2 最終回

 七十代の男性が、同じく七十代の女性を連れて外来に来たのは、夏真っ盛りの暑い日だった。男性は、Tシャツに作業ズボンのような簡単な恰好で、髪はぼさぼさで、髭もそっておらず、急いで来たことがわかった。連れられた女性はパジャマのままで、同じく髪はぼさぼさ、というよりベタついた感じで、清潔行動がとれていない様子であった。病院入り口で借りた車椅子に座らされ、あさっての方向を見ている。

「先生、妻の様子がおかしいんです」

 女性は、意思疎通のとれない状況であった。でも、意識はあるししゃべりもする。バイタルサインも安定している。ただ、支離滅裂だった。

「神様がね、え? 違うって、そうそう。知らなかったの? それはお空のことでしょう。ああ、そこの人、お知り合い?」

 女性は、誰もいないところを見つめたまま、誰にも聞こえない誰かとの会話を、一人でしていた。

「ここ数年、物忘れは多かったんです。年齢的なものかと思っていました。でも、こんなにわけのわからないことは初めてです」

 男性は、慌てて外来に連れてきたという。もろもろの検査を行い、ここ数年あったという物忘れの症状は認知症だろうということがわかった。それ以外に身体的な疾患は見付からなかったため、精神科への受診となった。その結果わかったことは、女性の患者は、認知症の悪化とともに統合失調症を発症していることだった。その入院の手続きに関わったのが、ソーシャルワーカーの木内さんだった。

 患者は、意思疎通のできない支離滅裂な状況であったため、自分の意思で行う任意入院ではなく、精神保健福祉法に則った、家族の同意による医療保護入院が適切であると思われた。そのことを説明されると男性は、難しい顔をしたという。そして、焦ったように話し始めた。

「実は、もう何十年も内縁の関係なんです。子供はいないし、わざわざ籍をいれるタイミングがなくて、ずっとそのままで、でも、夫婦として暮らしてきました。そういう場合、その医療保護入院っていうのは、できるのでしょうか?」

 男性は、「家族なんです」と強調した。

「残念ながら、できません」

 内縁関係が三年以上あれば、事実婚であり、婚姻関係と認められる。でも、一人の人間を拘束できる力のある精神保健福祉法は、非常にデリケートな法律であり、医療保護入院の同意者に内縁関係の配偶者は含まれない。そのことを、木内さんは男性に説明した。

「そうですか。わかりました」

 男性は、そう言って帰っていった。消沈しているようだった。

「逃げちゃうかもね」

 外来の同僚看護師は言った。私も、その可能性はあると思った。七十代になり、入籍していない内縁関係の妻が、認知症と統合失調症を同時に発症し支離滅裂になった。このままであれば、老老介護は免れない。診察時、「自分の知っている妻じゃないみたいだ」と訴えていた男性。このまま入院の手続きに来なくても、責任はない。だって、戸籍上は他人なのだから。

 家族が来なければ、市町村長同意の医療保護入院に切り替えて入院の手続きが行われる。患者の安全を考えれば入院は必要で、同意者になれる家族がいない場合でも患者を保護できるような仕組みになっている。内縁関係の配偶者が入院手続きを行えないのは、支離滅裂な患者を騙して「内縁関係です」とどこかの他人が言い張ったところで、医療者側にその関係性の確認がとれないからだ。また、退院の許可も同意者が行うことになる。そうすると、患者が回復してもなお、退院させたくない他人が、いつまでも退院を許可しないという問題も起こりうる。一人の人間を拘束できる法律というのは、非常に繊細である。

 その日の、日勤が終わる直前であった。件の男性が、汗をかきながら病院に入って来た。服装は朝のままだった。

「木内さん、いますか」

「ソーシャルワーカーの木内ですね、お待ちください」

 受付にやってきた男性は木内さんを呼び出すと、開口一番こう言った。

「木内さん、入籍してきました。これで、医療保護入院できますよね」

 私を含め、外来にいた看護師はみんな驚いた。木内さんだけが、穏やかに微笑んで「ごくろうさまでした。暑かったでしょう。あちらでゆっくり手続きをしましょう」と言った。

 男性は、すぐに役所に行ったのだ。内縁の妻を、戸籍上も妻にするため。そして、自分の責任で医療保護入院させられるために。そうしてから、入院に必要な荷物を抱えて、病院に駆け込んだ。真夏の夕方であった。一日奔走したであろう男性は、汗だくで、朝より髭も伸びて、でも格好良かった。

