第6話
火傷には、範囲とともに「深度」がある。表皮のみ損傷した場合…、その下の筋肉まで損傷した場合…、ほとんど炭化し…、もう切断せざるを得ない場合…。幸い、紅鬼の内部から飛び出してきた人で、範囲、深度ともに死に至るほど深刻な者はいなかった。
その中で、鳥居左右吉の火傷が最も重いが…、今は処置も済み、安静にさせている。その後、物部の軍医と手分けして今日の負傷兵を見ていると、日乃輪の元に小姓がやって来た。
彰久は今、勧善寺の一室で休んでおり、日乃輪を呼んでいるという。どうやら怪我をされたらしい…。
そう聞いて、日乃輪は応急処置の道具が一式入った薬箱を持って、小姓の後についていった。日乃輪が部屋に入るなり、彰久は言った。
「見ろ、右の胸を怪我した。」
そう言われると、彰久が好んで来ている黒の筒袖の着物の、胸のあたりが血でぬれているようだ。
「ちょっと、見えにくいので…、上着を脱いでいただいてもいいですか?」
彰久は小姓に手伝わせて、左胸に当てた鷺柄の胸当てを外すと、上着を脱いだ。ああ…、彰久が槍で紅鬼に立ちむかったのを思い出す。あの時、槍が折れたが…、その破片が、右胸に刺さってしまったのだ。重傷ではない。
「この破片を抜いて…、傷薬を塗りましょう。包帯を巻いて…、後は念のため、傷から悪しきものが入って血を腐らせないように、飲み薬を…、」
「縫ってみろ。」
「は?」
日乃輪は思わず聞き返す。彰久は手で小姓に席を外すよう合図しながら言う。
「わしは戦で怪我をした事がない。これが初めてだ。負傷兵の気分を味わってみたい、傷を縫ってみろ。」
「でも、この傷なら、縫わなくても…、」
「いいから縫え。」
「では、痛み止めを…、」
「いらん、傷を縫われる、痛みを味わってみたいのだ。」
妙な事を言う人もあるものだ…、と思って日乃輪は彰久を見つめた。彰久がぷいっと視線をそらす。何故かその仕草で、日乃輪は彰久が何を考えているのか分かった気がした。
昨日、生きながら腹を割かれた男を、明日死してもかまわぬから、今喋らせろと強引に言ったのを、わびたいのではないだろうか…。彰久は主君という立場で、戦を有利に進めたいから、情報が欲しかった。そのこと自体は悪い事ではない。
しかし医者である日乃輪の立場からしたら、患者をみすみす死なせるような…、弱り切った身体に、強壮剤を使うなど、出来ない話だった。結果的に男は死なず、情報を得る事も出来た、それはそれでいいのだが…。
そうして借りにしたまま、日乃輪は今日彰久の元へ馬を走らせた。彰久の危機を救ったのである。貸し二つ…、いや、三つか。田所善助に裏切られ、刺客にかこまれたところに日乃輪が駆けつけた、あれは故人に報いてやって欲しい、と言ったが、貸しと言えば貸しだ。
「馬、つぶしてすまなかったな。新しい馬をやろう。」
「…ありがとうございます。」
日乃輪はちょっと笑った。どうしようもない駄馬だったが…、長年ともに旅をした、友達のようなものだった。きっともっといい馬をもらえるのだろうが…、あの駄馬はもういない。でも、彰久を救えた…。この事を、日乃輪は一生忘れない、と思う。
槍の破片を抜くと、血がこぼれ出てきた。思ったより傷は深いが…、やはり縫うほどではないと思う。まあ、縫っておいた方が痕は残らない、四針くらいか…。
血を止めるため少し圧迫してから、血止めの薬をぬって、少し様子を見る。だいたい血が止まったようなので、縫いはじめると、彰久は顔をしかめた。
「思ったより痛いな…。何か話せ、気が紛れる。」
「はあ…、そうですね…。」
そんな事を言っている間に、終わると思うのだが…。でも…、ふっと、彰久に、自分の事を 知ってもらいたいような気がした。何故そう思ったのかは分からないが…。
彰久は、これから東へ、東へと領土を広げていくのだろう。そこには…、様々な人が暮らしていて、自分もそんな一人だと、分かっておいて欲しい気がする。
「では、私がどうして、女だてらに医者をしているか、そのお話をいたしましょう…。」
ほら、そう言っている間に、もう三針目…、と思ったが、日乃輪は手と口を、同時に動かしはじめる…。
あれは八つの春だった。山で山菜採りをしていると、いきなり後ろから誰かに抱きつかれた。驚いてふりはらうと、背後に見知らぬ男が立っていた…。
着物は汚れ、髪も髭もぼさぼさで…、流れ者だ、と思った。男はさらに日乃輪につかみかかってきて、強引に着物をはぎとろうとする。日乃輪は、懐に入れておいた、ある物に手を伸ばした。父が言った…。
「ひいが、姉妹の仲で一番、気立てがいいなぁ…。」
そう、父はそう言って、ある物を日乃輪に…。
「だから、特別に、ひいにだけ、これをやろう。他の姉妹には内緒だぞ。」
それは細工も塗りも平凡な…、小刀だった…。それでも何もない左海の家で、多少値打ちがある物は、これだけだったのだろう。
日乃輪は刀を抜き放つ。日乃輪の上にのしかかってくる、汚らしい男の胸に、その刃を突き刺した…。
男がのけぞって、胸を押さえてもがき苦しむ…。ああびっくりした…、日乃輪は考える…。男の胸に、刃物をさしたままでは、困る…、父がくれた小刀だ、返してもらわないと…。日乃輪は柄に手をかけ、男の身体を踏みつけて、両手で小刀を抜いた。
男の胸から血が噴き出す…。汚いな…、今日名主の家で、残り湯でも、風呂を借りられるだろうか…。男はびくん、びくん、と痙攣していたが、やがて動かなくなった…。
「ひい、何か声がしたけど、大丈夫…、」
一緒に山菜採りに来ていた、母がやって来た。男の死体を見て…、母は、ものすごい悲鳴をあげた…。
