第2話
翌早朝、日乃輪は人のざわめきで目が覚めた。寺の外が騒がしい…、何かあったのだろうか。手早く着がえを済ませて外に出てみると、男衆が伯父の家の方にぞろぞろと歩いて行く。この荘の者だけではない、近隣一帯の若い男が集められているようだ。
「ひいちゃん。」
男衆の中から声をかけてくる者があった。顔見知りの、渡辺荘の者である。
「何事ですか?」
「いや…、物部の殿さんの命令よ。戦の手伝いさせるんだと、とにかく人手を集めとる。でも槍持って戦え、っちゅう事ではないんだと。なんも危ない話じゃないといいんじゃが…。」
「そうですか…。とりあえず、気をつけて。」
男は軽く手を上げて行ってしまった。なんだろう…。分からないが、戦がより激しくなる事が考えられる。その前に…、怪我で動けなくなり、戦場に取り残されている者がいないか、確認しておきたい。
日乃輪が馬の支度をしていると、門前に荘の娘達が数人集まってきた。しかし怪我人が怖いのか、門から中に入ってくる様子はない。日乃輪は馬を引いて行って、声をかけた。
「どうしました。」
「ひいちゃん…。」
もののけ憑きの噂は隠しようがなく、遠く武蔵を離れてこの播磨にやって来ても、同じ年頃の、特に女子からは恐れられている日乃輪である。
八つで人を殺し、あげく医者になって、状態の悪い患部を太刀で切断してまわり、傷を縫ったりはったりしているわけだから、それはまあ、奇異の目で見られても仕方がないとは思う。
「お父さんが…、なんか村の若い衆が物部のお殿様の命令で集められてるから…、勧善寺は人手が足りなくなるんじゃないかって、お前ら手伝いに行けって…。たいした事はできんけど…。」
「ありがとうございます。ではとりあえず、朝餉の支度を…。裏口から入って下さい、そちらには傷病人はいませんから。」
娘達がほっとしたように顔を見合わせる。
「ね、ねえ、物部のお殿様は、勧善寺においでになる?」
娘の一人が言った。
「昨日、御着陣の時にお見えになりましたが…。今日もいらっしゃるかは分かりません。」
今度は娘達ががっかりした顔を見合わせた。娘達は、日乃輪にちょっと頭を下げると、裏口の方にむかっていく。
「…物部のお殿様、素敵よねえ。」
「本当、あの逞しいお髭、なのに品があって…。」
「まだ独り身なんでしょう?」
「おめかししてたら、お目にとまらないかしら…。」
「お手つきになったりして…。」
「やだぁ!」
なるほど、そう言う魂胆か。ではせいぜいこき使っておくか…。物部氏は、彰久の代になるまで安芸の一国人に過ぎなかったのだが、血筋は古く、皇室にもつながりがあると聞く。
いくら見目が良くても、農家の娘など相手になさるか…。まあ娘達が騒ぎたくなる気持ちは分からないでもない、彰久は確かに美男子だ。
ふと、昨夜話していた、「恋仲になった娘」という、亡くなった人の事を思い出す…。日乃輪はその場にいなかった。いたとしても赤子だろう。
それでも思うのだ、自分の手が、目が、限りなくすみずみまで…、時間さえ超えて、過去にまで行き届いたら…、救える命が、あるかも知れない…。だが…、それはきっと、神仏の領域…、自分がそこに至ろうというのは、おこがましいのかも知れない…。
日乃輪は馬にまたがり、仙石原へむけて、駆けて行った…。
今朝の仙石原は霧が立ちこめていて、見通しが悪い。今日の戦のはじまりはもう少し日が高くなって、霧が晴れたらだろうか。
日乃輪は拾った槍で、戦場に倒れている人々を小突いてまわった。うつぶせになっている者は、仰向けにしてみたりもしたが、生きている者はいなかった…。ほっとする気持ちと、残念な気持ちが微妙に入り交じる。
あまり冬月方の松丸城に近付くと危険なので、戦場全てはまわれないが、少なくとも怪我を負えば、勧善寺に収容されるだろう範囲は一通り見た。あとは冬月方の医療班の責任だろう。
とは言え…、冬月の軍師、赤城玄理齋なる者、元は医者だと言う。そのうえ紅鬼の設計者でもある。優れた医術者なのだろうが…、あまりいい印象は持てない。一人でも多くの怪我人が、勧善寺の方に収容されていればいいが…。
