第4話

 日乃輪が渡辺荘に到着して、一週間ほどが瞬く間に過ぎた。その日は怪我人が多く、攻城戦も佳境に入ってきたことがうかがえる。昼餉を抜いてしまった…。夕餉ぐらいはのんびり食べたい…。

 そう思って、つい寺の台所をのぞいてしまった。どうせ精進料理なのだが、それと知っていて、日乃輪には誰かしら魚などを差し入れてくれる。

「ああ、日乃輪さん…。」

寺の若い僧が、困ったように言う。

「うっかりして、味噌を切らしてしまって…。渡辺の長者様から、お借り出来ないでしょうか…?」

「ああ、それなら行ってきましょうか?」

日乃輪は、返り血で汚れた割烹着を脱いだ。こうしておけば着物が汚れない、と分かっているのだが、なぜか割烹着を着る習慣がつかない。今日はたまたま着ていたので、身なりはわりと綺麗だ。

念のため顔を洗って、鏡で身ぎれいになっているか確認し、伯父の家へ歩いて行った。味噌を借りるだけだから、伯父に挨拶するほどではないだろう。

 門の所で警護している侍に挨拶して、中に入れてもらった。庭でかがり火が焚かれ、兵達がそこかしこにいる光景は、まさに戦のさなか、と言う感じだ。

 裏手にまわり、台所に入った。

「すみません、勧善寺で味噌を切らしていて…、少しお借り出来ますか?」

「あら、日乃輪さん。それなら誰かに持って行かせますから…、少し、物部のお殿様と話していかれたらどうですか?」

女中頭が言う。

「え?どうしてですか?」

話ならこの間もしたし…、鯛を片手にぶらっと勧善寺に来る人だ、話したければまた会うだろう。

「美髯様ね、折に触れては、長者様に日乃輪さんのこと聞いてるんですよ。小さい頃はどんなお子さんだったか、とか…。気に入られたんじゃありません?」

 ちょっと皮肉めいて言う。もののけ憑きが、中つ国十二カ国の太守と親しげにしている…、と思うなら、確かに皮肉かも知れない。

「まさか…。私、生意気ばかり言って…。なにか、物珍しいように、思われているだけでしょう。」

「生意気…、それがかえって良いのかも知れませんよ?美髯様のあの男ぶりですもの…、たいていの女は、唯々諾々として、美髯様の思いのままでしょう。」

そんなものだろうか。いくら彰久が男前、と言っても、意のままにならない女ぐらいは、いるのではなかろうか。

「ちょいと、あんた、勧善寺に味噌を届けてあげておくれ。」

女中頭はそばにいた中年の女中に声をかけ、日乃輪の手を引いて、廊下の方に連れて行く。

「今、美髯様は、湯殿をお使いですから、この着がえの着物を持って、声をおかけなさい。話し相手はご入り用ですか…、って。」

 仕方ない…、着がえを届けて、それでもどってこよう。もし本当に、彰久と話しこんでしまったら、もののけ憑きの娘が、美髯殿に媚を売っている、とでも噂が立つかも知れない。いや、女中頭は、そんな噂を立てたいのかも知れない、そんな気がする。

 日乃輪はため息交じりに、草履を脱いで脱衣所にむかった。着物はいつも彰久が着ている、黒の筒袖の物ではなく、緑の地に金糸で刺繍がしてある、なかなか品のいいものだった。

