第5話

翌日…、日乃輪の姿は、松丸城、西の丸にあった。西の丸はその日の朝、とうとう耐えきれずに陥落した。

その一報を聞きながら、傷病人を診てまわり、片手間に昼餉を済ませた頃、彰久からの使者が来た。

どうやら西の丸は、冬月方の傷病兵の療養所、および、物部方の兵を捕虜として捕らえておく施設、として使われていたらしい。

多数の怪我人…、そして衰弱した捕虜が見つかっている、日乃輪に診察して欲しい、と言うのが使者の話した内容だった。

勧善寺の傷病人は、だいぶ容態も落ち着いている。日乃輪は勧善寺の事は僧侶達に任せて、前線におもむく事にした。

 現在戦は、本丸攻略の手順の確認と並行して、冬月宗勝に対する降伏勧告が行われているところだった。昨日のように石垣に取りついて、しゃにむに攻略しようというのではない。

だが…、日乃輪は西の丸の惨状に寒気を覚えた。傷病人が所狭しと並べられているが、環境は不衛生で、手当も全くずさんだった。

これが、あの精巧な紅鬼を作った、赤城玄理齋の仕事かとあきれる…。しかし傷病人を診ていくうちに分かった事は、皆、身分が低い、と言う事だった。

身分の高い者、金子のある者は、きちんと診察してもらえ、本丸で療養できる。そうでない者は、手当も適当に、西の丸にまとめておかれているらしい。日乃輪は怒りのあまり目眩がした。

彰久が連れてきた軍医と手分けして傷病人を診察する。湯を沸かしてもらい、傷を洗いなおし、薬を投与、塗布し、包帯を巻き直す。きりがない…。

傷病人達は、そうしてきちんと治療してもらえる事を、涙を流して感謝している…。赤城玄理齋という男を見つけたら、一発と言わず、二、三発殴ってやりたいところだ…。


日がやや西に傾きかけた頃、西の丸の占領を任されている武将から、奇妙な部屋があるので見て欲しい、と言われた。

その部屋は地下にあった…。岩室だ。扉はやけに頑丈で、鉄板が貼り付けてある。中は暗く…、とにかく死臭がすごい。多少なれている日乃輪でも、口と鼻に手ぬぐいを当てないと吐きそうだった。

手燭を持って、五、六人で中に入る…。死臭の原因は、戸口を入ってすぐの所に積み重ねられている、おびただしい死体にあると分かる…。その死体が、また尋常でない。

ある者は目をえぐられ、鼻をそがれ…、またある者は四肢を切断されている。腸を全て抜かれた死体もあれば、開頭されている者もある。

蝋燭の光が、壁に作り付けられた棚に並ぶ、ある物に反射した…。珍しい、硝子の瓶がびっしりと並べられている…。その中身が、酒漬けにされた眼球であり、鼻部であり、切断された四肢の組織であり、五臓六腑、脳髄であった…。

なんという光景、ここは地獄か…。日乃輪は嫌悪感に顔をゆがめた。棚の手前に、文机があるのが目に入る。机の上に帳面がのっている。

近付いてみると、表紙には「紅鬼改造之啓示 赤城玄理齋」と書かれていた。めくってみる…。中は詳細な腑分けの図解である。

脳髄にはじまり指の先まで…、筋肉、血管、骨がどのようになっているのか、五臓六腑にはどのような働きがあるのか、事細かに記されている。

その時、部屋の奥から、ヒューというような音がした。部屋の内部の異様さに、日乃輪も付き添ってきた武士達もおののいていたので、その小さな音にも皆びくりと過剰に反応した。

ヒュー…、ヒュー…、音は断続的に聞こえてくる。日乃輪は意を決してそちらに近付いてみた。なれてくると、このヒュー…、と言う音は、呼吸音であると分かる…。

部屋の奥に、人の腰の高さぐらいの作業台があって、男が一人、横たわって…、いや、くくりつけられている。男の腹は切り開かれ…、なんと、生きたまま腑分けされようとしているではないか。