ふと、沢の方も見ておこうか、と言う気になった。仙石原の外れに沢がある。そちらは主戦場ではないので、人がいる可能性は低いのだが、紅鬼が火を吐いていたのを思い出す…。火傷した者が、水を求めてそちらに逃れていないだろうか…。
槍を担いだまま、霧の仙石原を行く…。死体ばかり見て気が滅入るので、わざと鼻歌など歌ってみた。
沢の手前に岩場があり、馬で入るのは危ない、と思い、迂回しようとすると…。その岩場で、黒毛の立派な馬がもがいているのが見えた。
あわてて下馬し、近付いてみる。前脚が両方とも折れているようだ。立ち上がれず、痛みでもがいている。黒い毛並みはつややかで、馬具も立派な物だ。
「可哀想に…。」
だがこの馬はもう駄目だ…。骨折を治してやる自信はあるが、それで元の通り駆けたり、あるいは農耕馬として働かせられるか、と言われれば、そこまでは保証できない。
働けない馬を、遊びで飼ってやれるような余裕はどこにもないのだ。後で誰か…、猟をする人に頼んで、しめてもらうしかない。そうしてせいぜい、傷病人の糧となり、血肉になってもらう、それしかない…。
この馬の持ち主はどうしたのだろう、戦場で果てたのか…。馬の周りをぐるりと回ってみる。すると…、馬から五、六歩離れたところに、かなり大きな血の跡があり、そこから血痕が、点々と沢の方に続いているではないか。
日乃輪はあわてて自分の馬の所にもどり、その手綱を引きながら、血痕を追った。血の跡は藪の中に消えている。
「誰かいるなら、返事をして下さい、私は医者です!」
思い切って声をかけてみたが、返事も、人の動く気配もない。仕方なく馬をつなぎ、応急処置の道具だけ入った薬箱を下ろして、自分で担ぐ。
藪の中に入ってみた…。槍をさしだして、枝葉をかき分ける。太刀を置いてきた事を後悔した。怪我人相手だから安全、と言う事はない。逆に自暴自棄になったりして危険な事もある。太刀の腕なら並の男に負けないが、槍は不得手だ…。
しばらく行くと、藪の開けたところがあり、少年とおぼしき小柄な男が、一人倒れていた。馬と同じだ…、気を失っていても分かる、育ちの良さそうな雰囲気、立派な武具…。
「もしもし、もしもし?」
日乃輪は脇にかがんで、声をかけながら、軽く肩を叩いた。顔面に酷い裂傷を負っており、元の面影を想像できないほどになっている。早く処置した方がいい。
「う…、うわあぁああぁあ!…うぅ…。」
少年は飛び起きたが、すぐにまた痛みでうずくまる。思ったよりは元気だ。日乃輪は声をかける。
「大丈夫、落ち着いて、私は医者です。貴方の傷を見る事が出来ます。顔面以外に痛むところはありますか?」
「い、医者…?そなた、女子ではないのか?」
「女ですが、訳あって医学を志しました。京と長崎で六年ほど修行しています。」
「目、目が見えない、まぶたが開かないのだ。なんとかしてくれ、本当に医者か?」
「大丈夫、目に血が入って、そのまま乾いてしまったのでしょう。目も、傷も洗いましょう。肩を貸しますから、沢まで歩いて下さい。顔面以外に痛むところはありますか?」
日乃輪は努めて冷静に、重ねて状態を確認した。
「ない…。顔が、ひどく痛む…。切れているだろう?怖くて、触れない…。そ、そうだ、喉が渇いて…、水音がする方へ歩こうとしたら、目が見えなくなって…。」
「では水筒の水を差し上げます。一緒に、お薬を飲めますか?痛み止めです。」
「痛み止め…。そうか、そうだな、飲める…。顔が、痛んで…、酷い痛みだ、気が狂いそうだ。」
少年が落ちつきなく、早口で言う。日乃輪は水筒を渡し、まず水をある程度飲ませてから、口を開けるように言って、痛み止めの粉薬を飲ませた。
それから肩を貸し、ゆっくりと立ち上がらせる。声の感じからして、少年の歳は十四と言ったところか。
「何があったのか話せますか?」
日乃輪は考える…。傷が乾きはじめているが、縫わなければならない。まず沢で洗って綺麗にしたら、傷に直接塗る痛み止めと…、皮膚が柔らかくなる薬も塗った方がいいだろう…。
「父が…、過保護でな、初陣をさせてくれないのだ。私はこの物部との戦で、武功を上げたいと言ったのだが…。父は、この先、戦などいくらでもある、もう一、二年先でもいいだろうと…。」