「愛だねえ」

 逃げちゃうかもね、と言った同僚の看護師が、しみじみ呟いた。

「愛だね……」

 私も呟いた。

 あとから木内さんに聞くには、入院中も甲斐甲斐しく面会に来て、とても仲良さそうに過ごしていたそうだ。認知症は回復しないけれど、統合失調症の症状は内服治療で少しずつ安定しているらしい。私は、あの日、男性がこのまま逃げちゃうかもしれない、と少しでも思った自分を恥じた。この夫婦の何十年は、もうとっくに夫婦だったのだ。家族だったのだ。戸籍の有無は関係なかった。ただの手続き上のことに過ぎなかった。家族って、夫婦って、法律が決めるものじゃないんだ。そう思わせてもらえた夫婦との出会いだった。


「さあ坊、何ぼーっとしている?」

 二つ目のスイカに手を伸ばしたまま過去を過ごしていた私は、父の言葉で我に返る。

「うーうん、なんでもない」

 やっぱり、悪いことばかりじゃなかった。幸せな出会いもたくさんあった。教えてもらったこともたくさんあった。きっと私は、出会った人々と、その関わりの中で、少しずつ少しずつ、小さな宝物をたくさんもらってきた。悲しい出来事でも、きっと私にくれたものはある。私を形作ってきてくれた、たくさんの人との出会い、そして別れ。どれもきっと、今の私を成す上で、一つも欠けちゃいけないものだった。

 私の胸中を知ってか知らずか、両親はのんびりとスイカを食べている。

「それで、今は何の仕事をしているんだ?」

「今はね、携帯電話の部品の検品工場で働いてるの」

「お、じゃ、これにもさあ坊が検品した部品が使われているのかな?」

 父は自分のスマートフォンを眺めて言った。

「世界中の人の生活に欠かせないものを作る大切な仕事ね」

 母は優しく微笑んだ。

「それで、ご機嫌な理由は、そのお仕事のことなのかしら~?」

 母が冷やかすように言う。

「それは……関係ない」

 うまく言葉を返せない私は、唇を尖らせてごまかす。でも、田丸さんの存在が、私を変えたのは事実だ。今でも、看護師のときに感じた悲しみに気持ちが持っていかれることはある。過去に呼び戻されてぼーっとしてしまうこともある。でも、その都度に「あの日の私は確かに悲しかった」「あの日の私は確かに患者さんに寄り添った」「あの日の私は確かに頑張った」と、自分を認めることで、少しずつ気持ちの整理ができている気がする。それは、あの夜の公園で、田丸さんに何もかも隠さず全て話せたからだと思うし、さらけ出した私を見てもなお、田丸さんが私を好きだと言ってくれたからだ。周回遅れの地球の上で、私は田丸さんに出会えた。逃げたこととちゃんと向き合っていたから今の私がいる、と気付かせてくれた田丸さん。

 あの暑い夏の日に、医療保護入院のために奔走した男性を見て「愛だねえ」と呟いた同僚が、夜の公園で泣きじゃくっていた私を抱きしめた田丸さんを見たら「愛だねえ」と呟くのだろうか。そう言われたら私は「愛だよ」と言えるだろうか。今なら、言えるだろうか。

 私は二つ目のスイカにかぶりつく。口の端に滴る果汁を拭いながら、今度は田丸さんを連れて帰ってこよう、と思った。もしかしたらすでに姉が「冴綾、彼氏できたと思う」と両親に報告しているかもしれないな、と思ったら、意固地になっていた自分が愛しくて、何もかも全部許してあげたいと思った。泣きそうな気持ちと笑いたい気持ちが両方溢れてくるから、結局笑いながら、少しだけ瞳が潤んだのを、スイカを咀嚼してごまかした。




おわり

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

周回遅れの地球の上で 秋谷りんこ @RinkoAkiya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