雪原のむすめ

うめ屋

*


「わたくしの胎を亡きものにしていただきたいの」


 束髪くずしに海老茶袴の女学生は、雪ひらを冷ややかに見据えてこう告げた。

 十五、六歳ほどの小娘がなにを言うかと笑いたくなる。

 しかし娘は、平らな雪原のようにしんしんと降り積む瞳を動かさなかった。


*


 雪ひらは、港街の季節医である。

 季節医とはその名のとおり、季節に関わる人間の不調を治療する。

 たとえば春風が吹くころのそぞろな気分や夏の気だるさ、秋の空咳、冬の憂鬱。明確な病にまでは至らぬ患いを掴みとり、心身をあるべき流れへと導くのが季節医である。

 夏と冬は時節柄、患者が多く、そのぶんこれらの季節を担う医者も多い。

 となれば医者の質もピンからキリまでさまざまで、中には免許をもたぬ闇医者も紛れ込んでいる。雪ひらもそうした手合いのひとりである。だから雪ひらのところには、同じように曰くつきの患者しかやってこない。

 海老茶袴のご令嬢も、やはりそうした訳ありの娘だった。

 葉を落とした樹々が銀泥のような皮をまとって眠りに沈む冬である。厳しい北風を吹き下ろす晴山はれやまの中腹に、さびれた一堂の教会がある。

 かつて異人の宣教師が建てたというこの教会は、街の発展とともに廃れて無人の茅屋となった。

 雪ひらはここに間借りしている。瓦斯ガスは壊れているが水道は通っており、あとは麺麭パン小刀ナイフ燐寸マッチがあればそこそこ暮らせた。

 夜は毛布にくるまり、礼拝堂の長椅子で眠る。

 祭壇にあったはずの神の子の像は持ち去られ、濁った色硝子の窓からよわよわと月光が降りそそいだ。深海のように青ざめた光はやがて薄れ、白く乾いた黎明を連れてくる。

 その眠りの狭間をただよっている最中に、礼拝堂の扉が軋んで開いた。

 外界の凍てた空気が、床を伝ってゆるりと忍び込んでくる。かつん、かつん、と高い靴音が堂内に反響した。


「もし」


 しんとした女の声だった。

 雪ひらは唸り、毛布を頭上まで引き上げる。この時点ではまだ夢の内側にいるのだと思っていた。されども女は、揺さぶるようにふたたび声をかけてくる。


「もし、貴方。冬医者の雪ひら殿」


 名を呼ばれ、ふっと目の前が像を結んだ。

 目を細めながら毛布から顔を出すと、白く染まった堂内の光を浴びて若い娘がたたずんでいる。ひさしになった前髪を後ろに撫でつけ結っている、その肩から結い残した黒髪がこぼれ落ちた。

 顔は白く、女雛のように整っている。娘は口元の小さなほくろを摘まむようにして喋った。


「わたくし、貴方に診ていただきたくて参りましたの。さっそく診察してくださらない?」

「……おれがヤブ医者と知っていてもか、」


 雪ひらは寝ぐせまみれの蓬髪を掻きながら起き上がった。睨むように娘を見上げるが、相手は小首をかしげて目をしばたたかせるだけだった。


「ヤブではなくて、医者でございましょう?」

「わかってて来たのか、あんた」

「ええ」


 娘は頷き、かき合わせた肩掛けの胸元に手を当て言った。


「わたくしの望みは雪ひら殿、貴方にしか叶えられない。ですからわたくし、貴方のことを調べて参ったんですのよ」

「おれは高いぜ」

「持ち合わせはございます」


 娘は手に提げた巾着袋をひらめかせる。雪ひらは唇を曲げ、しばし呻いたのちに腰を上げた。


診察室へやはこっちだ。ついてこい」


 ふり向きもせず歩み出した雪ひらの後ろから、かつんかつんと深靴ブーツの足音がついてくる。教会裏の居住区へ向かいながら、雪ひらは妙な娘が来たもんだとあくびを噛んだ。


*


 娘は肩掛けを膝にたたみ、小さな円卓の向かいに腰を下ろした。

 雪ひらは問診票と洋筆ペンを出し、記入するよう求めた。娘はさらさらと手慣れた様子で文字を埋めてゆく。その間に雪ひらは娘の見目を観察した。

 矢絣の着物に海老茶袴という装いは、確か街いっとうの女学校が採用している制服だったはずである。娘の物腰からしても、いずこかの令嬢であろうと考えられた。そんな娘が、供もつけずになんの病か。