 一声かけて脱衣所の戸を開ける…、と、中から小姓が飛び出してきた。思いっきりぶつかって、床に膝をついていた日乃輪は、後ろに転げてしまった。

「も、申し訳ない!急な腹痛で…、少々、席を外します!」

そう言いながら、厠の方へ駆けていく。びっくりした…、水あたりか、食あたりだろうか。もどってきたら、何か薬をやろう…。

そう思って、散らばってしまった着物を集め、たたみなおしていると、湯殿の戸が、がらっと開いて、彰久が出てきてしまった。

一糸まとわぬ姿で、ただ太刀だけ持っている。日乃輪を見ると、にやっと笑った。

「なんだ、貴様、のぞきに来たのか?」

「殿方の裸が見たければ、堂々と見れますよ。医者ですから…、裸になって下さい、と言えばいいだけです。」

日乃輪は手ぬぐいをさしだした。よく鍛えられた身体だ…。大名、と言う人種に会ったことがないでもない。たいていは美酒美食に溺れ、太っていた。

「小姓はどうした?」

彰久が髪をふきながら言う。

「急な腹痛だそうで…、厠へ走って行かれました。」

「ふん…、では仕方ない、貴様、ちょっと着がえを手伝え。」

日乃輪は脱衣所の戸を閉めて、彰久の言うままにする。今、人手がないわけだから、確かに仕方がない。

「太刀…、持ってお風呂に入られるんですね。」

「ああ。美濃の権堂紀頼と言う大名を知っているか?」

「いえ…、あいにく…。」

「今から五十年くらい前の人物だ。風呂に入っている真っ最中に、謀反した家臣に斬り殺されてしまったそうだ。その話しを聞いて以来、わしは常に手の届くところに、太刀は置いておく。」

 なるほど…、素っ裸で、本当に「丸腰」の所を襲われてしまったわけか。それが後世に伝わって、教訓にされてしまっているのでは、権堂なにがしという人も、あの世で恥ずかしい思いをしているだろう。