役人がやって来て、日乃輪にあれこれと聞き、日乃輪は淡々と、あった事を話した。男の死体は戸板に乗せられ、役場に運ばれていった…。
また後日、聞く事があるかも知れない、と言って役人は帰っていった、日乃輪の小刀を持って…。ああ…、父のくれた小刀…、返してもらえるのだろうか。
名主の家で風呂を借りたい、と言ったが、今日は洗い場で、たらいに湯を入れてやるから、それで我慢しなさい、と母に言われた。その夜、小刀の事が気になって寝付けずにいると、父と母が話すのが聞こえた…。
「なんて恐ろしい…、たった八つで、人を殺してしまうなんて…。おとがめがなかったから、よかったものの…。」
「この噂、あっと言う間に広がるぞ。」
「ひいは器量も良くて、優しくて、一番出来た子だと思ってたのに…。」
「もう竹浦だけじゃねぇ、この近隣一帯、人殺しの噂が広がるぞ。」
「ひいは、どこかいい家に嫁げるんじゃないかと思ってたのに…。」
「もうここいらじゃもらい手なんてねぇ、お前の、播磨の兄さんの所にやるか…。」
「播磨ですか…、あんな遠くに…。」
「ひいをなんとかせにゃ…、他の姉妹まで、嫁のもらいてがなくなるぞ。」
「ああ…、恐ろしい、恐ろしい…。」
なんだか、面倒なことになってしまった、と思った。でも…、男が、いやらしい目的で、日乃輪に襲いかかってきたことは分かる…。あんな汚い流れ者に、自分の操をくれてなるものか。そう憤慨して、日乃輪は眠りについた…。
枯れ野に火がくべられたように…、噂は瞬く間に広がった。最初は馬鹿な子ども達が、人殺し、人殺し、お前にはもののけが憑いている、もののけ憑き、もののけ憑き、とはやし立てて、石を投げてきた。
すると大人達が飛んできて、ひいちゃんにかまっちゃいけない、お前も殺される…、と、子ども達を家の中に入れるのだ。もう誰も遊んでくれるものはない。
姉妹さえ、日乃輪を避けた。もののけ憑き、もののけ憑き…、皆が陰でこそこそ言う。それならそれでもいいや…、日乃輪は一人でいるのは苦痛ではない。ただ…、嫁に行けないのは、ちょっと困ったな…、と思った。
左海の家は貧しい。台所と一間の小さな家に、女の子ばかり五人の姉妹が、両親と暮らしている。親の愛情から、芋の煮っころがしまで…、何もかもが奪い合いだった。
日乃輪はそれが嫌でたまらなかった。早く家を出たい…、嫁に行きたい…。だから、あの時、男を刺してまで、操を守ったのかも知れない…。
播磨の伯父さんの家に行く、と言う話が本当になればいいな、と思った。播磨の家は、男の子ばかり三人だと聞く。
伯父さんが自分を気に入ってくれて、実の子のように、かわいがってくれないだろうか…。そうすればもう、親の愛を、夕餉のおかずを、少しでもきれいな着物を、奪い合う日々から解放される…。
しばらくして、山一つ超えたところに、母の長兄と住んでいる、祖母がやって来た。母は七人兄弟の五番目で、播磨の伯父は次男だった。
祖母と両親が話しているのをもれ聞くと、人を殺した娘と言っても、他所へやるのは外聞が悪いらしい。祖母が、播磨の伯父の所へ遊びに行く、その付き添いで日乃輪も播磨に行く、と言う形を取りたいようだ。
祖母が泊まると左海の家はますます狭い。日乃輪は早々に旅装を整えるように言われ、武蔵竹浦を出た…。追い出されたようにも思えたが、それでも…、別れぎわ、両親は泣いていた…。
親の涙を見て、親不孝をした、と言う気がしたが、では…、あの流れ者の、薄汚い男に襲われた時、自分は、どうするべきだったのだろう…。
祖母との旅はあんがい楽しかった。金子がないので、宿にはほとんど泊まれず、同じように西へ行く人と協力して、野宿をした。
川で魚を捕ったり、山野に入って、山菜や、木の実をとったり…。西へ西へと移動して行く以外は、それほど武蔵竹浦にいた頃と変わりない。むしろ、人殺し、もののけ憑き、と言われないだけ気が楽である。
でもある日、祖母に言われた。
「ひいは、自分がもののけ憑きだと思うかい?」
「さあ…、よく分からない。皆がそう言うから、そうかな…、とも思うし…。でももののけが憑いた、と言うなら、いつ私に憑いたのだろう?変わったことは何もなかった。」
日乃輪は道ばたの、蒲公英(たんぽぽ)の綿毛を摘んで、ふっと息を吹きかける。綿毛が宙に舞う…。祖母のように自分に問いかけてきた人は初めてだった。もののけ憑きである、と言うことは竹浦の人々の間では、決定事項だった。
「一つ確かに言えるのは、もしまた誰かが私に襲いかかってきて…、私を、害そうというのなら、今は小刀がないから、これでついて殺すつもり。」
綿毛が全部飛んでしまって…、日乃輪は残った茎を道に捨てると、懐から手製の「武器」を取り出した。
小刀を役人に持って行かれてしまってから…、森でなるたけ堅い木を探し、その枝を斧で断って、親の目を盗み、包丁で削った…。木製の「小刀」だ。切れ味はまあまあで、竹浦にいた時、罠にかかった野兎をしめるのに使ってみたが、人を殺すことも可能だろう。
「…ばあちゃんはね、ひいがもののけ憑きだとは思わない。」
「そう?大人は皆、ひいはもののけ憑き、って言うよ。八つで簡単に人を殺せるのだから、それはもののけがそうさせたんだって。」
言っていて…、ふと、人を殺させたのがもののけなら、自分は何も悪い事をしていない、と言うことにならないか、と思った。
では何故、竹浦の人々はあんなにも自分を恐れるのだろう…。もののけは手当たり次第に人を襲う、と言うことか…。では、やはり自分はもののけ憑きではないのではないか。