今ぽろっと言ったが、この少年は、冬月方の人間である、と言う事になる。だが日乃輪は黙っていた。適当に相づちを打って、先を促す。
「だが私ももう大人だ、元服を済ませたのだ。一人前の男らしく、首級の三つ、四つ、上げてみせると…。具足はもうあつらえてもらっていたのでな、黙って戦支度をして、出てきてしまった。そしたら…。」
少年がちょっと口ごもった。まあだいたいの想像はつく。勇んで出てきたのに、馬で岩場に入って、顔面を強打したわけである。格好悪いと思っているのだろう。
「う、馬が暴れて…、そうだ、馬が、紅鬼に怯えて暴れ出して、岩場に突っ込んで行ってだな、私をふり落としてしまったのだ。馬は?馬はどうした?」
少年は諸々を馬のせいにして、話題をすりかえた。
「骨が折れて…、死んでしまっています。」
これからしめてもらって、皆でお肉を食べます、とは言いにくいので、もう死んでいた事にする。
「そうか…、城で一番いい馬だった…。父がかわいがっていてな、初陣の時、私に譲ってくれると言っていたから、乗って出たが…、可哀想な事をした。」
ほう…、父君は城持ちか、たいしたご身分だ。どうりで、少年からもお坊ちゃん、と言う感じがにじみ出ているわけである。ん…、松丸城の支城は、いくつあるのだったか…。
沢に着いたので、少年を寝かせ、日乃輪は湯を沸かし、薬の支度をはじめた。湯が沸騰しない程度に暖め、少しすくって血を溶かす効果のある薬を混ぜる。それを手ぬぐいにふくませ、傷を洗いにかかる。
「いっぅつ…。しみるな…。」
「それはしょうがないですよ。このあと別の痛み止めも使いますから…、傷を洗い終わるまで我慢して下さい。もう少ししたら目も開くようになりますよ。」
「分かった…、我慢だな。うん…、痛みは…、さっき起きた時よりはましになった…。今なら傷に触れる気がする…。」
「もう治療しますから、傷口はそのままで…。さっき飲んだ痛み止めが効いてきたのでしょう。」
「そうか…、そなた本当に医者なのだな…。女の医者か…、聞いた事はないが…、そう言う者もいるのだな…。」
医者を生業、と定めてから、一番面倒なのは「信じてもらえない」と言う事だった。説明しても分かってもらえないので、今は相手が納得するところ、に落とす事にしている。
例えば、医師本人、として納得してもらえないなら、医者の薬持ちになってみたり、たんなる薬売りになってみたりする。
それで病気や怪我を診させてもらって、治療にこぎつけられるなら、それでいい。矜持にこだわっていては、傷病人は治らないし、こちらも飯が食えない。この少年のように、素直にしてもらえると助かる…。
「目を開けてみて下さい。よく見えないようなら、目薬を使います。」
「おお、まぶたが…、楽になった。そなたの顔も見える…。そ、その…、もう少し、年増かと思った、まだ若いではないか…。そ、それに、その…、美形だ。このようなうら若い乙女に、落馬した傷を見られるのは、なんだか恥ずかしいな…。」
少年が赤面して、顔を横に向けた。今までで一番大げさだと思った褒め言葉は、「天女が舞い降りたかと思った」である。日乃輪は自分が美しい事は知っているので、少年の反応も意外だとは思わない。
「血はあらかた落ちましたね。ただ傷が酷いので…、縫った方がいい。縫えばまた元の男ぶりにもどれますよ。痛み止めを使いますが…、少しお酒と…、眠くなる薬も使いましょうか。」
あまりぐずぐずしていては、今日の戦が始まってしまう。だが、少年の傷も放っておけば、完全に乾いて、縫えなくなってしまう。今手早く処置してしまおう…。持っていた酒と、別の丸薬を勧めると、少年は大人しく飲んだ。
二種類の軟膏を混ぜて傷口に塗り、少し浸透するのを待つ。何針縫う事になるか分からないほど、少年の顔面は縦横無尽に裂けている。
ただ、日乃輪は縫合には自信があった。普通の縫い針で縫うのは縫いにくい…、専用の道具は出来ないものか、と考えていた時、釣り針を見て閃いた。
日乃輪は特別に作ってもらった、縫合用の縫い針を持っている。それに痛み止めも、師匠である道薫和尚と試行錯誤して作った、特製だ。
縫合と言えば、大人の男、四、五人で患者を押さえつけなければならない事もあったが、この痛み止めの軟膏が出来てからは、なんとか患者の根性でもっている。