 ある程度着がえを手伝うと、日乃輪は彰久の背後にまわって、丁寧に髪をふいた。

「髪…、長いですね…。」

普通に髷を結うには、充分すぎるほど髪がある。普段は高く結っていて、背の中程の長さだが、こうしておろしていると、腰まである。

「ふ…、『傾き者』、か?」

「いいと思いますよ。個性は大事だと、私は思います。」

「はは、貴様が言うと、説得力があるな。」

日乃輪は個性の塊…、と言うことだろうか。日乃輪は髪をふき終わると、櫛をとって梳きはじめた。

「…多恵だったら、おかしいと言って笑うだろうな。」

「たえさん、ですか?」

「女だ。以前話した。」

ああ…、恋仲になった、と言う人のことか…。

「どう言う字を書くのですか?妙なる、の、たえですか?」

「いや、多くを恵む、と書く。」

「いいお名前ですね。私…、『日乃輪』なんて、大仰な名前ですけど、何の事もない、日の出の頃に生まれただけなんです。」

「たいした意味はない…、か。」

彰久が少し笑った。自分で小さな櫛を取り出し、髭を梳いている。

「貴様のこと、少し渡辺の長者に聞いた。子どもの頃から、利発で、目端が利いて…。ただ、周囲と打ち解けない子どもだった、とか。」

「ああ…、私、世をすねていたんです。どうせもののけ憑きと呼ばれているから…、誰も、友達になってくれない、って…。」

「…わしも、そんなところがあった。親しく接してくれるのは、多恵だけだった。」

その時、彰久がふと言った。

「おい、大きな蜘蛛がいるぞ。」

「まあ。」

日乃輪は櫛をおいた。

「これ、油虫(ごきぶり)を捕ってくれる蜘蛛ですね。でも家人は嫌がって叩きつぶしてしまうかも知れない…。外に出してやりましょう。」

日乃輪は懐紙をちぎって、蜘蛛の背の方にあて、窓の方へ追いやる。彰久がちょっと苦笑した。

「女というものは…、蜘蛛が出たと言っては騒ぎ、雷が鳴ったと言っては騒ぐものかと思ったが、貴様はことごとく違うな。」

「油虫は嫌いですよ。」

日乃輪はちょっと笑う。雷は好きなぐらいだった。多恵さんは…、蜘蛛や雷を怖がったのだろうか。

「でも、悲鳴を上げて逃げまわる、と言うわけではないだろう?むかうところ敵無し…、怖い物知らず、か?」

「そう言う事にしておきましょうか。人を信頼して、自分の弱点は煙草のやに…、と教えてしまって、身を滅ぼした大蛇の故事もありますし。」

「別に貴様の嫌いな物を贈って、嫌がらせしようという意図はない。」

彰久は笑う。

「貴様、ちっとも多恵に似ていないな…。だが…、」

何か言いかけて、彰久は言葉を切った。

「いや、何でもない。さがって良いぞ、じきに小姓ももどるだろう。世話をかけたな。」

 日乃輪は一礼して、脱衣所を出た。廊下で小姓と会ったので、腹痛が続くようなら、この水あたりなどに効く薬を…、と渡した。

それでも良くならないなら、勧善寺を訪ねるように言って、台所にもどる。女中頭が声をかけてきたが、適当にあしらった。

多恵に、似ていない…、だが…。だが、なんだったのだろう…。日乃輪は空を見上げる。月は朧で、その形もよく分からなかった。


 その翌日…、日乃輪は相変わらず、忙しく立ち働いていた。信勝は少し熱を出し…、心もとないのだろう、日乃輪にあれこれと話しかけてくる。

 可哀想だが、信勝にばかりかまってもいられない。解熱剤の他に、気休めにと甘味のある偽薬をやった。医者というとなぜかぐずる子どもが多いので、そう言う時のために携帯している。

「今日もまた人足が集められとるねぇ。」

「なんでも、目隠しされて仙石原のどこかに連れて行かれるんだと。それでやらされる事と言えば、ひたすら穴掘りだ。」

手伝いに来てくれている、荘の年配者達が話している。

「ああ…、物部の殿様は、紅鬼を穴に落とすんだろ。」

「なるほど、罠にかけるのかぁ。」

日乃輪はちょっと眉をしかめた。

「…それ、軽々しく言わない方がいいんじゃないですか?私が言うのもなんですけど、ここには、冬月方の傷病兵もいるわけですし。」

「それもそうだな。穴に落とされると分かってたら、紅鬼さんこちら、手の鳴る方へ、とは行かないもんなぁ。」

年より達が笑う。のんきだな…、罠と分かっていれば、獣とてかからぬと言うのに…、日乃輪はつい、鼻の頭にしわをよせた。

 しかし人の口に戸は立てられない、と昔の人も言ったもので、もう気が付けば、あちらでもこちらでも、「物部の殿様は、紅鬼を罠にはめるのだ、穴に落とすのだ。」と言っている。

注意してまわってもきりがない。傷病人というのはあんがい暇なのだ。怪我の状態、病気の症状が落ち着いてくれば、やる事もなくただ寝ているだけである。

そこに話の種が出来たから、もう看病する者、される者の間で、あの大きな紅鬼を落とすのなら、穴も相当に大きく掘らなければ…、いやそう簡単に罠にかかるまい…、などとこの話で持ちきりである。

しまいには、「美髯様が穴掘りゃ、紅鬼が落ちてくる」と節を付けて歌い出す者まで出てきた。どうしようもない…。日乃輪は正直…、嫌な予感がした。


 夕刻になり、その日出た傷病兵の手当もだいたい終わった頃である。

「待て!お前ら、何処へ行く!」

日乃輪が井戸の所で手を洗っていると、鋭い叫び声が聞こえてきた。人の入り乱れる音…、また南門の方だ。

日乃輪が急いで行ってみると、門の外で、物部の警備兵に、四、五人の怪我人が押さえつけられている。その顔には見覚えがある。腕の骨折や火傷などで収容されている、冬月方の兵だ…。

「ち、ちょっとした出来心だよ!」

「俺達は…、もともと冬月の兵なんだ。」

「お情けで勧善寺においてもらってたんだよ!」

怪我人どもが口々に言う。警備兵の長が眉をしかめた。

「もともと冬月の兵とはどういう事だ。渡辺荘は物部の…、」

「…逃げだそうとしたんですね。」

日乃輪が進み出て、押さえつけられている怪我人の前でかがんだ。

「女医者さん…、あ、あんたには感謝してるよ。」

「だけど今日の噂話、聞いたろう。紅鬼を穴に落とすって…、この事、冬月の殿様に報告すりゃ、褒美がもらえると思ったんだよ!」

「どういう事ですか?」

警備兵の長が日乃輪に話しかけた。

「ここ…、勧善寺には、敵、味方の分け隔てなく、傷病人は出来るだけ多く運んでくれるよう、私がお願いしたんです。」

「なんと!ここは恐れ多くも、物部彰久様の御本陣ですよ!」

「戦が始まる前に取り決めた事です。私がこちらまで出向いて、診察するに当たっては、傷病人の区別はしない、と…。」

「そんな!敵兵は敵兵です!貴重な薬、貴重な米をさいて面倒を見てやるなどと…。」

「そうしなければ、物部の陣深くに入った冬月の兵は、のたれ死にしてしまいます。戦が終われば、同じ中つ国の民です。」

警備兵の長が舌打ちする。

「これだから女子は…、話にならない!誰か、彰久様を呼んでこい!」

警備兵の一人が駆け出していく。

騒ぎを聞きつけて、あたりには人垣が出来ている…。ひいちゃんが、冬月の負傷兵でも勧善寺に入れろって…、でも怪我人は怪我人だ、平等に見てやらないと、本当に死んじまう…、そうは言っても…。