自分は手当たり次第に人を殺したりはしない…。ただ、身を守るためにそうする、と言うだけである。
「ねえ、おばあちゃん、なんだか、考えていたら、私、もののけ憑きではない、と言う気がしてきた。」
「そうね、ただほんの少しだけ…、他人とは、物の見方や、考え方が違うのかも知れない…。」
「違うから、もののけ憑きで、気味の悪い…、怖い子と思われるの?」
「そう思っている人が、残念ながら、いることは確かだよ。でも違う、と言うことは悪いことじゃない。」
正直…、祖母が、自分をもののけ憑きだと思うか、と聞いてきた時、面倒くさい話がはじまるのか、と思ったのだが、祖母の言う事に興味が出てきた。
「父さんも母さんも、もうひいはお嫁に行けない、と言っていたけれど、ひいは器量がいいから、お嫁に行くのなんていつでも行けるさ。そんなことより…、」
「私、お嫁に行きたいな、ってずっと思ってた。でももう播磨の伯父さんの所に行くから…、どっちでもいい。」
「そう?それならね、ひいの、違うところ、をどんどん伸ばしていったらどうだろう。」
「違うところ、を伸ばすの?」
「うん、人殺し、って皆が言うなら…、逆に人を生かすことに、違う、を使っていったらどうだろう。」
「人を生かす…。」
「そう、播磨の伯父さんには…、ばあちゃんからよく話しておくから。そうだね、ひいは、自分は人と何が違うか、いいところを探しておきなね。」
「人と違う、いいところを、探して、伸ばす…。」
「ひいはいい子だから、これをやろう。」
祖母は懐から、きれいな布で包まれた長細い物を取り出した。祖母が布をはらう…、小刀だ。父がくれたのとは比べものにならないほど、細工も塗りもいい小刀だ。
「これはね、ばあちゃんのまたお母さんからもらったものだよ。本当は、ひいの母さんが、左海の家に嫁ぐ時、渡すべき物だったんだけど…、左海の家は貧しいだろう?あげても、質屋に持って行かれるんじゃないかと思って、とっておいた。」
「こんなきれいな物…、本当に私がもらっていいの?」
「いいよ、その木で出来た小刀と交換だ。」
日乃輪は無邪気に喜んだ。細工は鶴と亀で、塗りは紅い。婚礼用の物なのだろう。鞘をはらってみると、白銀の刃は良く研がれている。
「この小刀を、ずっと持っておいで。そうして…、ばあちゃんが、人を生かすことに、違う、を使え、と言ったこと、良く思い出してね…。」
そうして祖母は、日乃輪をそっと抱きしめてくれた。
「ひい…、知らない男にいきなり抱きつかれて、襲いかかられて…、怖かったね。」
怖かった…、だろうか…。いや、驚きはしたけれど、怖かったのではない…。嫌悪感と、自分を守ろうと意気持ち…、そして、死んでいく男の様子を…、何か珍しい物でも見つけたように、観察していた自分…。
血も、死も、恐ろしくはない…。母は悲鳴を上げていたな…。多くの人は、ああ言う時、怖いと思うものなのだ…。自分の中の「違う」を漠然と感じる…。この漠然とした何かを、育てていくべきなのか…。
数ヶ月かけて、ようやく播磨の渡辺荘についた。商いで成功した、伯父、政幸…。立派な屋敷、居並ぶ使用人、仕立てのいい服を着た従兄弟達…。挨拶が済むと、伯父は言った。
「妹の所は…、貧乏してるとは聞いたが、日乃輪のそのなりはひどいな。まずはばあちゃんと風呂に入って来い。そしたらきれいな着物を、いくらでもやろう。」
伯父の、渡辺の家での暮らしは、夢のようだった。まず着るものだ。今までは色あせて、元の色がなんだったのか分からないような、古い着物をつぎはぎしていたのに、日乃輪に新品の、色とりどりの着物が与えられた。
次に食事が違う。左海の家では、米に雑穀をまぜた粥と、野菜を煮た汁物、これに魚でも付けばいい方だったが、伯父の家では一汁五菜ぐらい当たり前だった。
左海の家では、夜はくたくたのせんべい布団で、すきま風にふるえながら眠らなければならないが、渡辺の家ではふかふかの布団にくるまって、暖かくして眠れる…。
嫌なことがあるとすれば…、まあ、従兄弟達が、日乃輪を使用人のように扱うことだったが…、それは仕方ない。ただでおいてもらうのは悪いから、日乃輪はすすんで渡辺の家の仕事をした。従兄弟達があれこれ言いつけるのも、はいはい、と答えて用事を済ました。
それと、どこからもれたのか、結局日乃輪が武蔵竹浦で人を殺し、もののけ憑きと呼ばれて居場所がないので、播磨へ移ってきた、と言うことがばれてしまった。
竹浦の時ほど露骨ではないが、あの噂は本当なのかしら…、と人々は囁き合い、すすんで日乃輪と遊ぼうという同年代の子どももいない。
でも、本当にそんな事はどうでも良かった。「渡辺長者の姪」としてふさわしいように…、と、伯父は学問までさせてくれた。読み書き算術を覚えることはそれは楽しかった。
祖母は渡辺の家にしばらくいた。何ヶ月も歩いてきたのだ、疲れたろうと、伯父は祖母を湯治場に連れて行ったり、物見遊山もさせた。
祖母が武蔵に帰る…、と言った時、淋しかったが、なんとなく、自分はもう、武蔵と縁が切れた方が、もののけ憑きの噂もなくなって、いいのではないか、と思った。
「御文を書くね…。」
「ああ、それは楽しみだ。」
それが祖母と、直接会話をした、最後の言葉だった気がする…。祖母は渡辺の家の使用人に送られて、武蔵へと帰っていった…。
伯父も日乃輪のことを「ひい」と呼ぶようになって…、渡辺荘にもずいぶん馴染んだ、と思えた頃、仙石原で戦が起こった。勢力を拡大する、安芸物部氏の若き当主、物部彰久と、播磨仙石原周辺に勢力を持つ冬月宗勝との間で争いが起こったのだ。
