなく。

 美しく荘厳なこの宇宙の中に、その片隅に、自分もいる。そう実感させてくれた。

 仏像群に交じって自分も一緒に、増長天と共にこの宇宙を見守っているような。そんな気がした。




 まあ、空海が実際に仏像の出来具合まで計算していたかはともかく。空海ならそういう変な仕込みをやりかねんな……という気もするのである(講堂自体は戦火で一度焼失したり、仏像の配置も当初と変更があるという説もある。ただ、四天王の配置はその担当する方角から定められており、まず変わることはないだろう)。


 まあとにかく。空海くーちゃんの計画はまずまず成功したと言ってもいいと思う。



 ところで、四天王のうちの広目天こうもくてんである。

 私は堂内をずいぶんうろついたと書いたが、そのときに見た。

 ……仏像群のうち広目天あいつだけ、なんか後ろの支柱に寄りかかってサボってたのである。

 

 空海から一言言った方がいいんじゃねえの? とも思うが。

 私が書いている仏教四天王モチーフの小説でも、広目天担当の子は割とそういう奴なので。

 広目天ならいいか……とも思うのである。


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