人垣の中から、囁き声が聞こえる…。日乃輪は考える…。無駄に人が死ぬ事だけは、ないようにしなければならない。彰久が来たら、とりあえず謝ろう…。

どう言ったら納得してもらえるか…。重傷で、露営などさせられないような冬月の兵もいる。勧善寺を追い出されたら…。

「何事だ?」

しばらくして、彰久が大儀そうにやって来た。

「はっ!この女医者が、殿に断りもなく、勧善寺に冬月方の負傷兵も収容していたのです。それで本日日中、殿が紅鬼を罠にかける方策だと噂が立ち…、この者どもが、脱走を図って、今捕らえたところです。」

「申し訳ございません!」

日乃輪は膝を折り、頭を下げた。

「全て私の独断でした事です。どうぞ女の浅知恵とお笑いください。ですが、今は敵味方に分かれていても、同じ中つ国の…、」

「日乃輪、立て。」

日乃輪が言うのをさえぎって、彰久が面倒くさそうに言う。怒っている…、そう感じて、日乃輪は少し怖くなった。まさか、いきなり手討ちにはされないだろう、とは思うが…。

立ち上がった日乃輪の額のあたりに、彰久の手が伸びてくる。日乃輪は思わず目をつぶった。

「一言言え、阿呆。」

ペちん、と言う音がして、額を軽く叩かれた。日乃輪は、一瞬何が起こったのか分からなかった。

「は…?」

「わしもそんなに狭量ではない、怪我人をまとめてみてやるぐらいは、どうでもいい。おい、脱走を図った、と言うのはその方らか?」

彰久はふり返って、捕らえられている男どもを見る。

「貴様ら、忠心から、ここを抜け出して、松丸城に行くつもりだったのか?」

「…忠心なんて、たいした物じゃねぇです。ただ、物部の殿様が紅鬼を穴に落とすつもりなんだと、冬月の宗勝様に申し上げれば、褒美がもらえると思ったです。」

彰久は長い髭を指先でもてあそんでいる。

「ふーん、褒美、もらえると良いな。行っていいぞ。」

「彰久様!」

警備兵の長が驚いて声を上げた。

「この者らは、殿がお考えの、紅鬼攻略法を盗み聞きして…。」

「よい。人足を集めた事、仙石原で穴を掘らせている事、冬月の斥候も見知っているだろう。行きたいというなら行かせてやれ。」

警備の者らが手を緩めると、冬月方の負傷兵は、ぱっと飛び出していって、仙石原の方に駆けていった。

「申し訳ございませんでした!貴重な兵を割いて、勧善寺を警護していただいたうえ、このような騒ぎを…。」

日乃輪が再び頭を下げると、彰久はまた面倒くさそうに言う。

「その事はもう良い。今日はな、貴様にもらった薬を飲んで、ちょっと床でごろごろしてみようかと思っていたところだ。眠くなれば幸いだ。もう今日はよほどの大事でなければ呼ぶな。」

礼をする警備兵に背を向け、彰久はのんびりと去って行った。

「殿の、寛大なお心に、感謝する事ですね。本当に殿はお優しい…。」

警備兵の長が、苛立たしげに言って、持ち場にもどっていく。日乃輪はそちらにも頭を下げた。人垣からも安堵の声がもれ、やれやれ…、よかったよかった、物部の殿様は、情けの深いお方だ…、と言った言葉とともに散って行く。

日乃輪は大きく息をついた。彰久が、あんなに寛大にふるまってくれるとは思わなかった。冷徹…、と言われた彰久である。冬月方の傷病兵全員に、何らかの処罰があるかと思った…。