本当に、本当に、玄理齋は、人を生きたまま腑分けしていたのか…。右腕が切り取られ、台の上で筋骨に分解されている…。あまりの事に日乃輪は言葉を失った。

背骨に氷柱をさし込まれたような気分だった。人を生きたまま腑分けするなど、外道の極みではないか…。

光を感じたためか、台に四肢をくくりつけられた男が、ヒュー…、と言う弱い呼吸音から、がはっ、がはっ、と咳き込んだ。

「あ…、ぎ、ひざ、ざまに…、おづだえ、しだい、ごど…、が、あ、る…。」

男はそう、途切れ途切れに言うと、大量の血を吐いた。そこで日乃輪ははっと我に返った。治療だ、治療しなければ。

「私の薬箱を持ってきてください!あとたらいに湯を…!戸板を持ってきて!ここは暗すぎる…。薬も足りない!応急処置だけします!勧善寺に、この人を運びます!」

男は、そのまま意識を失った…。


 初めて腑分けを見たのはいくつの時だったか…。長崎にいた頃である。外国人医師の指導の下、医学を学ぶ者が集められ、罪人の遺体を使って腑分けが行われた。人体腑分けの図はすでに目にしていた。

人の身体は、表面だけ眺めていたのでは分からない…。皮膚の下に筋骨があり、臓腑があり、それぞれに役割があって、その役割が損なわれる事、すなわち傷病である…。興味深かった…。

 だが今、生きたまま腑分けされようとした男を見て、ひどく心がすさむ…。あの岩室に積まれた死体は、全て生きたまま腑分けされ、その結果死に至った者達なのだろうか…。

身元は、全て物部の下級武士だと分かった…。狂っている、赤城玄理齋は、狂っている…。紅鬼が良く出来ているのも道理で、人体の仕組みというものを、すみからすみまで知り尽くして、その上で設計した物なのだ。

あんながらくたのために、人を生きたまま、生きたまま…、腑分けして、開頭して…。狂っている、狂っている…。

 男からはなんの臓物も抜かれていなかったので、開かれた腹を縫いなおして閉じたのだが、大量の血を失っている。顔色は紙のように白く、意識はもどったものの、体温が下がり、身体は小刻みに震えている。

急いで火鉢を出してもらい、この男のまわりだけ暖めている。何度も人の死に立ち会ってきた日乃輪だが…、この男は、助かるのか…。死んでしまうかも、知れない…。いや、助かって欲しい、助けたい、助ける…。

 荒々しい足音がして、彰久が勧善寺の本堂に入ってきた。日乃輪のすぐそばまで来ると、どかっと腰を下ろす。

「生きたまま腑分けされていた男とは、この者か?」

「そうです、少し薬を混ぜた葛湯を飲ませましたが、血を大量に失っていて、回復には…、」

「この者、この彰久に、伝えたい儀がある、と申したとか。」

「あ…、失念しておりました。確かに…、」

そうだ、確かに、途切れ途切れに、彰久に伝えたい事があると…。

「死に直面して言い残そうとする事だ。聞きたい。この者、明朝死してもかまわん、喋らせろ。」

「な…!何をおっしゃるのです!」

日乃輪は思わず立ち上がった。危うく太刀の柄に手をかけるところだった。彰久相手では間違いでは済まない、手討ちにされてしまう。

「座れ、見下ろされるのは気分が良くない。」

日乃輪は力なく座り直した。彰久は何と言った…。この男が、明日死んでもかまわないと…。

「この者、助かる見込みはあるのか?」

「そ、それは…、今、危険な状態です。ですから…、」

「顔面蒼白、死人の面相だ。このまま安静にしていて、ゆるゆると死なせるか、強壮剤でもなんでももちいて、言いたい事を言わせて死なせるか、どちらが…、」

「彰久様は神にでもなったおつもりか!そのような事は選べません!人の決める事ではないでしょう!強壮剤を使う?そんなものは医療とは呼べません!」

彰久が冷たい目で日乃輪を見ている。

「貴様は医者かも知れないが、わしは中つ国十二カ国の太守にして、この戦の総大将だ。戦を左右する、重大事項だったらなんとする。貴様の首ぐらいでは済まぬぞ。そもそも、貴様の首になど価値がない。貴様の首は、そうして胴とつながっているから、よく働くのだ。」