日乃輪はまだ政治の事はよく分からなかった…。ただ、勧善寺が負傷兵の療養所になり、日乃輪に勉強を教えてくれていた坊さんが、傷兵の世話で忙しくて、渡辺の家に来られなくなってしまった。
勧善寺は今危ないから、近付いてはいけないよ…、そう言われていたのだが、貸してもらっていた子どもむけの仏教伝承の本の、上巻を読み終わってしまった。
下巻を借りに行くだけ…、そう思って勧善寺に足をむけると…、そこは、人手不足もきわまった、「戦場」だった。
道薫和尚、と呼ばれている、京から来たという人が、慌ただしく指示を飛ばして、駆け回っている。その指示を受けた坊さんや、村の壮年の男衆も、めまぐるしく動き回っている。
いつの間にか…、日乃輪も道薫和尚の指示を受けて駆け回っていた。はじめは、やることは主に、血の付いた包帯などの洗濯、負傷兵にふるまう食事の支度だった。
そのうち和尚の薬箱から、言われた薬をとる、傷兵の包帯をかえる、塗り薬をぬる、粉薬を飲ませる…、やる事が増えていく。日乃輪は勧善寺に通い詰めた。
多くの人が、血を流し、苦しんでいる…。例えは悪いが、日乃輪に刺されてのたうちまわっていた、あの汚い男と同じである。放っておけば死ぬのだろう。
これ、ではないか…。血が怖い、血が怖いと、壮年の男衆でも言う。日乃輪は…、ちょっと汚いな、とは思うのだが、怖くはない。
しかもその汚い、と言う認識さえ、道薫和尚に覆された。血とは人体で重要な役割を果たしており…、異国での実験によると、人は総身の三分の一の血液を失うと死に至ると言うのである。
血は、重要な物…、そう思えば、血の付いた包帯を洗う仕事さえ、尊く感じられる。これ、ではないか…。これ、が自分の、人と違う点…、いや、単純に血が怖くない、と言うことではない。
何か上手く言えないのだが…、今、自分は道薫和尚について、人を「生かす」仕事をしている。和尚は自分を信頼して、薬草の知識や薬の調合法まで、惜しみなく伝授してくれる。
きっとそうだ、「これ」なのだ。祖母は人を生かせ、と言った。傷病人を診る、医術者となる事が、自分の天命なのではないか…。
子どもだったので、「人を生かす」、すなわち医術、そう思った。本当は祖母が言いたかったのは、もっと深い意味で…、仮に日乃輪が出家し、秋津志摩を放浪して道を説く事を選んだとしても、それで生かされる人はあったかも知れない。
しかし日乃輪の関心は、道薫和尚の語る「医」の知識にどんどんむかっていった。もともと学ぶことが好きだったせいもある。しかし、仏教の伝承を学ぶより、医を学ぶことはより実践的で、当時の日乃輪の心を強く打った。
やがて戦が終わった…。物部の殿様が勝ち、冬月の殿様はその傘下に入る。渡辺荘もこれからは、冬月の殿様ではなく、物部の殿様に税を納める事になる…。
物部の殿様は農民思いで、無理な税はかけないそうだから、これから暮らしが豊かになるのではないか…。そう大人達が話しているのを聞いた。
勧善寺からも、あの喧噪は去り…、動ける者は安芸に帰り、すぐには動けない重傷者だけが残った。その重傷者も、一人去り、二人去り…、渡辺荘は、平穏を取りもどしていった…。
そんなある日、日乃輪は道薫和尚と山に薬草を採りに行った。
「ひい、もう少ししたら、この和尚も…、京に帰ろうかと思ってるんだが…。」
「そうなのですか…。」
それは残念だ…、もっと教えて欲しいことが、たくさんある…。
「それで…、ひいが良ければ、この和尚の弟子になって、一緒に京に来ないか?」
「えっ!いいんですか?」
「嬉しいのか?」
和尚が意外そうに言う。
「もちろんです!嬉しいです!ぜひお弟子にしてください!よろしくお願いします!」
日乃輪はぺこり、と頭を下げた。嬉しくて、本当は踊り出したいくらいだった。胸がわくわくしてきた。
「渡辺の家での暮らしのように…、贅沢はさせてやれないぞ。この和尚は馬鹿だから、病人だ、怪我人だ、と言えば誰でも診る。損得は二の次よ、だから、ひもじい日もあるかも知れない…。」
「かまいません!元はと言えば、貧農の子です!渡辺の家での暮らしが、夢だったとでも思えば…、ひもじいのくらい、どうと言う事はありません!それよりも学びたいのです!」
「そうか…、嬉しいか…。そう言ってくれるなら、この和尚も嬉しいよ。今まで…、自分は弟子をとるほどの器ではないと思っていたんだが…。さすがに歳かな、自分の積み重ねてきた物を…、誰かにたくしたくなった。ひいは飲み込みが早い、きっとすぐにこの和尚を追いこすだろう。」
「…女でも、医者になれるものでしょうか?」
日乃輪の心配は、むしろそこにあった。
「それはなれるさ。今までそう言う人がいなかったと言うだけで…。女は、年頃になると嫁に行き、子を産み、育て…、だんだん、家の用事以外では出歩かなくなっていく。ひいは、結婚しなくていいのか?」
「最近は、あきらめるようになってきました…。」
実は伯父は、日乃輪を引き取る時、よく教育や礼儀作法を仕込んで、いい家に嫁にやろうと思っていたようである。しかし、人殺しの、もののけ憑き、と言う噂は、もう仙石原のあたりで知らぬ者はいない。
確かに、はるばる武蔵から里子のようにしてきたのだから、何故そんな遠方から…、と詮索したくはなるだろう。何処に行ってもそうなるなら…、もう嫁のもらいてはない、と考えた方がいい。
「まあ、まだ結婚の話をするには早いな。今日の仕事が終わったら、渡辺の伯父さんの所に、あいさつに行こう。伯父さんがいい、と言ってくれれば、ひいはこの道薫和尚の弟子だ。」