「傷が…、じんとして…、痛みがなくなってきた…。」
「塗り薬の痛み止めが効いてきたのですね。これから縫いますが…、大の男でも暴れ出すほど痛いものです。どうしても耐えられないようなら、お薬を追加したりしますので、言ってください。」
「わ、分かった。」
少年がぎゅっと拳を握る。本当は力まない方がいいのだが…。まあ、「うら若い乙女」の手前、と思って、頑張ってもらうしかない。
日乃輪は手早く縫いはじめた。手先が器用なのも日乃輪の自慢である。意識を傷口だけに集中させる…。
縫合が終わる頃、遠くで法螺貝や陣太鼓の音がしはじめた。開戦だ…。少年は意外と我慢強く、歯を食いしばって痛みに耐えていた。
「今日の戦が始まるようだな…。」
少年はまさに嵐が過ぎ去ったかのように、ぼんやりと言った。日乃輪は少年の傷に、傷薬を塗って、包帯を巻きはじめる。
「…疲れた、少し眠い。」
「もう少し頑張ってください。勧善寺にお連れします。」
「勧善寺?それは何処だ?」
「仙石原の北の…、渡辺荘という所です。今は物部の本陣が置かれています。」
「そ、それはまずい!私を、松丸城に送りとどけてくれ!謝礼はいくらでも出す!」
少年が突然うろたえはじめた。
「無理です、ここから松丸城までは遠い…。もう戦もはじまっていますし、仙石原を横切る事は出来ない。」
「金子(きんす)ではいやか?なんでも望みの物を取らす!この戦は我が軍の勝利で間違いはない!あの紅鬼を見ただろう?百人力…、いや千人力だ!我が軍勝利の暁には、父が中つ国十二カ国の太守…、っあ!」
少年が口を滑らせた。日乃輪は、そんな気がしないでもなかったので、一応平静を保てた。
「…まだお名前をうかがっていませんでしたね。私は、左海日乃輪と申します。」
「信勝だ…、冬月信勝…。松丸城主、冬月宗勝の四男だ…。」
日乃輪はどっと疲れるのを感じた。いや、彼が何者だろうと、治療自体は変わらない、変わらないのだが…。確かに、「まずい」事にはなった…。
この事を物部の美髯殿に知らせたら、戦が有利になり、早期に決着する、とは考えられないか…。違う…、それは自分が判断すべき事ではない。
自分は他所者で、でも、医者だ。この戦で出る傷病人の、「出来るだけ多く」をあずかっている。彼も傷病者の一人だ。傷の状態…、その事だけを考えると…。
「…その立派な具足を、外してください。」
「え?」
二人でここで、途方に暮れていてもしょうがない。
「とりあえず、十日、十日間、身分を隠して、勧善寺で大人しくしていて下さい。その間、傷が化膿したり、発熱等なければ…、なんとか、馬を調達しますので、それで夜陰に乗じて、松丸城に帰れるように、しましょう。」
十日あれば…、傷の回復状態も見られるし、抜糸も出来るだろう。馬はなんとか、伯父に頼んでみるしかない。
日乃輪の馬はどうしようもない駄馬だが…、左海家、唯一の財産、と言っても過言ではない。これはちょっと譲れないのである。
「十日です、十日間…。とにかく、今、仙石原を横切って、松丸城に帰るのは、危険です。お願いします。」
日乃輪は思わず頭を下げていた。信勝が驚いている…。
「そ、そなたが頭を下げる事ではない。行き場がなく、困っているのは私だ。分かった、勧善寺に行く…。よ、よろしく頼む。」
今度は信勝が頭を下げた。日乃輪は大きく息をついた。
「とりあえず、私が馬をつないだところまでもどりましょう。そうですね…、『田中・安兵衛』さん?」
信勝がちょっと笑ったが、傷がひきつれたらしく、すぐ、いたた…、と言って顔をしかめた。二人は、馬にまたがって勧善寺に帰った…。
正午頃だろうか。早朝、冬月信勝を勧善寺に連れて帰って寝かせ、簡単に朝餉を済ませて、すでに収容されている傷病人を診察してまわっていた時である。寺の外で人の入り乱れる足音が聞こえ、誰かが叫んだ。
「竹槍でもなんでも持ってこい!戦える男は皆出ろ!勧善寺を守れ!」
日乃輪は、今診ていた負傷兵の包帯を換えておくよう小坊主に指示して、声の聞こえたほうに急いで行った。勧善寺の南門あたりで、村に残った男衆が、手に手に武器を持って集まっている。
「どうしたのですか?」