「彰久様に比べたら、私など路傍の石ころほどの価値もないでしょう。それでも言わせていただきます。この男の人の身体、こんなに震えている…。これは、身体が熱をおこそうとしているのです。この人は生きようとしている。それを…、」

その時…、男が床から起き上がろうとした…。半身を起こす事もかなわず、よろめいてうつぶせになる。そのまま、這って移動しようとする。彰久の方へ…。

「どうしました?」

日乃輪は出来るだけ優しく声をかけ、床にもどそうとするが、男は移動をやめない。震える左手を伸ばして、彰久の衣の裾をつかもうとする。

「ぁ…、ぎ、ぅ…。」

何か言おうとしている…。だが、男の喉の奥で、ゴボゴボ…、と嫌な音がして、男は再び血を吐いた。

「無理にしゃべらないで!これ以上血を失ったら、本当に死んでしまう!」

日乃輪は男にとりすがるが、男は緩く首をふり、彰久の方を見て、口を動かしている。だがもう声が出ない…。

「この者は喋りたいのだ。わしはこの者の主君で、この者はわしのために命を捧げると誓った。だがこの忠心…、惜しくなった。誰か紙と筆を!喋れないのなら、なんとか文字は書けないか?」

彰久は男の左手をとった。その手は力なく…、小刻みに震えているばかりである。

「筆談も無理でしょう…。よくご覧下さい、右の上腕が切断されてしまって…、ないのです。左手で文字を書こうにも、今はその力がな…、」

日乃輪は言いかけて、はっと気が付いた。がばっと立ち上がって、近くのふすまを外す。それを床に置いて、文字を書きはじめる。

「なるほど…、その手があったか。わしも気が急いてしまっていた…。」

彰久は日乃輪が書くのを眺めて、髭をしごく。日乃輪はふすまに、いろはの四十八文字を書いて男にさしだした。

「これで…、喋りたい文字を指し示してください。見えますか?」

誰言うともなく…、勧善寺で傷病人を診ている者達は、明かりを持って、男に近付いた。男を仰向けにして、再び床に寝かせ、ふすまの方を男の眼前にすえてみる。男が、左手を伸ばして、文字をさしはじめる。