伯父ももう、もののけ憑きをもてあましているだろう。話はとんとん拍子に…、行かなかった。
伯父は、祖母からよくよく面倒を見てやって欲しい、とあずかった子を、いくら京から来た「名医」、道薫和尚相手だからと言って、簡単には弟子に出せないというのだ。
伯父は日乃輪の嫁入りをあきらめてはいなかった。「渡辺長者の姪」と言えば、多少の打算はあっても、嫁に欲しいと思う者はいるはずだ、と考えていたようである。
日乃輪は祖母に手紙を書いた…。医学を学びたいと思っていること…、祖母の言っていた、人を生かす道とは、「医は仁術」を実践することにあるのではないか、と考えていること…。道薫和尚が素晴らしい人物である、と言うことも書いた。
伯父も祖母に宛てて手紙を書いた。女が医学など、馬鹿馬鹿しい、嫁に行くことこそが女の花道ではないか…、それを日乃輪に諭して欲しい、と書いたようである。
やはり武蔵は遠い。文がちゃんと祖母の元に届いたかも分からず、半年が過ぎた。道薫和尚は京に帰らず、一緒に返事を待ってくれていたが、日乃輪は気が気ではなかった。
返事が来たとして、もし伯父の言う事を聞きなさい、と言う内容だったら…。日乃輪はだんだん、嫁に行けない、のではなく、嫁に行きたくない、と考えるようになっていた。道薫和尚と一緒にいるのだ、自分は医を学ぶのだ…。
伯父には悪いが、いっそ黙って家を出てしまおうか…、とさえ思いはじめた頃、祖母からの返事がやっと来た。
日乃輪の、好きなようにさせてやって欲しい…。日乃輪はもう飛び上がって喜んだ。それでも伯父は渋っていたが…、渡辺の使用人が一人、京について行って、道薫和尚の暮らしぶりを確認する、と言うことで話がついた。
「女が医者をするって…、聞いたことがない。きっと皆そう言いよるよ…、だから、辛いことがあったら、いつでも帰ってきなさい。」
帰ってきていい…、そう言ってくれる伯父を見て、日乃輪は、播磨は第二の故郷…、いや、辛い思い出が多かった武蔵より、自分にとってはいい場所だった…、と思った。
播磨から京のある山城へはそう遠くない。伯父が金子を持たせてくれたので、宿にも泊まれた。そう苦労することもなく山城に入った…。
幕府の権勢が衰え、京は荒れてはいたが、やはり秋津志摩の中心である。見るもの聞くもの、全てが新しい…。
道薫和尚は、京の旭陽寺という寺で庵を結んでおり、そこで傷病人を診ていた。そして時々、戦の噂を聞くと、その戦の地に旅に出て負傷兵を診察し、また医学の知識を広めるのだという。
贅沢はさせてやれない、と言われていたので、覚悟していたのだが、そう悪い暮らしではなかった。確かに診察代…、と言って、現金を置いて行く者は少ない。
だが一汁三菜ぐらいは普通だった。それに日乃輪が来たことで、診察代の代わりに女の子が喜びそうな物を置いていく人もあった。着る物などには全く困らなかった。渡辺の使用人は、一ヶ月ほど日乃輪と和尚の様子を見ていたが、やがて播磨に帰っていった。
この頃、京で流行っていたのが蘭学である。長崎から異人がやって来て、異国の様々な知識を披露した。何もかもが秋津志摩よりすすんでいた。
もちろん医学も、である。暇を見ては和尚と二人、異人の開く診療所に通った。和尚が漢方の知識を異人に教える代わりに、異人は西洋医学の知識を二人に伝授する。
見慣れない文字が並ぶ異国の書物…。日乃輪と和尚は、異人の言葉も習った。異国の文化への興味は尽きなかった…。
その日も異人の診療所で一日の大半を過ごし…、すっかり帰りが遅くなってしまった。提灯を持つ日乃輪に、和尚がついてくる。日乃輪は思い切って口を開いた。
「ねえ、和尚…、私、考えていたのですが…、」
「はは、日乃輪、異人の国に行きたい、って言うんだろう?」
「そ、そこまでは考えていません!秋津志摩を出るなど…、伯父に対して、あまりにも不義理です。でも、せめて長崎に…。」
「そうかそうか、長崎でいいのか?じゃあ、ちょっと行ってみるか?」
「本当ですか?」
「この間大坂から、娘の病気を診て欲しい、って大店の使いが来ただろう?あの仕事、行ってみようと思うんだ。そしたらまとまった金になる。その金で二人、長崎まで行こう。」
「和尚も長崎に行きたかったのですね?」
日乃輪は嬉しくなった。和尚にも渡辺の伯父から日乃輪を預かっている、と言う義理がある。もし日乃輪が一人で…、と言うなら駄目だろう。
しかし道薫和尚も一緒なら大丈夫だ。伯父と、あと武蔵の実家や祖母には、報告した方がいいかもしれないが…。
「ああ、行ってみたいねえ。人は生涯、学ぼうとすれば学べるものだとは思ってたが…、六十を過ぎて、まだこんなに面白いことがあるとは思わなかった。蘭学は実に興味深い…。」
日乃輪が和尚の「いい」と思うところは…、子どものように、好奇心が強い、と言う事だった。長崎に思いを馳せる和尚の目は、夜目にも輝いていることが見て取れて、日乃輪はおかしくなって笑った。六十を過ぎた…、とは思えない。少年のような目だった。
それからしばらくして、二人はまず大坂にむかった。大店の、齢十五になる美しい娘が、肺の病で伏せっていた。
幸い労咳ではなく、娘が家に籠もりがちで、身体が弱っていたところで肺炎になったものだと分かった。薬を処方し、生活習慣の改善なども指導した。
娘の病が完治すると、思った以上の収入になった。二人はしばらく長崎に滞在することを前提に、旅費を節約し、あちこちで病人、怪我人を診ながら長崎にむかった。