「ひいちゃん!ひいちゃんも今手ぇ開いとるんなら、太刀持ってきて!太刀!」
「だから何が起こって…。」
「そこの壁ん所!物部の負傷兵が、息も絶え絶えになっとる!その男に、冬月の侍二十人ぐらいが、命取らせろって追いすがって来とるんよ!勧善寺に来られたら、何されるか分からんで!」
男衆が口々に言う合間に、本当に二十人あまりの騎馬武者が、わっと襲いかかってきた。日乃輪は訳も分からず、とにかく太刀を取りに本堂へ駆けていく。
その時南門の壁をちらっと見たが、確かに、血まみれの男が一人、壁によりかかっている。早く診た方がいい。それには騎馬武者を追い返さないと…。
日乃輪は太刀の入った袋を肩から提げ、急いで馬に乗った。騎馬相手に徒では分が悪い。再び南門にむかう。
「まずは馬を狙って!鞍上から落とすんです!」
日乃輪が指示を出す。男衆がおう、と答えるが、正式な武器を持っている者は少ない。鋤や鍬、鎌など持っている者もいる。
長柄の者から、馬に攻撃する者が出はじめる。日乃輪は血まみれの男をかばえる位置につき、突出してきた騎馬武者と切り結ぶ。
するどい金属音が鳴り響く。日乃輪の一撃は重くはないが、その分手数が多い。甲冑も着けていないので、とにかく速い。馬は駄馬だが足腰が強いのが取り柄である。
巧みな馬さばきと、剣速で相手を圧倒する。相手がついに落馬した。そこに柄の短い獲物の男衆が襲いかかる。
日乃輪はすぐに次の騎馬武者に斬りかかる。怪我人や、ましてや死人を出す事は本意ではないが、今はとりあえず、壁によりかかっている、あの男を助ける事に集中するしかない。
次々と騎馬武者が落馬していく…。それでも逃げ出すどころか、果敢にむかってくる。もう馬上に残っている敵はいない。
日乃輪もついに馬から降りた。都合、六、七人目の相手と切り結ぶ。甲冑の隙間が狙い目なのだが、そこに剣を突き刺すと即、死に至る可能性が高いので、なかなかむずかしい。
こいつらはなんなのか…、頭の片隅に疑問が浮かぶ。たった二十騎ばかりで、敵陣の奥深くまで斬り込んでくるとは、自殺行為だ。命をかけるほどの何かが、あの血まみれの物部兵にあると言う事か…。
やがて鎧武者達は皆地に伏せた。日乃輪がまた指示を飛ばす。
「まず息があるか確認して!それから鎧を脱がせて怪我の具合を見てください!出血がひどい場合は、怪我の位置から心の臓に近い方を布でしばるか、傷口を圧迫して!」
言いながら壁にもたれかかる男に近付いた。息はしている…、だが出血がひどい。兜はなく、甲冑も壊れている。その壊れた甲冑を脱がせにかかる。
「こ…、ここは…、本陣、か…?」
男が口をきいた。
「無理にしゃべらないで!」
日乃輪が静止するが、男の目は虚で…、周囲の音も、もう聞こえていないらしい。右の脇から激しく出血している。槍で刺されたようだ。傷は…、深い。
「も…、物部、彰久様に御注進…。田所、善助…、謀反の旨…。すでに、冬月方と内通…、疑い、な、し…。」
そこで男は大量に吐血した。日乃輪は背中をさするが、男の身体にもう力はなく、そのまま前のめりに地面に突っ伏す。あわてて手首、首筋、と脈を取ってみるが拍動はない。呼吸も止まっている。
死んだ…。しかし言い残した内容が…、これはすぐに彰久に伝えねばならないのでは…。
「今日は、美髯殿は!」
「田所の善助さんと前線に出とるはずよ。ひいちゃんの伯父さんのところで、そう聞いたよ。」
頭より先に身体が動いた。日乃輪は馬に飛び乗っていた。
「ひいちゃん!何処行くんじゃ!」
そんな声を背に、日乃輪は前線へと駆けて行く。
その頃…、物部彰久は前線に張った陣幕の外で、紅鬼をじっと観察していた。田所善助の指示で行われていた、「紅鬼の四肢に鉤縄をかけて引き倒す」という作戦は、やはり有効ではない。
鉤縄を投げる者、引く者が呼吸を合わせる間に、紅鬼が勢いよく動いて、鉤縄が外れたり、人馬の方が引きずられてしまったりする。
今は彰久の指示で、二方向から鉄砲を一斉射撃させて、紅鬼の注意を引き付けている。その間に別働隊を押し進め、松丸城そのものを攻略する方策だが、敵の守りも堅く、すでに一度増援を送っている。