「ふ…、ゆ、つ、き…、の、ふ、か…、つ…、ゆ、く、え…、し…、れ、す…、か、ん…、せ、ん…、し、に、こ…、れ、あ、り、と…、の…、う、わ…、さ…。」

声に出して言っていて、日乃輪は顔面から血の気が引くのを覚えた。よりにもよって、この話だったのか…。

信勝は…、信勝はどうしているだろう。熱があってだるいとか、傷がかゆいとか、たわいもない信勝の言葉がよみがえる。十日、十日待ってもらう約束だった…。

「さあ、もう一度、この葛湯を飲んで…。おっしゃりたい事は、『冬月信勝、行方知れず。勧善寺にこれあり、との噂。』でよろしいですね?」

日乃輪は努めて平静を装う…。男は小さく頷いて、目を閉じた…。息はしている。疲れと安堵から、虚脱したのだろう。

「冬月方の傷病兵を一カ所に集めろ!審問する!」

彰久が立ち上がって言った。

「も、申し訳ございません!」

本堂のすみで声があがった。信勝だ、信勝が布団を蹴って、彰久の前に駆けより、平伏した。

「私が、私が冬月信勝です!命惜しさに、ただの傷兵のふりをしておりました!その方の忠心に、心打たれました!私は卑怯者です!」

日乃輪は大慌てで、信勝の元に走りより、両手を広げて彰久の前に立ちはだかった。

「こ、この者は怪我で…、頭を打って、錯乱しているのです!自分が何を言っているか分かっていない!この者は、田中安兵衛という、ただの平民で…、」

「いいえ!それは嘘です!私が冬月信勝です!私がこの、左海日乃輪殿に、金子を渡して、黙っていてくれるよう、買収したのです!」

「いいえ!それこそ嘘です!私は買収などされていない!」

「日乃輪殿!もう黙っていてください!貴女は命の恩人だ!万が一があっては…。」

「黙りません!貴方の身分を知って、勧善寺にお連れしたのは私です!素性を隠すように言ったのも私です!怪我をした貴方が政争の具にならないようにと…。」

信勝は日乃輪を座らせようとする。日乃輪はその信勝を押しのけようとする。互いにかばい合い、やがてもつれあって転んでしまった。それでもまだ、こちらが嘘だのあちらが嘘だのと言い合っている。

 それを見ていた彰久が、大げさにため息をついた。

「二人とも、そこに座れ。」

言われてどちらからともなく、言い合いをやめて彰久の前に控える。

「日乃輪…、怒りを通りこして、呆れたわ。貴様は医者馬鹿だ、髪の一本一本、爪の先まで、医者の性が染みついていると見える。」

そうしていつかのように、日乃輪の額をペちん、と叩いた。だが日乃輪の心臓は、まだうるさいほどに騒いでいた。信勝は…、信勝はどうなってしまうのだろう。

「それで、その方が冬月信勝なのだな?」

「はい!もう自分自身の命は惜しいとは思いません!ただ父の…、父、宗勝の命を、お助けください!そうだ…、情報があります!紅鬼に関する事です!」

「聞こう。」

「赤城玄理齋の弟子、鳥居左右吉(とりいそうきち)と言う者を、捕らえてください!齢十二なる、その少年、特殊な訓練を受けており…、その者がいないと、紅鬼は動かせないのだ、と聞きました。」

「なるほど。」

彰久は髭をしごき…、しばし考えているようだったが、やがて口を開いた。

「本日、冬月方に降伏勧告を行ったが…、まだ紅鬼があるからだろう。受け付けなかった。明日、本丸攻略にとりかかる。その時、冬月信勝、その方、我が手の内にあり、と申して、さしつかえないな?」

「もちろんでございます。慈悲深い、日乃輪殿のおかげで救われたこの命…、今度は、物部彰久様のために使います!」

「うむ。日乃輪、明日、この信勝を連れて、前線に来い。宗勝が望んだ時、すぐ息子が見られるようにしておきたい。」

「かしこまりました。勝手なふるまい、誠に申し訳なく…、真に慈悲深きは、彰久様でございます。」

「そうでもない、さっきの男、よく診てやれ。忠義の臣、捨てるに惜しい。生かせよ。」

そう言って、彰久は踵を返し、勧善寺本堂から出て行った…。日乃輪の全身から力が抜ける…。信勝を見ると、彼もまた、緊張から解き放たれて、放心していた…。


 その日…、日乃輪は夜明かしをして…、生きたまま腑分けされそうになったその男を、ずっと看病していた。呼吸は落ち着いているが、脈が弱い。顔色も蒼いままだ。

明け方になって、寺の小坊主が、日乃輪も少し休んだ方がいい、と言う。今は男を、じっと見つめるより他に出来る事もないと思い、少し代わってもらった。

だが眠りに行く気になれず、馬を引き出して、信勝を見つけた、あの沢のあたりに行こうと思った。脱がせた鎧は木のうろに隠してある…。今日前線に出るなら、信勝に具足を着せておいた方がいいだろう。

顔の傷はまだ腫れている。さすがに肉親が見れば信勝と分かるかも知れないが、あの豪華な鎧を着せておいて損はない。誰か見つけて、質屋にでも持って行ってしまっていないか…、と思ったが、具足はそのままであった。