思えば日乃輪も…、まだ十を二つ、三つ出たばかりだというのに、ずいぶん長い旅をしている。まだ八つだった、あの日、あの時、自分に襲いかかってきた、流れ者の男を小刀で刺していなかったら…、きっと、武蔵からさえ出なかっただろう。
早ければもう縁談が持ち上がっていたかも知れない。それが武蔵から播磨へ、播磨から山城へ、そして今度は、肥前の長崎まで行こうとしている…。
医学を学んだ今だから思う、人の命を奪うと言う事は、とても重い「罪」…。それでも、人殺しとなった身を、後悔してはいない…。
例え医術で、この先何人救おうが、お前はあの時、人を殺した、と後ろ指さされるかも知れない。それでも、やらなければならないことを、やるだけ…、それはずっと変わらない、ずっと…。
長崎では、瀬川大成と言う老漢方医が、漢方と蘭学…、西洋医術を学びたいという人のまとめ役をしていた。
日乃輪と道薫和尚も大成老翁の世話になる事にした。大成老翁は異人とともに働く、大きな療養所を営んでいた。
はじめて京に着いた頃のように、長崎での日々はなにもかもが新鮮だった。異国の布地、異国の食べ物、そして、西洋医術…。目がくらむかと思うほどに、毎日発見があった。日乃輪は夢中で学んだ。
道薫和尚と大成老翁は気が合い、よく二人で酒を酌み交わしては、夜遅くまで話し込んでいることがあった。
日乃輪は年配者からはかわいがられたが、どうも同じ年頃の子とはそりが合わない。大成老翁の療養所には、やはり医学を学びたいと言う、十代の男の子達が出入りしていた。
しかし、女のくせに学問などして、生意気だ、とからまれることがよくあった。彼等を黙らせようと、剣術をはじめたのはこの頃である。
それに、日乃輪には一つの疑問があった。西洋医術では、手脚の切断が必要な時に、斧をもちいることが多い。しかし、それですぱっと、きれいに断てたためしがない。
患者も苦しむし、術後もよくない。以前刑場で、太刀の試し切りを見たことがある…。罪人の遺体を吊るし…、剣士が気合一閃、やっ、と切ると、なんと人の胴が真っ二つになってしまった。
あれは太刀の切れ味もさることながら、剣士の腕も良くなければならない。剣を学ぶ事は、意外に医術にもつながっていた。剣は人の急所を狙う。そこから人体の構造が見えてくる…。
やがて道薫和尚が亡くなった…。苦しむこともなく、静かな最後だった。日乃輪と和尚で、最後に交わした言葉はなんだったろう…。
ちょっとそこの、なになにを取って…、とか、ありふれた、日常の会話だったと思う。ひたすら前へ前へとすすんできた日乃輪だったが、さすがに和尚が亡くなったことで、心が空虚になった…。
祖母も亡くなった、と言う便りをもらった。ついぼんやりと、海を見ている日が多くなった。大成老翁が言った。
「日乃輪君…、良かったら、わしの頼みを聞いてくれないかね。悪い話じゃない…、わしの知り合いの開業医の、お孫さんがちょうど、君ぐらいの年頃でな…、嫁さんを探している。医学が出来る女子なら、願ったり叶ったりだ。ぜひ…、」
「私は…、武蔵に帰ります。」
自然とその言葉が出ていた…。親には心配をかけた、帰って孝行がしたい…。それに…、祖母の墓にもお参りしたい。
「こう言ってはなんだが…、武蔵は東国だ、田舎だよ…。君の腕を、埋もれさせてしまうのは惜しい…。」
「なにも、もう武蔵から二度と出ない、と言う事ではありません。一度帰って親孝行して…、そして、私も道薫和尚のように、戦の噂でも聞いたら、戦場におもむきますよ。」
「正直に言えば…、君の成長を、見守っていたい、と言う気持ちなんだが…。」
「それなら、また長崎に来ます。最新の医学書が出たら、武蔵竹浦の、私の実家宛に、送って下さい。金子を置いて行きます。」
「金の事なんて…、心配いらないよ。書物はぜひ送らせてもらおう。」
「…縁談、気をつかっていただいて、ありがとうございます。」
そんなやりとりのあとも…、老翁はしきりと日乃輪をひきとめた。それでも…、長崎の海を見ていたら、竹浦の海が、無性に恋しくなった。
海の色…、潮の香り、砕け散る波頭のさま…、なにもかもが違う…。日乃輪は、旅装を整え、惜しまれつつ長崎をあとにした…。
通り道だったので、播磨の伯父の家にもあいさつに行った。道薫和尚と播磨を出てから、実に六年の歳月が過ぎていた。
京や長崎の様子…、和尚は亡くなったけれど、もう一人前だと言ってもらえたこと、話は尽きない。必ず役に立つから、と伯父の畑を一つつぶして、薬草園に変えてもらった。
伯父も日乃輪をひきとめた…。やはり縁談を用意してくれるという。だが…、かつてはあんなに、嫁に行くことに憧れていたのに…、今は、ピンとこないのである。
いつでも竹浦の実家を、出られるようになったからかも知れない…。日乃輪は、伯父にもまた播磨に来ます、と約束した。
伯父は日乃輪の薬箱が重そうだ、と言って、季節外れに生まれて安いが、馬を用意してくれた。それが本当にありがたくて…、必ず播磨にまた来よう、と思った。だが、播磨の海も竹浦の海とは違うのである。日乃輪は東へ、東へとむかい、やがて武蔵竹浦に帰った。
両親はそれは喜んだ…。訳ありとは言え、八つで手放した子が、両親が見たこともない、京や長崎で学問して、一人前になり帰ってきたのだ。
姉妹はもう皆、嫁に出ていた…。日乃輪は実家で開業した。伯父にもらった馬の力を頼りに、実家の裏の荒れ地を耕し、薬草を植えた。
空き時間には子どもの勉強も見る、と周囲に伝えた。だが日乃輪が、女だてらに医者になった、と聞いて、竹浦周辺では「もののけ憑き」の噂が再燃した。
