小さな逃避行

碧海雨優(あおみふらう)

夜道の自転車

注・自転車の二人乗りは(条件に当てはまらない限り)違法です。決して真似しないでください。




 そうだ、旅に出よう。

 

 おもむろにそんなことを言った彼女に、動揺から自転車の操作を誤ってしまう。

 ぎゃ、と後ろに腰掛けた彼女が悲鳴をあげ、自転車も呼応するように甲高いブレーキ音を漏らす。

 そのまま草はらを滑り落ちる、といった有り体なことはなく、というより斜面もそうだが緑自体が珍しいほどの都会を走っていたのだから当たり前だろう。幸いなことにやわ芝生しばふの代わりに固いアスファルトに叩きつけられる前に、僕は咄嗟に身体を傾けて立て直した。


「全く。何してるのよ颯斗はやと

 最近めっきり母親のような言動をするようになったあずさに、僕はため息をつく。

 これで、そもそもそっちが急に変なことを言ってきたからじゃないか、とでも言おうものならあの手この手でやり返されるだろう。


「で、急にどうしたんだよ」

 ズバリ問いただすと、何がー? とかわすような言葉が耳元で聞こえる。暖かい息がかかり、くすぐったかった。


 寒空の下、しがみつく彼女の熱だけが僕の支えになっていた。


 それを失いたくないという怯えと、彼女の心が知りたいという欲望がせめぎ合う。


 しばらく黙ったまま、ペダルを回す音だけが夜の街に響く。都会とはいえズラリと住宅の並ぶここでは、ぼんやりと光る一筋のライトですら道を照らすのに貴重なものだった。


「私さ、やっぱ戻ろうかな」


「え……」

 漕ぐ力を抑える僕に、彼女の手が食い込む。

 それを感じて僕は全力でペダルを踏んだ。


「ごめん」

 その細い体から絞り出すように、彼女が言う。沢山の感情が込められているだろうそれに、何とかして答えたかった。同じだけ、重みが欲しかった。


「……いいよ」

 それくらいしか言えない僕に彼女は呆れただろうか、と思わず少しだけ振り返る。


「ちゃんと前見て」

 叱りつける声に、安心して視線を戻す。


 いつもの彼女だ。


 はーい、と間延びした声で応じると、クスクスと楽しそうに喉を鳴らす。

 声が大きくクラスでも常に存在感を放つ彼女だが、笑い声だけは控えめで、そこがどうしようもなく好きなのだった。


 今日、ようやく彼女が打ち明けてくれた秘密は、恐らくクラスメイトの誰も知らない。

 彼女が一緒にいる、いつも賑やかで派手な人達も、恐らく。

 顔を思い出そうとするが、その場面を思い浮かべると、輪の中で死角に入った彼女がたまに覗かせる迷子のような表情だけが鮮明に浮かび、他はぼんやりとしていた。

 そこでの彼女があまりに寂しそうで、目を一瞬瞑る。彼女の鼓動が背に伝わってきて目を開けると、少しだけ視界が晴れた気がした。


 そこから、これ見つかったらすぐ捕まっちゃうよねーとか、二人乗りってどうなんだっけ? それよりこの時間に出歩いてる事を怒られるか、とか、何故か楽しそうに、クスクスと静かに笑いながら走り続けた。


 この旅の終わりは恐らく、どう足掻あがいても理不尽なものとなるだろう。

 今までの僕らの人生とまるで同じだ。

 だけどきっと、それでも彼女にとっては今が大切で、僕は彼女が何よりも大切だった。

 

 僕が選んだ結末を、この自転車の行き先が彼女の望んだ場所で無い事を、僕が彼女の大切を全て壊そうとしている事を、全て知ったら、

 

 君はきっと泣くだろう。

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小さな逃避行 碧海雨優(あおみふらう) @flowweak

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