勧善寺にもどると、今日、日乃輪が留守の間は、物部の軍医が寺にいてくれると言う。感謝して、特に注意が必要な患者の容態を引き継ぎした。

信勝が具足を付けるのを手伝う。顔の包帯は外す事にした。まだ傷は痛々しいが、父君に会わせるのに、この方がいいだろう。

信勝に馬一頭が与えられ、日乃輪も自分の駄馬に乗って、戦人達の列に加わった。出陣の法螺貝が吹かれ、日乃輪達は彰久のすぐ後方にいるよう指示された。

彰久は相変わらずの軽武装で、小姓とみられる若い侍が、彰久の正式な具足を持って、後に従っている。

そんな様子を、日乃輪は少し不思議な気分で見ていた。ああ…、今日の戦がはじまるんだなあ…、と思う。こうして仙石原を横切る人の群れ、このうちの誰かは、生きて帰れないのだ、そう考えると、胸が痛む…。

西の丸まで登って、陣幕が張られると、日乃輪達はそこで待機しているように言われた。彰久は陣幕の内に入るどころか、下馬もせず、鞍上から次々と重臣達に指示を飛ばして、自分も最前線にむかっていった。

やがて法螺貝と陣太鼓の音が聞こえ、人々の声がわっと起こった。本丸攻略が始まったらしい。日乃輪は落ち着かず、ちょっと陣幕の外に出てみた。本丸の石垣にはしごがかけられ、兵達がよじ登っていく。大声で呼ばわるのが聞こえる。

「冬月宗勝が一子、信勝、物部方にあり!降伏するなら命は取らぬ!冬月宗勝、降伏せよ!」

「鳥居左右吉なる者さしだせ!さしだすならば命は取らぬ!冬月宗勝、降伏せよ!」

城内からの反撃もあるが、先日西の丸の攻城戦を見た時よりも、反応は大人しい気がする。もれ聞こえてくるところによると、松丸城内では、降伏派と徹底抗戦派とで、意見が真っ二つに割れているらしい。

 陣幕の中にもどると、信勝がそわそわしている。身分としては捕虜だ。日乃輪のように、外の様子が気になるからと言って、勝手に陣幕の外には出られない。

「お父様…、早く降伏してくださるといいですね。」

「ああ…。私が熱病にかかった時…、玄理齋は本当に良くしてくれた…。しかし…、そなたを見ていて思う事がある。やはり玄理齋は、尋常の医者ではないのかも知れん…。左右吉の、玄理齋を見る目…、恐れと嫌悪が入り交じっていて…、とても、医は仁術、と言う人物を見る目ではなかった…。」

赤城玄理齋は人を、身分で、金子で、差別する…。道薫和尚はどうだったかというと、それこそ、「医は仁術」という人で、どんな患者でも診た…。


あれはいつのことだったか…。一家六人重い感冒で伏せっていたのを診てやって、報酬が大根一本だった事があった。日乃輪が、これでは全く割に合わない、とこぼすと、和尚は笑って言った。

「大根一本もらえりゃまだいい方さ。ひいと出会う前だな…、怪我人を診てやって、ちょっとうとうとしたら、薬箱まるまる盗まれてた、なんて事もあった。」

「そんな…!」

「そう言う時はな、怪我診させてもらって、病気診させてもらって、ああ、勉強になった、と思う事にしてるよ。」

「和尚はどうしてそれほどまでに謙虚なのですか?私など、とうていその境地にはおよびません。」

日乃輪がそう言うと、和尚は急にまじめな顔になった。

「ひい…、お前はもう一人で怪我も縫える、病気の見立ても正しい。もう一人前だ、と思うから正直に話すよ。」

あらたまってなんだろう…、日乃輪は怪訝に思った。

「この和尚はな、坊さんになる前は、盗人だったんだよ…。孤児でな、物心ついた時にはもうスリ、置き引き、かっぱらい…、およそ、悪いと思われる事はなんでもやった。大きくなると殺して盗んだ。その方が騒がれず、楽だと思ったからだ。殺した人の数を数えた事はない…。」