もののけ憑きの子が、大きくなって帰ってきた…。異国の医術を学んで、帰ってきた…。妙な布袋に、おっかない太刀ぶらさげて…、怪我して腐るところは、皆あの太刀で切ってしまうんだと…。
おっかない…、恐ろしい…、おっかない…、恐ろしい…。噂に尾ひれがついて、日乃輪は京や長崎でも人を殺したとか、裏の畑で作っているのは毒草だ、とか言う話になってしまった。
日乃輪は苦笑した…。まあ、このあたりで医者らしい医者などいない…、いずれ怪我人か病人が出れば、自分の出番はあるだろう。
少し落ち着くと、山を越えて母方の長兄の家にもあいさつに行った。この長兄の伯父が何度も言った…。ばあちゃんは死ぬ直前まで、日乃輪はどうしているだろう、と言っていた、と…。
日乃輪は祖母の墓前に立った…。生きている間に、何か孝行したかったな…、心配ばかりかけていたのか…。そんな思いがよぎった、祖母には、本当に感謝している…。
祖母が人を生かす道を探してみろ、と言ってくれなかったら、日乃輪はただなんとなく播磨で暮らし、伯父がとりつけてくれた縁談でもうけていただろう。
おばあちゃん…、私、秋津志摩大和国に、まだ、そう言う人はいないかも知れないけど…、女の医術者として、立派になってみせます…。
涙があふれてきた…。いったい、いつ以来の涙だろう。薄汚い流れ者を刺した時も、泣かなかった。武蔵竹浦を離れる時も、泣かなかった。播磨から山城へ、山城から肥前へと移る時も泣かなかった。
道薫和尚が亡くなった時も泣けなくて、それと前後して受けとった、祖母が亡くなったという便りにも泣けなかった。今祖母の墓前に参って…、ようやく実感した、大切な人の死…。
やっぱり、必ず長崎にもどろう、道薫和尚の墓前でも、思いっきり泣こう。ひとしきり泣くと…、清々しいような気持ちになった…。
日乃輪は近隣の村に嫁に行った、姉や妹の子の面倒を見るようになった。と言って、まだ学問をはじめるような歳の子はいないから、実質ただの子守である。
この子達に、長崎で覚えた西洋の焼き菓子…、「かすていら」をふるまってやると、たいそう喜んだ。
秋津志摩の菓子とはまた違う、甘い香りに釣られてきたのか、近所の子達も集まってきた。最初は遠巻きに見ているだけだったのだが…、日乃輪の甥や姪が、美味しそうに菓子をほおばっているのを見て、近所の子達は、じょじょに近付いてきた…。
「…ひいちゃんは、もののけ憑きだって、本当?」
ある日、とうとう菓子の誘惑に勝てなくなったのか、近所の子達が話しかけてきた。
「ううん、もののけ憑きじゃないんだよ。ひいちゃんも、自分でそう思うし、ひいちゃんのおばあちゃんも、もののけ憑きじゃないよ、って言ってくれたから、本当に本当。」
「…でも、父ちゃんと母ちゃんが言ってた。ひいちゃんは、八つの時に、熊みたいな大男を、小刀一本で倒して、刺し殺して、それでケタケタ笑ってたって。」
そんな尾ひれがついていたのか。日乃輪はおかしくなって笑った。
「それはね、ちょっとした誤解…。ひいちゃんが八つの時に人を殺してしまったのは本当だけど…、もののけ憑きだからそうしたんではないよ。」
ちょっと待ってて、と子ども達に言って、日乃輪は家の台所に入った。「かすていら」はまだ残っている。
「はい。これはね、長崎という所で、ひいちゃんが覚えてきて作ったお菓子だよ。家に帰って、お父さんとお母さんにも食べさせてあげなさい。それで気がむいたら…、お礼は芋でも菜っ葉でもいいから、ひいちゃんの所で、学問をしてくれると嬉しいんだけど。」
子ども達に菓子を配ると、子ども達は、もうよだれを垂らさんばかりの目で、菓子を見ている。少し年長の子が言った。
「勉強すると、何かいいことある?」
「そうだね、一つには可能性が広がる、と言うこと…。もしひいちゃんが、何も勉強しないでいたら、竹浦でお嫁さんになって、子ども産んで、田んぼやって畑やって…、それでおばあちゃんになってしまう。でも勉強したから、今、医者になれたよ。まだお嫁さんにはなってないけど…、ひいちゃんは医者になれて、とっても幸せだよ。」
子ども達は顔を見合わせている…。ピンと来ないのかも知れない。竹浦にいたら、漁師をやるか、田畑を耕すかしか生きる術がないように感じるだろう。
「それと…、極端な話かも知れないけど、勉強しないで、何も知らないでいると、悪い人にだまされてしまう事がある。ひいちゃんは旅先で、こんな事があった…。」
道薫和尚と長崎にむかおうとしていた時である。茶屋に立ちよって、茶屋の主人と話していると、和尚が医術者だと言う事が分かって、主人はこう言った…。
ここから少し離れたところの村で、重い病が流行っている。「岩代導師」という旅の修験者が病を見ているが、良くならないのは、村の者の信心が足りないからだとか、祖先の霊がたたっているとかで、導師が彫った霊験あらたかな仏像を、高値で買うよう言われているのだという。
それで村の者達は、なんとか金を工面しようと、家畜を売ったり、親類縁者に金を借りたりしているのだと。
なんにせよ、そんな病をもらってしまったら大変だからと、誰もその村によりつかない、村は孤立し…、人々は病と借金とにあえいでいるらしい。
話しを聞いただけで、嫌な「におい」がした。道薫和尚と日乃輪はその村へむかった。もちろん、いんちきを見破るためである。
岩代導師という中年男は、村の中央の広場で火を焚かせ、それらしい祈祷をし、高熱を発している患者達に、おたまじゃくしを飲ませて、そして自らが彫った仏像に祈るよう勧めている。