「書けましたわ」


 娘が洋筆を置いた。雪ひらは差し出された紙を読み、片眉を上げる。

 さかはな、齢十五。

 居所は春街はるまち市山下町某番某号之一。


「……、」


 八坂木といえばこの街で五本の指に入る豪商、八坂木家のことに他ならない。どこぞのご令嬢だろうとは見立てていたが、まさかそこまでの娘とは思わなかった。

 雪ひらが一瞥すると、娘は澄ました顔で唇をつんとさせる。


「どうかいたしまして?」

「おれがあんたの親御殿に知らせるとは思わんのかね」

「思いませんわ。貴方は厄介ごとに巻き込まれるのがお嫌な性質たちだと存じていますもの」

「それも調べたうえで来たってことか」


 雪ひらは軽くため息をついた。面倒な娘である。その相手は、やはり泰然と澄まして雪ひらを見つめている。雪ひらはしかめ面をしながら問診の続きを読んだ。

 症状、既往歴は空白のまま、治療要望の欄にひとことだけ書き込みがある。


――わたくしの胎を亡くしてください。


 雪ひらは真顔になって娘を見すえた。


「冷やかしか」

「いいえ」


 娘も冷えた顔つきで見返してくる。

 年端もゆかぬ小娘であるのに、その姿には女主人のごとき落ち着きがあった。娘は雪ひらを見つめたまま告げる。


「わたくしの望みはそこに記したとおりです。――わたくしの胎を亡きものにしていただきたいの」


 雪ひらは鼻で笑った。


「正気の沙汰じゃァねえな」

「ですからここに参りましたのよ。雪ひら殿。貴方は冬医者を営むかたわら、ひそかに子流しや子売りをしていらっしゃる。そのわざならば、健全な女の胎を使い物にならなくさせることもおできでしょう?」

「子を流すのと、そもそも在る胎を潰えさせるのとはまったく違う」

「けれども、雪ひら殿はそれをなさったことがある」


 娘の口ぶりは確信に満ちていた。

 雪ひらのまなうらに、ほっそりと寝つく女の姿がよみがえった。

 結うことも忘れた黒髪をとこに流し、女は色のない唇で雪ひらに微笑みかける。その女の下腹は針と糸で綴じられ、内にある胎はうつろと化していた。

 雪ひらは、脳裏に浮かんだ光景を打ち消すように首をふった。


「いまは、もう、そういう業はしていない」


 娘がわずかに眉をひそめる。雪ひらはその唇が開く前に畳みかけた。


「だいたい、なんで胎を亡くしてえんだ。あんた八坂木商會のご令嬢だろう、富も衣食住も思いのまま、街いっとうの女学校でたっぷり教育も受けさしてもらいながら、どうしてそんな愚かなことを考える」

「恋をしたからですわ」


 その声は聖堂の鐘のように重く響いた。

 娘の瞳に青い火炎がともっている。身をよじるような激情を底に隠して、娘は説いた。


「わたくし、想う方ができましたの。ですけどその方とは身分が違うので結ばれることができません。ならばせめて、その方に操を立てたいと思ったのですわ。わたくしが石女うまずめになれば、他のどなたかに嫁がされることはなくなるでしょうから」

「それだけのために、将来子をなす可能性を潰すのか」

「わたくしにとっては、ではございませんのよ」


 娘はきんと冷えたまなざしで雪ひらを睥睨する。雪ひらのほうが身丈は高いにも関わらず、確かに見下ろされているという感覚があった。

 雪原のごとき冷厳さを身にまとい、娘はなおも言い募る。


「わたくしにとっては、遠い将来よりもいまここにある恋が大切なのです。ただひとつこの恋に命を懸けて、なにがいけませんの」

「――……、」


 雪ひらは瞑目した。

 これだから女という生き物はやりづらい。おのれがこうと決めてしまったら、なりふり構わず声高に主張を押し通そうとする。巻き込まれる周囲はいい迷惑である。

 だが、この病的興奮ヒステリーを収めるのは雪ひらの役目ではない。ゆえに雪ひらは席を立ち、壁際の薬箪笥を開けた。

 ほおづき色の実が詰まった瓶を、娘の前に置いてやる。そうしてもの問いたげな娘に告げた。


「石女になりたいんなら、毎日欠かさずこの実を飲め。瓶が空になるころには、あんたの胎はしぼんで使い物にならんだろうよ」


 娘はじっと瓶を見つめ、それから巾着の中にしまった。代わりに分厚い袱紗を出して雪ひらのほうにすべらせる。


「お代はこちらで。足りなければまた持って参りますわ」


 中を検めると、足りぬどころか多すぎるほどの札束が包まれていた。雪ひらはその幾ばくかを適当に掴み出し、娘に返す。


「これで十分だ。余計な銭は持たねえ主義なんでね」

「左様ですか」


 娘は袱紗をしまい直し、肩掛けを羽織って立ち上がった。


「では、失礼いたしますわ」


 雪ひらの返事も待たずに娘はさくさくと歩き始める。高い靴音が去ってゆくのに耳をすませ、雪ひらは襯衣シャツの隠しから煙草と燐寸マッチを取り出した。

 紫煙をくゆらせ、窓から見える冬枯れの樹々を眺める。あとはもう、あの娘がどうなろうと知らぬことだ。

 雪ひらは深くため息をつくように、吸い込んだ煙を吐き出した。


*


 それ以降、娘は雪ひらの元に現れなかった。八坂木の家がどうなったかも、雪ひらの耳には届いてこない。

 幾年か経てば、あの家のことが風の噂になるかもしれない。

 だが、それも預かり知らぬことだ。

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雪原のむすめ うめ屋 @takeharu811

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