和尚は、八つで人を殺した日乃輪を、何も言わず受け入れてくれた…。その和尚が、人殺しだったとは…。

「今となっては、自分が何故あんなに残酷だったのか分からないが…、言い訳させてもらうなら、誰も善悪を教えてくれなかった。そんな風でな、病にかかった時、助けてくれる人は誰もなかった…。」

和尚はまっすぐに、日乃輪の目を見ている。

「通りすがりの、旅の坊さんが看病してくれて、良くなったら、一緒に諸国を巡ろうと言ってくれた。それも最初は、隙を見て坊さん殺して、袈裟やらなんやら盗んだら、これからの盗みが楽になると思って、いつ殺そう、いつ殺そうって見てた。」

これは本当の話なのだろうか…、でも和尚の目は真剣だった…。

「でもこの坊さんは…、本当に徳の高いお人でな。ずっと一緒にいるうちに…、ああ、もう盗みやら、殺しやらはやめよう、人のために生きようって思えるようになった。もしこの和尚が、謙虚に見えるとしたら、それはこの和尚を助けてくれた、あの坊さんの徳なんだよ…。」

いっそ、冗談、と笑い飛ばせたらどんなに良かったか…。道薫和尚が、盗人で、人殺しだった…。

「この話を聞いて、ひいがもう和尚にはついて行けない、と思うならそれでもいい。この和尚が、ひいに教えてやれる事はもう何もない…。むしろ、学ばせてもらう事の方が多くなってきた…。ひい、いや、日乃輪殿、この道薫和尚を、日乃輪殿の下で、このまま、生きさせてやってはくれんでしょうか…。」

和尚が頭を下げた。日乃輪はびっくりした。話の内容は、正直ピンとこなかった。この柔和な和尚が人殺し…。それより、師と仰ぐ人が、自分に頭を下げている、その方が衝撃だった。

「あ、頭を上げてください!私など未熟者で…、傷を縫うのばかり早くなって、少しも、患者さんの心によりそえない…。まだまだ、和尚に教えてもらわねばならない事がたくさんあります!私こそ、和尚の下で、生きさせてもらわなければ、困ります!」

日乃輪がぴょこん、と頭を下げると、和尚はなんだか気まずそうに、少し笑った…。


 ああ…、あれは、日乃輪が十四か、十五の頃の事だったか…。その夜、床について、道薫和尚の言った事を思い返し、たとえ和尚が盗人で、人殺しだったとしても、そんな和尚を、日乃輪は「知らない」。だから今の和尚を信じよう…、と思って、それで深く納得し、眠りについた事を覚えている。

ただ…、その後、和尚が生きていたのは、それほど長い事ではなかった。薬を調合していて急に倒れ、多くの医者仲間が治療を試みたが…、そのまま帰らぬ人となったのである。

それと前後して祖母が亡くなった、と言う便りをもらった。その二つは…、悲しくて、忘れてしまいたい事だったから、良く覚えていない…。

 日乃輪が陣幕の外に出てみるのは何度目か、そろそろ正午が近い、と言う時の事だった。物部の兵の本丸に迫る勢いは激しく、本丸までたどり着いた者が、冬月の兵と切り結び、冬月を見限った者が、石垣を転げるようにして逃げてくるのが見えるようになった。

その時…、松丸城本丸から、降伏を示す白旗が、何本も窓外に現れて、ばさ…、ばさ…、とふられた。降伏だ…、冬月方の降伏だ…、日乃輪は安堵した。命は取らぬ、と言う約束だ、これで冬月宗勝も、信勝も助かるだろう。

 そう思った時である。紅鬼がにわかに動き出した。赤子のように丸くなっていたものが、例のごとく四つん這いになり、手当たり次第に近くの者を襲いはじめた。

戦場は大混乱となった。紅鬼は物部、冬月の別なく、兵を足の裏で踏みつけ、手でつかんで投げ飛ばした。そうして動き回る手足が、本丸御殿にあたり、壁が崩れ、柱は折れ、屋根瓦まで落ちてくる。