日乃輪は仙石原の方を見た。松丸城にもどっていった負傷兵達は…、寛大に、あつかってもらえるのだろうか…。


翌日の昼頃になって、日乃輪はちょっと勧善寺をあけた。昨日の騒ぎを聞いて、心配した伯父が訪ねてきたのだ。また仙石原が見下ろせる丘に行こうという。

「お前…、全部自分がした事、ってゆうたらしいが…、冬月の傷病兵も勧善寺で診る、って条件でひいを呼んだんは、この渡辺政幸よ。ちったぁ頼ってくれたって…。」

「いえ、伯父上に迷惑をかけるわけには…。」

「じじいが死んでも長者の席は息子が継ぐ。しかしひいが死んだら…、その医者の席は誰が継ぐ?誰もおらんじゃろ?」

「もうちょっと名が知れたら…、弟子でも取りますよ。」

「じゃあ、それまで、自分の身も大事にしろ。」

女医者の弟子になりたい…、と言う者がいれば、だが…。丘の上に出ると、やはり仙石原がよく見えたが…、日乃輪は、戦場の変化にすぐ気が付いた。

「伯父上、これは…。」

「ああ、遠眼鏡もある。松丸城の方を見てみろ。」

主戦場に…、紅鬼がいないのである。我が物顔で火を吐き、四肢で物部兵を蹂躙していた、あの紅鬼が…。

伯父に言われるままに、松丸城の方をみると、本丸のそばに、紅鬼がちょこん…、と四肢を丸めて座っている。そうしていると、祭りの山車にでも乗せる人形のようだ。しかし、どうして…。

あらためて主戦場に目を向ける。冬月、物部、双方が激しく激突しているが、物部兵の一部が、松丸城の西の丸の壁に取りつきはじめている。

城内から矢を射かけたり、石や丸太などを落として妨害しているが、勢いは物部方にある。政幸が言った。

「人足に出たもんに聞いた。なんでも目隠しされて仙石原に連れて行かれて…、とにかく穴を掘る。それで数刻すると、また目隠しされて、仙石原の別の場所に連れて行かれるんだと。そこでも穴を掘る。その繰り返しよ。仙石原はこの通り、なんにもない、だだっ広い野っ原だ。目隠しされたんじゃ、今自分がどの辺に穴掘っとるかは…、まぁ、分からんな。」

「では、罠のある位置は…。」

「ああ、物部の美髯殿しか、知らんのかもしれんな。冬月の斥候も出とるだろうから…、穴のいくつかは、本当に紅鬼を引っかけるために掘っとるもんじゃないのかもしれん。褒美欲しさに松丸城に、この穴の事知らせに帰ったもんは…、じゃあ罠はどこにある、って冬月の殿さんに聞かれて、返答につまっとるじゃろ。」

「でも罠はある…。下手に紅鬼を動かしたら、その罠にかかってしまうかも知れない…。」

「そういう事じゃな。大事な紅鬼にもしもの事があったらいかん。少なくとも斥候が確かな情報を持って帰ってくるまでは、紅鬼はあの通り…、赤子のように丸まって、じっとさせとく他ない。だが、罠の場所がはっきりするのが先か、物部の兵が松丸城を征するのが先か…、まぁ見物よな。」

もしかして…、彰久が昨夜あんなに寛大にふるまっていたのは、こうなる事を見越して…。なんだか全身の力が抜けていくような感じがする。してやられた、と言う気持ちだ。

だが同時に、感心というか感謝というか…、そう言う思いもわいてくる。そうか、罠の場所は分からないのか…。松丸城にもどった負傷兵達が、むげにあつかわれていないといいのだが…。

日乃輪はもう一度遠眼鏡を目にあてる。仙石原全体を見渡してみるが、人足がどこで穴を掘っているかは、戦塵に紛れて分からない。

西の丸の攻防が激しさを増している…。戦に関しては素人だが…、夕刻までには、西の丸は落ちるのではないか、そのように見えた…。


夕刻になって…、残念ながら、その日は西の丸は落ちなかった。あと一押しだったようだが、冬月方が耐えたのである。

あの丘からもどってから…、日乃輪は鶏卵、小麦粉、砂糖などを調達した。他に長崎で買い求めて、今も大事に持っている調理道具を用意して、伯父の家にむかう…。夕餉の支度の終わった台所をちょっと借りて、長崎で教えてもらった、菓子でも焼こうと思う。