しかしあの紅鬼はよく出来ている…。まず、どう言う仕組みなのか、中はどうなっているのか、何人で、どのように動かしているのか…。
知的好奇心をくすぐられる。彰久には余裕があった、この戦、負ける気はしない…。たとえ相手が、「紅鬼」と言う奇策を仕掛けてきても…。
「殿…。」
背後に人の気配があった。ふり返る。田所善助がひかえていた。
「なんだ、善助。」
「その…、内密にお話ししたい事が…。松丸城に放っておりました、密偵がもどって参りました。」
「ふん…、話とやらを聞こう。」
「ここではなんですので…、あちらの林の方で…。」
彰久は組んでいた腕を解いた。田所善助に促されるまま、陣幕の後方の林に入る。木々にさえぎられて、戦の喧噪がわずかに遠のいた。
「で、話というのは…、貴様が、すでに寝返っている、と言う事か?」
彰久が余裕めいて、口の端に笑みを浮かべた。
「くっ…!者ども、出あえ!」
善助の声に、木立の影から配下の者どもが、手に手に太刀をかまえて飛び出してきた。彰久も抜刀する。
そこに日乃輪が馬で駆けつけた。
「彰久様!」
ぱっと馬から飛び降りると、刺客達の合間を縫って彰久の元へ走りよる。
「田所善助、謀反!すでに冬月方に内通!」
「知っている、だからこうなった。」
「なんだ!この娘は!」
抜刀する日乃輪に、善助が混乱した様子で叫ぶ。
「武蔵の暴れ馬だと。」
彰久がうそぶく。
「ええい!娘もろとも斬り殺せ!」
刺客達がいっせいに二人に襲いかかる。
「さて、武蔵の暴れ馬の、お手並み拝見!」
彰久は状況を楽しんでさえいるようだった。日乃輪は襲い来る太刀を一度はね返して、一人と切り結ぶ。
刺客はざっと十人はいるだろうか。なんて忙しい日、まだ半日しか経っていないのに、朝は冬月信勝を助け、今さっき二十人の騎馬武者を相手にし、次は十人の剣客と対峙している。日乃輪の頭の片隅に、そんな思いがよぎる。
さっきは二十人に対し、農民とは言え人手があった。今は二対十だ。しかし…、日乃輪の視界の端に、彰久の姿が映る。なんと見事な太刀さばきだろう。
速く、鋭く、重く…、それでいて舞でもまっているかのように優雅で…。人を傷付ける太刀さばきなど、好きではないが…、鮮血にまみれる彰久はまるで、美しい死神のようだった。
刺客の数はどんどん減っていく。とうとう善助も抜刀した。そこに陣幕の方から、人の駆けてくる気配があった。
「殿!これは何事でございますか!」
「田所殿!何をしている!」
彰久が大きな声を出した。
「田所善助は裏切り者だ!捕らえよ!」
陣幕から駆けつけてきた家臣、四、五人ほどが抜刀し、いっせいに善助にむかって襲いかかる。彰久は言う間に、残り二人になっていた刺客を切り伏せていた。
「ちっ!」
善助は舌打ちして、近くの茂みに走り込む。姿が見えなくなった…、と思う間に、その茂みから、紅鬼がぬっと現れた。
いや…、よく見ると、それは今、前線で暴れている紅鬼とは、別のものだ。頭部しかない。その頭部も、作りかけのようで、側面と後方は骨組みがむき出しになっている。
その頭部の中で、田所善助が必死に手足を動かして、いくつもぶら下がった吊り輪、足の下の踏み板などを、次々に操作していく。
ぎし…、ぎし…、と全体をきしませて、その頭部だけの紅鬼が動く。首の下に蜘蛛のような脚が生えている。
その「頭」が顎を上げ、前四本の脚がかしゃかしゃ…、と不気味に蠢いた。それが前動作だったかのように、「頭」は大きく口を開け、ざっ…、と一気に前方に走り出た。人々が飛びすさり、なんとかかわす。
「ふー!ふー!」
中で善助が荒い呼吸をしているのが、日乃輪の耳にも聞こえた。血走った目は彰久を見ている。
「彰久様!狙いは貴方様です!一度後退を…、」
「分かっている!本陣に伝令!急ぎ破城槌を運ばせろ!」
彰久は陣幕の方に走っていく。日乃輪も後を追った。
「貴様、鉄砲は撃てるか?」
「一応!」
「ふ…、何でもありだな。女子にしておくには惜しいぞ。よいか、わしが射撃する。貴様は弾込めだ。」
彰久は持っていた太刀で陣幕を裁ち切って、「頭」が見えるようにする。その「頭」は、と言うと…、また顎をあげて、脚を蠢かせたかと思うと、今度は急旋回してあらぬ方へと走り出したりしている。もたもたと後退し…、むきを変えようとしている。