本丸は大きく揺れた。崩れてしまうのではないかとさえ思えた。口から吐き出される火炎が、逃げ惑う人々の背に燃え移る…。

 もうじっとしていられない。日乃輪は陣幕の裏手に止めた、自分の馬の元へと駆け出していた。怪我人が出ている…。しかし日乃輪の行く手を、若い侍がはばんだ。

「何処へ行かれるのですか!陣幕の中におもどりください!」

「でも…、前線で怪我人が出ています!瓦礫の下敷きになっている人もいるかも…!」

「今行かれるのは危険です!あれ…、紅鬼が、暴れ回っているではないですか!」

「だからこそ行くのです!火傷はどれだけ早く処置したかで…、」

ずしん、と言う音がして足下が揺れた。紅鬼が本丸から、西の丸へと飛び降りたのだ。その紅鬼の方から、大音声で呼ばわる者がいる。

「我こそは赤城玄理齋!八百万の神の使者にして、秋津志摩大和国に、神の御国を建てる者なり!失われし神の威光、今こそとりかえさん!物部彰久はいずこ!我が英知の結晶なる紅鬼にて、その首刈りとって見せようぞ!」

よく見ると、紅鬼の肩の辺りに、四十がらみの男が立っている。半白の髪を結わずに長く垂らし、黒い柄のない着物を着ている。紅鬼の背に柵のような物があり、そこにつかまっているようだ。

 紅鬼が再び四つん這いになって、攻撃に入ろうとするのと、陣太鼓が激しく鳴るのと、ほぼ同時だった。

「後退だ!隊列を整えて、後退せよ!」

どこかから彰久の声がする…。若い侍の気がそれた。日乃輪がぱっと走り出す。手早く馬をつなぐ縄をほどいて、たちまち騎乗の人となる。

「信勝殿をお願いします!」

「あっ!お待ちください!」

若い侍の声を後に、日乃輪は馬の腹を蹴って駆け出した。紅鬼を避けて、本丸に登りたい、と思っていると、視界の端に彰久の姿が入る…。彰久は軍配をふり、混乱する物部の兵達をまとめようとしている。その彰久に、大きな大きな紅鬼の手が迫った。

 彰久は避けようとするが、馬がその動きについて来れない。彰久は馬を捨てて鞍上から飛び降りる。受け身を取って地面を転がると、その後に紅鬼の手が落ちてきた。馬が無残に叩きつぶされる。

彰久は手近にあった槍をつかんで、紅鬼の手を突き刺した。だが蟷螂の斧とはこの事である。槍は柄の半ばから真っ二つに折れてしまった。紅鬼が、彰久をつかもうとする…。

 日乃輪は彰久の元へと馬を走らせた。逃げ惑う弓兵とすれ違いざま、その弓と矢筒をひったくる。脚で馬の胴をぎゅっと締めて手綱を放し、きりきりと弓を絞る。紅鬼の背に乗る、玄理齋を狙う…。

立て続けに矢を放った。玄理齋が身を低くして、紅鬼の「中」にむかって何か叫んだ。すると紅鬼が、蚊を追いはらうように手を動かす…。その手にかするだけでもただでは済まないだろう。日乃輪は巧みに脚だけで馬を操って、彰久の元へと急ぐ。

「彰久様!」

抜刀した彰久が鞍上の日乃輪に気が付いた。

「お乗りください!」

日乃輪は弓を引きながら、わずかに馬の速度を落とす。彰久は開いた手綱をつかんで姿勢を保つと、鐙に足をかけ、器用に日乃輪の背後に腰を落とした。どおん、と言う音がして、紅鬼の手が地面を叩く。さっきまで彰久がいた場所だ。

「日乃輪、弓はもういい、効き目はない!たてがみにでもしがみついていろ!飛ばすぞ!舌をかむな!」

彰久が思いきり馬の腹を蹴った。日乃輪の駄馬が狂ったように走り出す。人二人乗せて、この速度で走るのは無理がある…。

ああ…、馬がつぶれてしまう…、頭のかたすみで、日乃輪はそう思ったが、今は眼前の紅鬼から逃げなければならない。馬は西の丸を飛び出し、通路を駆け下って、開け放した城門から仙石原へ出た。