勧善寺のこと、冬月方の負傷兵のこと…、彰久に礼が言いたかった。

「ああ、あの『かすていら』、とか言う菓子、焼きよるんか。久しぶりに、食いたいなあ。」

伯父が台所に来て、日乃輪が菜箸を動かしているのを見る。

「真ん中の、一番形のいいところを、彰久様にさしあげるので、端の方は伯父上にあげますよ。」

伯父が珍しく、子どものように笑うのを見て、日乃輪もちょっと笑った。この菓子は道薫和尚も好きだった…。彰久が、喜んでくれるといいが…。

焼き上がったのを切り分け、茶を入れた。彰久が私室に使っているという、客間にむかう。ふすま越しに声をかけると、彰久から入室するよう促された。

「失礼します。」

「おう、お前に借りた書物、読んでいるぞ。興味深いな。だが自分の腹の中もこうなっている、と思うと複雑な気分だ。」

彰久は機嫌が良さそうだ。明日には確実に西の丸が落ちる…、今日落とせなかった、と言うこだわりより、先を見ているのだろう。

「先日は本当にありがとうございました。冬月方の傷病兵に対し、寛大なおはからいを…。おかげさまで、容態が落ち着き、床に起き上がれるようになった者もおります。」

「ああ、それはどうでもいい話だ。貴様は貴様の好きなことでもしていろ。傷を縫ったりはったりするのが、好きなのだろう?」

「好きか、と言われれば…、難しいですね。縫って、きれいに治った傷が、好きです。」

日乃輪はおかしくなって笑った。傷を縫うのが好きな医者がいるだろうか…。ちょっと肉を調理するのに似ている。肉は美味いが…、切っている時は気持ちが悪い。

「で、なんだ。その手に持っているものは。」

「心ばかりのお礼と思いまして…、異国の焼き菓子を焼いてみました。どうぞ、ご笑納ください。」

「ほう、長崎で覚えたのか?」

「はい、『かすていら』と呼ばれております。」

「ふーん…。」

彰久は無造作に一切れつまむと、口の中に放り込んだ。

「甘いな。しっとりとして柔らかで…、なかなか美味い。貴様いつもこんな美味いものを食っているのか?」

気に入ったのか、彰久は二切れ目を口に運ぶ。

「いえ…、まあ、武蔵で、子ども達の気をひくのに焼いたりしています。武蔵竹浦では、もののけ憑きで有名なので…、こんなものでもなければ、人がよりつきません。」

「子どもを診るのか?」

「病気をすれば診ますが…。菓子で釣るのは、竹浦の子らに、学問をさせたらいいのではないか、と思うからです。」

彰久は全て平らげて、懐紙で手を拭くと、茶をすすった。

「畑を耕したり、魚を捕ったりするのに、学問が必要か?」

「いらない…、と言う人が大半だと思います。でも私は…、もののけ憑き、と呼ばれるようになっても、故郷を遠く離れても…、学問をしたことを、誇りに思っています。」

彰久はちょっと目を細めた。

「貴様の…、そう言うところ、悪くない。わしも…、わしのことを、よく思わない者からは、毒蛇、などと呼ばれている。」

「それは存じませんでした。」

麗しの「美髯殿」が、「毒蛇」か…。

「別にそれでいい。うしろめたいことは何もない。貴様も…、」

彰久は立ち上がって、日乃輪のすぐそばまで来ると、じっと顔をのぞき込んだ。

「八つで人を殺した罪、わしが許そう。」

そう言って、そっと日乃輪の手をとった。

「中つ国十二カ国の太守が言うのだ。秋津志摩に、これほど多くの国を従えた者は、今はおらん。どうだ、安心したか?」

「…はい。」

日乃輪は驚き…、そして安堵した…。ああ…、自分は、ずっと誰かに…、そんな風に言ってもらいたかったのかも知れない…。

ただ…、同時に、この罪が消せない烙印なのだと言う事も分かっている。それでも…、誰もゆるしてくれない罪を、彰久唯一人は、ゆるしてくれる…。それは嬉しいことだった。今まで誰も…、本当に誰も…、そうは言ってくれなかった…。

彰久が毒蛇なら…、その毒は、人たらしの毒だろう、と思った…。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る