第2話
山の麓の村に連れて行くと提案したが、俺の住む荒屋がいいと女は言う。
一緒に暮らし始めて数年が経ち、自然の流れに身を任せ、俺と女は夫婦になった。
家族が、連れ合いができると、生活にも張り合いが出てくる。猟も上手くいく日が増え、暮らし向きも少しずつ豊かになっていった。
全ては女――妻と共に暮らすようになってから。妻は、世捨て人のように世間を儚み、所詮は生きるも死ぬも一人切りだと陰にこもっていた俺に、幸せを運んで来てくれたのだ。
そして妻の腹には、俺の子が宿っている。十月十日近くの時を経て、俺と妻の愛の結晶が、今まさに生まれ出ようとしていた。
「あぁ、痛い……」
「まだ耐えてくれ! 急ぎ麓の村まで駆けて、産婆を連れて来るから」
きっと妻は、俺だけでは心許無いはずだ。村の産婆には、腹の子の途中経過も診てもらっている。子を産んだ経験を有している同性が一緒に居たほうが、妻も心強いに決まっているだろう。
飛び出して行こうとする俺の足首を掴み、妻はフルフルと激しく頭を横に振る。
「大丈夫! 私一人で、大丈夫です……。お願いだから、誰も呼ばないで。アナタも、私がよいと言うまで、外で待っていてください」
「なにが一人で大丈夫なもんか! 安心しろ。俺の足なら、あっという間だ」
産婆によれば、初産は陣痛が始まっても、生まれるまで時間がかかると言っていた。腹が痛いと、陣痛を訴え始めてから、時間は然程経過していないはずだ。
「大丈夫。俺を信じろ」
「ダメ! 待って、行かないで……。お願いです。アナタァ!」
制止を振り切って駆け出し、切羽詰まった妻の声を背中で聞く。
(待っていろ。絶対、絶対に……無事に子を産ませてみせる!)
休む間も惜しんで走り続け、産婆に事情を説明して用意をさせると、麓の村から蜻蛉返りする。帰りは産婆や荷物を背負いながらだったが、それなりに速く到着できたと思う。
山中の小路を走り、我が家が見えてくる。大風が吹けば今にも吹っ飛んでしまいそうな荒家が、俺と妻、そして生まれてくる我が子の小さな城だ。
「ああぁああっ!」
荒屋の中から、妻の絶叫が聞こえた。
(まさか、もう生まれるのか?)
間に合ってくれ! と心の中で強く念じながら、重い足を踏み締める。
息は荒く、脇腹も痛い。足は重たいし、産婆と荷物を支える腕も限界だ。
(踏ん張れ、頑張れ! 生まれてくる、我が子のために……家族のためにッ)
やっとの思いで辿り着き、勢いよく戸を開ける。
あぁぁあああん! という、赤子の産声が鼓膜をつんざいた。薄い敷布団の上で、ウゾウゾと手足を動かす小さな物体。産まれたばかりの小さな体に力を込めて、元気に、声の限り泣いている。
(あぁ……なんて、危うい命なんだろう)
とても尊く、愛しい存在。
そして傍らには、どこから侵入して来たのか、白く大きな蛇が鎌首をもたげていた。
サーッと血の気が一気に引いた直後、瞬時にカッと頭に血が上る。体の中を巡る血液が、全て沸騰したかのように熱い。怒りの感情が迸った。
「あぁ! くそっ、なんで蛇が……ッ」
俺と妻の、大事な赤子が、噛みつかれでもしたらたまったもんじゃない。
急いで産婆を下ろし、戸の脇に置いていた薪割り用の鉈を掴む。
「オラッ! 俺の子から離れやがれッ」
鉈を頭上高くに振りかざして、グッタリと衰弱し、気力が枯渇していそうな白蛇に勢いよく振り下ろす。
パッと、見るも鮮やかな、真っ赤な血飛沫が勢いよく上がった。
白蛇の目は大きく見開かれ、驚いたように俺を映す。
「アナ、タ……」
白蛇の口が動き、妻の声で俺を呼ぶ。
俺は耳を疑い、目を見張った。
赤子の傍らには、妻が身につけていた着物。白蛇は、着物から這い出たようにも見受けられる。赤子から伸びる臍の緒が、白蛇に繋がっていた。
「嘘だろ……?」
外で待っていてと言っていたのは、この姿に変じてしまう可能性があったからだろうか。
俺に見られたくなかった、妻の、もうひとつの姿。
どうして、帰って来たのが今だったのだろう。もう少し遅く帰って来ていたのなら、この場面に遭遇することはなかったかもしれないのに。
「あ……あっ……」
目の前の光景を信じたくないのに、赤子の泣き声が現実から目を背けさせてくれない。
膝から崩れ落ち、手からはポロリと鉈が落ちる。
胴が離れた白蛇は、最後の力を振り絞って赤子に這い寄り、愛しそうに頬擦りをした。次第に赤子は泣き止み、スヤスヤと寝息を立て始める。
安心したのか、徐々に白蛇の頭が下がり、ゆっくりと静かに目蓋が閉じて、パタリと事切れた。
「そんな……っ、そんなぁッ! う~ッ」
ああぁぁああ!
目の前の惨状に放心している産婆の目もはばからず、獣のように咆哮する。
俺の愛した妻は、生まれたばかりの赤子の母は、女恋が池の伝説になっていた……白蛇に変じたという女で間違いない。
「なんで……どうして?」
尋ねても、返ってくることは無い答え。
自分の手で殺してしまった愛しき妻と、再び泣き始めた赤子を両の腕に抱き、声の限り泣き続けた。
終
女恋が池の白蛇 佐木呉羽 @SAKIKureha
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