紅鬼は蜘蛛のように這いながらついてくる。石垣が崩れ、城門が大破した。

「彰久様!何処へ逃げるおつもりか!ぴったりついてきますよ!」

「大丈夫だ!策はある!黙っていろ!」

紅鬼の四つん這いで走る、その速度の速い事…。人型だから、と言って、直立二足歩行をするのではなく、もともとこうして四つん這いで走るように設計されているのだろう。

時々紅鬼が火を噴くので、馬の尻に火がつくのではないかと気が気でない。彰久は手綱をさばき、馬を右に左に走らせて、紅鬼の攻撃をかわしている。

やがて仙石原に点在する、小さな林の中に入った。紅鬼は木立を吹き飛ばして追ってくる。林の中の、少し開けた場所に出た、と思った時、馬が前のめりに転けた。

あっ…、と思う間もなく、彰久と日乃輪は宙に放り出される。やはり…、馬がつぶれた…、日乃輪はまた頭のかたすみで思う。とっさに受け身を取って、草むらのなかに転げ落ちる。

万事休すか…、と思えた時、紅鬼が大きく体勢を崩した。穴だ、彰久の指示で掘られていたという穴に、紅鬼が片手を突っ込んだのだ。玄理齋が、紅鬼の背からふり落とされるのが見えた。

「今だ!やれ!」

彰久が叫ぶと、木々の後ろに隠れていた物部兵がばらばらっと出てきて、紅鬼めがけて何か液体をかけた。この匂いは…、油だ。

そこに次々と火矢が射かけられる。紅鬼はぼっと炎上した。紅鬼は動きを止め、四肢を投げ出してうつぶせに地面に突っ伏す。やがて紅鬼の中から、七、八人の人が、悲鳴を上げながら火だるまになって転がり出てきた。

 日乃輪は思わずそれらの人々に駆けよっていた。羽織を脱いで燃えさかる背に、頭に、叩き付けて火を消そうとする。

「誰か手伝って!火を!火を消すんです!」

「馬鹿!危ない!」

彰久が日乃輪の手を引いて、紅鬼のそばから引き離す。日乃輪は小柄な一人の人を腕にかばい、彰久に引きずられるようにして木の陰に入った。

紅鬼が…、ぐぐっと手足を縮めたように見えた…。次の瞬間、紅鬼の腹部が大爆発して、木片と鉄板、炎をそこいら中にまき散らした。紅鬼は火を吐いていた…、その燃料に、引火したのだろう。

 日乃輪の腕の中にいた、小柄な人が、日乃輪の袖を引いた。顔の半分と、手足を火傷してしまっている。まだ少年のようだ。

「あ…、か、ぎ…、」

「しっかりして!」

日乃輪は少年と見えるその人物の手を取った。人は全身の三分の一を火傷すると、死に至るという。少年の肌で白いところは…、どうだ、ぎりぎりだろうか…。

「げん…、り、さ…、いを、こ、ろし、て…。」

赤城玄理齋を、殺して…、少年は確かにそう言った。日乃輪はとっさにこう聞いた。

「貴方は、鳥居左右吉さんですか?」

だが答えはなく…、少年はがくり、と首を後ろにそらした…。死…、いや、まだ息はある。

「馬を…、馬をまわして下さい!火傷した人は、すぐに勧善寺に運んで!」

日乃輪は辺りを見回す。物部の兵が、燃えさかる紅鬼の周りで、火傷した人々を救護している…。息のある者もいるようだ。そうして赤城玄理齋は…、後ろ手に縄を打たれ、複数の兵に槍を突きつけられて、拘束されている。

鳥居左右吉とおぼしき少年と、数人の火傷の者を伴って…、日乃輪は、急ぎ勧善寺にもどった。


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