「どうやら操作に慣れていないらしいな。」
彰久は笑った。あきらかに状況を楽しんでいる。
「そこ四人、組になって鉄砲連射の用意!あと、いつでも後退出来るように、馬に鉄砲と弾薬をつめ!伝令急げ!」
伝令役の侍が、ぱっと馬に乗って飛び出した。日乃輪は急いで鉄砲を装填し、彰久に渡す。
「弓兵、用意!あの紅鬼の頭に、火矢を射かけろ!」
陣幕の周辺には寡兵しかいない…。破城槌が来るまで保たないだろう。日乃輪は後退を視野に入れ、指笛を吹いた。
紅鬼の「頭」のむこうで乗り捨てた駄馬が、見慣れない異物でしかないそれを迂回して、陣幕の方へ駆けてきてくれる…。ああ、いつも馬鹿だの駄目だのと言ってばかりだが…、今は思い切り褒めちぎって、人参でもやりたい。
「放て!」
彰久は言いながら、自身も鉄砲を発射する。射撃にはなれているようで、弾丸が「頭」の頬のあたりにめり込むのが分かった。
火矢を射かけられ、狙撃されて…、中の善助がうろたえているのが分かる。「頭」はその場で右をむいたり左をむいたりしていたが、その後、急発進して、陣幕の方へ迫った。しかしすぐに、ばくん、と口を閉じて急停止した。そしてぐるっと後ろをむいてしまう。
骨組みの中の「急所」である田所善助自身が丸見えだ。皆ここぞとばかりに矢を放ち、鉄砲を撃つ。
善助が大慌てで手足をばたつかせているのが見える。「頭」はいったん陣幕から距離を取って、またうろうろと左右に首をふりむけていたが、やっと正面をむいた。
そしてまた、気味の悪い、蜘蛛の前脚を動かしたかと思うと、今度はいきなり、こつがつかめた、とでも言うように、加速して陣幕に迫った。ぐん、ぐん、と身を震わせながら、口を大きく開け、こちらに近付いてくる。
「散開!おのおの、あの紅鬼の頭に攻撃をしかけながら、本陣を目指せ!」
彰久が指示を出し、ひらっと青毛の馬にまたがった。
「日乃輪!並走出来るか!」
「はい!」
出来ない、と言ってもやらせようという勢いである。
「では引き続き、弾を込めてわしに渡せ!」
その場に居合わせた一軍が、思い思いの方向に散った、まさにその刹那、「頭」が陣幕の中に突っ込んできた。もう少し動くのが遅かったら、誰かは「頭」にはじき飛ばされて、怪我を負っていたろう。
彰久の馬には鉄砲と弾薬が十五、六丁分は積んであるか…。「頭」の側面に回り込みながら、中の善助を狙って撃つが、骨組みに当たってはじけたのが見えた。
善助はきょろきょろして、目で彰久の姿を捕らえようとしている。本物の紅鬼の動きを見ていると、内部でああ言う「視認」の動作が行われている、とは考えにくいので、本当にこの「頭」は急造品なのかも知れない。
「それほど速く走る必要はないな。むしろわしがここにいる事を教えて、引き付けたいくらいだ。」
別方向から、ばらばら…、と火矢が射かけられる。「頭」の顔面部分は、ほとんどが木製だが、上手く火が燃え移る…、と言う事はない。何か細工がしてあるのかも知れない。
しかし彰久の馬さばきの見事な事…。それほど速度は出ていないとは言え、脚でぎゅっと馬の胴を締め、両腕は全くの自由で、鉄砲を撃つのになんの支障もない。
日乃輪は並んで馬を走らせながら感心した。そう言う日乃輪も、脚だけで馬を操り、腕は自由にして、鉄砲の弾込めをしているのだが…。
善助が彰久の姿を認めた。「頭」はむきを変え、彰久と日乃輪の方に突進してきた。彰久が鉄砲を撃つ。
眼の位置に当たった。ぱりん、と音がして、「頭」の片眼が破損する。硝子板がはまっていたようである。
彰久が馬の腹を蹴って、速度を上げる。日乃輪もそれにならう。「頭」は急発進、急停止を繰り返し、その反動でがくがくと前後に揺れた。なかなか思い通りに動かせないのだ。中の善助も焦っている事だろう。
その時、がらがら…、と荷車を押してくる音がして、本陣の方から一軍が現れた。荷車の上には、先を鉄板で加工した、破城槌が乗っている。
「破城槌、構え!目標はあの、紅鬼の頭部だ!」
彰久の指示に、歩兵が忙しく動き回る。破城槌が現れたのを見て、「頭」は何処へ逃げようか、右をむいたり、左をむいたり、文字通り右往左往している。
「突撃!」