日乃輪と和尚は何も知らない旅の者を装い、岩代導師の目を盗んで患者を診た。するとその病は…、何の事はない、高熱が出やすい流行性の感冒で、薬を飲んで安静にしていれば治るものだった。
日乃輪と和尚はこの事実を村中にふれてまわり、薬を配った。信心すること自体は悪いことではないが、おたまじゃくしを飲ませるなどは迷信に過ぎず、治療とは呼べない、と…。
怒った村人達は岩代導師を吊し上げようとしたが、もう後の祭りで、導師は逃げ出していた。仏像に払ったお金も、もちろん帰ってこない。
村人達は仏像を叩き壊した…。役場に届け出たが、結局、岩代導師は捕まらなかった。村には借金だけが残り…、日乃輪と和尚は、せめてもと、この種の感冒が流行った場合に効く薬草を選んで、薬草園を作り、今回の治療代は、もらわずに村を去った…。
子ども達が不安そうに眉をよせたので、怖がらせてしまったかな、と思い、日乃輪は優しく笑った。
「…残念だけど、こう言うことは珍しいことじゃない。もっと身近な例で言えば、浜で魚がとれて、仲買人が来る。山の方でその魚、いくらで売ってるのか知らなければ…、仲買人に安く買いたたかれてしまう。知る、学ぶと言う事は、自分達を守ることにもなる。」
子ども達は分かったのか分からないのか…、それでも何度もうなずき、菓子を持って帰っていった。
この日子ども達に話して聞かせたことは、意外な方向に発展した。数日後のことである。
「ごめん。」
仕立てのいい着物を着た二人連れが、左海の家を訪れた。
「左海日乃輪とおっしゃるのはどなたか?」
「私ですが…?」
相手が、なんだ、小娘ではないか…、と思ったのがありありと顔に出た。
「子ども達が言っている。貴女は大変な学問をして、医学にくわしいというのは誠か?」
「道薫和尚という方に師事して、京と長崎で合わせて六年ほど学問をしました。まだ駆け出しですが…、医者を生業としたいと思っています。」
「では、猫は診れるか?」
「猫ですか?」
相手はなんだか、診れないとは言わせない、と言うぐらいの勢いで、すごんでくる。
「竹浦長者の所に、猫がいる。先日、長者の家からふっと姿を消してしまって…、皆で探したら、山の方で見つかった。野良犬とでも喧嘩したのか、足を怪我している。なんとか連れ帰ることは出来たが、ひどく気が立っておってな、傷を見させてくれぬ。それを診てくれ。」
「…診ましょう。」
武蔵竹浦に帰って、医者としての初仕事が猫か…、と思って、がっかりしなかったと言えば嘘になる。
しかし獣は人間よりやっかいな面がある…、とも思った。言って聞かせることが出来ないからだ。日乃輪は馬に薬箱を積み、男二人に従って、馬を引いていった。
竹浦長者の家は、日乃輪が住んでいるあたりから南に二里ほど行ったところにある。用がないのに出向くところでもないから、長者の家の辺りの人は、知らない人ばかりだ。
あれがもののけ憑きの日乃輪だってよ…、なんでも学問したって、子ども達にいばり散らしてるらしいじゃない…、と囁く声がする。
いばり散らしているとは心外だが…、このあたりでは、まあ学問した、と言うなら竹浦長者の家系の子ぐらいだろう。それを貧しい左海の子が、学問したの医者だのと言っていれば、いばっている、と、とられるのかも知れない。
長者の家に着いた…。当代の竹浦長者は、あんがい腰の低い人で、遠いところをよく来てくれた、と玄関で出迎えてくれた。
くだんの猫は、家具と家具との狭い隙間に入ってしまって、出てこないという。日乃輪がちょっとのぞいてみると、前脚をしきりとなめている。早く診た方がいいな…、と思った。
俗に傷口につばを付けておけば治る…、などと言うのも迷信で、口の中というのはあんがい汚いものだ。犬猫ならなおさらである。
日乃輪は布袋と、またたびを用意してもらって、猫を罠にかけた。またたびの入った袋に、猫がしっぽまで入ったところで、さっと口を閉じてしまう。
そうして怪我をした前脚だけ出して、痛み止めを塗り、膿を出来るだけ出して、傷口を素早く縫った。化膿止めと傷薬を塗って包帯を巻き、今度は猫の頭だけ出して、首の所で口をしばってしまう。
これで一週間、一週間、布袋の中で暮らしてもらう。糞便は垂れ流しになるが…、仕方ない。こうしておかないと猫はまた傷をなめ、包帯を解くし、口からまた傷を腐らせる悪しきものを入れてしまう。
処置する間、猫はもう暴れに暴れた。日乃輪一人では抑えきれないので、竹浦長者の家人が二人で猫を床に押しつけ、そのすきに傷を縫った。
猫は処置が終わると、布袋に身体が収まっているとは思えない早さで、また家具の隙間に入り、日乃輪の顔を見ると凄い剣幕で威嚇してきた。
治療の一部始終は竹浦長者も見ていた。猫の傷があんがい酷かったので、それを見て思わず、うっ、と声を漏らしていた。
一週間後…、傷はすっかりきれいになっていた。傷口を縫うのに使った、絹糸を切ってはずすと、ほとんど何もなかったかのようだ。
あとは濡れた大判の布で、猫の汚れをきれいに拭いてやればいい。竹浦長者は感心することしきりで…、日乃輪にかなりの礼金を払った。
そして、左海日乃輪は名医だ、名医だ、と会う人ごとに言ったので…、日乃輪は竹浦長者公認の医者、と言うことになった。
なったのだが…、人は日乃輪を、もののけ憑きの医者、猫又憑きの医者、また、猫又先生などと呼ぶようになった…。
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