女恋が池の白蛇

佐木呉羽

第1話


 俺は猟の最中に獲物を求めて、女恋めこいが池にやって来た。


 ここは昔、結婚が嫌で池に身を投げた女が、蛇に姿を変えたという伝説が残っている場所だ。夫になるはずだった男は美しいと評判だった女を諦められず、女よ帰って来い……と嘆きながら通い続けたという謂れから、『女来いが池』から『女恋が池』となったらしい。


 山の奥に存在するこの池には、飲み水を求めて、しばしば動物達が集まる。鹿か猪が居たら狙おうと、俺は銃の用意を始めた。

 火薬を詰めて、弾も詰め、縄に付ける火も用意する。茂みから池の畔を伺うと、そこに動物とは違う影を見つけた。見間違いかと己の認識を疑ったけれど、先入観は捨てて、ジックリと目を凝らす。

 陽の光は茂る葉によって遮られ、池の周りは薄暗い。白をまとうその塊は、どうやら動く気配が無さそうだ。

 銃を構えながら、音を立てず、慎重に距離を詰めて行く。

 横たわる影がなんであるか、やっと判断が下せる所にまで近づいた。


「……女だ」


 白い着物を来た女が、気を失っているのか、眠っているのか……一定の呼吸のまま目蓋を閉じている。

 ここに置いたままでは、この女のほうが、熊や狼といった獣の餌食になってしまうかもしれない。

 急いで銃を片付け、温もりを持つ女を抱きかかえる。

 女恋が池で女を拾うとは、かなり不気味だが、見捨てておくこともできない。

 意識が戻れば、自分の家に帰るだろう。とりあえずは、目を覚ますまで。目を覚ましたら、どうにでもなる。

 自分に都合のいい解釈をして、女を抱えたまま家路を急ぐことにした。



 コトコトと鍋の音がする家の中は、囲炉裏の近くだけが明るかった。

 灯し油なんていう高価な照明は無い。狭い荒屋あばらやを明るく照らすには、囲炉裏の火だけで十分だ。

 鍋の中には、少しの野菜屑と稗と粟。本来なら、ここに獣の肉が入る予定だった。

 少し悔しい気持ちを奥歯で噛み締め、薄い敷布団に寝かせている女を見やる。

 よく見れば、目鼻立ちの美しい女だ。髪は尻の辺りまで長く、綺麗な濡れ羽色。睫毛も長く、眉の形も弓形ゆみなりだ。紅が引いてあるように唇は赤く、弾力がありそうなポッテリ具合。肌の色は白いが、頬に張りはあり血色がいい。きっと、食うには困っていない階級の人種。

 麓の村で、こんな女を見かけたことも無ければ、美しい女が居るという噂も聞いたことが無い。

 果たして、この女は本当に人間だろうか。人なのか、あやかしなのか、どちらなのか。俺には判断ができないでいた。



 パチパチと爆ぜる火の粉。モソリ……と、身動ぎをして衣が摺れる音がした。

 お椀に一杯の晩飯を食べ終え、板の間の上で寝転んでいた俺は、女を寝かせていたほうへ顔を向ける。ゴロンと、俺に背を向けるように、女は寝返りを打っていた。モゾモゾと、体が動く。腕に力を込めて上半身を持ち上げると、ゆったりとした緩慢な動きで、美しいかんばせを俺に向けた。


「どちらさまでしょう?」


 清らかで、鈴がコロコロと転がるような可愛らしい声。この女から発せられた声音なのかと、思わず我が耳を疑った。

 答えない俺を不思議に思ってか、女は小首を傾げる。長い髪も、サラリと流れた。


「もし……。耳が聞こえぬお方でしょうか?」


 重ねられた女の問いに、俺は答える。


「耳は聞こえている。そして、どちらさまでしょうは、俺の言葉だ」


 俺も体を起こして、その場に胡坐を掻く。女に向き直り、一番の疑問を問い質した。


「アンタは、人か? それとも、妖か?」


 しばらく、沈黙が時を支配する。

 目蓋を軽く伏せ、愁いを帯びた眼差しを自身の白い手に向けた。動きを確認するように、握ったり開いたりを繰り返している。そしてゆっくりと、女は赤い唇を開いた。


「分かりませぬ……」

「分からぬ?」


 問い返した俺に、女は潤んだ瞳を向ける。


「はい……。覚えて、おらぬのです」


 怪訝に眉を歪めながら、さらに俺は問いを重ねる。


「覚えてない? ということは、記憶が無いのか? それとも、忘れてしまっただけか?」


 どちらにしろ、なぜ女が池の畔で倒れていたのか、詳細を知ることはできないということだ。


「忘れているのとは……違うような。なにも思い出せない。覚えていないのです」


 女は目蓋を閉じ、ハラハラと朝露のような涙を零す。

 なんと、美しい泣き顔だろう。涙の粒が止まるまで、ジッと魅入ってしまっていた。

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