凄まじい勢いで、破城槌が繰り出される。「頭」を操縦しなれていない善助に、これを避ける術はない。槌が「頭」の顔面を完全に捕らえた。追突音が響き、「頭」が後方に吹き飛ばされる。
中の善助も、もうとても吊り輪だの踏み板だのにかまってはいられない。追突の衝撃で骨組みの隙間から外に放り出され、草むらに転がった。
そこを、善助裏切りの瞬間に立ち会っていた、物部の重臣達が馬でとりかこむ。それぞれ下馬し、抜刀して善助に迫る。
彰久は悠然と青毛の馬を進め、家臣達の背後で下馬した。日乃輪も馬を下りた…。善助はあたふたと、刀を抜こうとしたが、彰久の一睨みで、その刀を放り出し、地に這いつくばった。
「いいぃ、戦が、はかばかしくなかったので…、とっ、殿に処罰される事が恐ろしかったのです!冬月の甘言に乗った事は、幾重にもお詫び致しますので、いっ、命ばかりは、お助けを!」
彰久は塵でも見るかのような目で善助を見下ろし、つまらなそうに舌打ちした。
「この紅鬼の頭部はなんだ?」
「ね、寝返りの際に…、玄理齋自らが、渡してきたのです。そ、操作法はここに…、この帳面に記してあります。この紅鬼の頭部を操作して、彰久様の命を取ってきたら…、私を、安芸の守護にすると言って…。とんだがらくたでした!こんなもの…!」
善助は帳面を差し出す。まあ、がらくた…、と言うのは本音だろう。全く、上手く操作出来ていなかった。
「こんな阿呆にかまっている暇はない!どこかに閉じ込めておけ!処罰はおって沙汰する!」
彰久が声を上げると、善助はあっという間に縛り上げられてしまった。家臣の一人が部下を伴って、縄で巻かれた善助を後衛へと引き立てていく。
「何か他に…、紅鬼や、冬月宗勝、赤城玄理齋の事、知っているでしょうか…。」
日乃輪はそう言ってから、ああ、それは自分が心配する事ではなかったか…、と思った。
「たいした事は知らないだろうな。知っていれば、命乞いする、今喋っていただろう。」
彰久が答える。陣幕の周辺にいた兵、破城槌を運んで来た兵が彰久の元に集まってきた。
「前線への指示が滞ってしまったな。まずは伝令、走れ!後方で攪乱があったが…、この物部彰久は全くの無傷であると!作戦を続行せよ、と!」
すぐにぱっと馬に飛び乗って、駆け出す者があった。前線にむかったのだろう。
「破城槌はとりあえず、そこらに転がしておけ!荷車隊、協力してこの紅鬼の頭部を本陣へ運べ!あとは、陣幕を張りなおせ!」
彰久はまた馬にまたがって、「頭」が隠してあった、林の方へ駆けていく。日乃輪も気になる事があったのでついていった。
彰久は林につくと、「頭」が置いてあったのであろう、茂みの中を確認している。何か落ちている物でもないか、見ておきたい気持ちは分かる。
日乃輪はかがんで、そのあたりに倒れ伏した、刺客達の息を確認した。
「息のある人が、三人います。お許しいただければ、勧善寺に運びたいのですが…。」
「物好きだな。裏切り者の、また家臣だ、わしなら放っておく。」
そう言いながら、彰久は残った家臣に、手伝ってやれ、と声をかけた。一人が陣幕の方にもどり、馬を数頭引いてきた。
「貴様が来なくても、刺客の十人ぐらい、わし一人で返り討ちに出来たが…、まぁ、一つ貸しだ。」
「それなら…、この危機を知らせてくれた人がいます、亡くなりましたが…。その方の遺族にでも、報いてあげてください。私はおまんじゅうをいただいただけで、充分です。」
「まんじゅうの礼なら、薬をもらった。小姓に飲ませたら、故郷の母親の夢を見た、と喜んでおった。」
本当に部下で試したのか…、と思うとちょっとおかしくて、日乃輪は笑った。
「薬をさしあげたのは、医者としてです。眠れないのも度が過ぎれば、病の元ですから。」
「ふん…、貴様が男でも…、医者としては変わり種だ。よくよく変わった女子よな。」
「心得ております。」
日乃輪がもう一度笑うと、彰久はちょっと目を細めた。怪我人を馬の背に乗せてもらって、手綱を引いて勧善寺にもどる。ふとふり返ると、彰久の姿は、ちょうど陣幕の内に消えるところだった…。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます