ドーラの見た景色

野村絽麻子

第1話

 踏み込むとわずかに沈むゴンドラも、ガチャンと鈍い音で閉じられた扉も、何となくフラップターを連想させたので彩花の心は少なからず弾んでしまった。

 フラップターは乗り物の名前で、「天空の城ラピュタ」に出てくる、空中海賊のものだ。小型で安定感に欠けるところや、二人乗りなところが似ている。

 でもそれを顔には出すまいと息巻いた。

 焦茶色の上着に深い緑のコーデュロイのパンツをあわせているのも気に入らないし、コンバースのハイカットを履いているのも好きじゃない。アウターの中に着込んでいるのがアイボリーのパーカーなのも、その紐をちょうちょ結びにしているのも。

 目の前のシートに腰掛けた藤原の姿を見るにつけ、何でこんな目にという気持ちがむくむくと頭をもたげてくる。色素の薄い茶色みがかった髪の下から仔犬のような瞳が覗く。

 視線がぶつかり、藤原がこちらの機嫌を伺うように気弱そうな笑顔を作るのを見て顔を背ける。けれど反発するように背筋を伸ばした。

 ゴンドラは徐々に高度を上げている。



 騙された、と気づいたのは待ち合わせの遊園地に着いてからだった。

 萌音と菜穂っち、羽純が手を振る位置から少し離れた所に、クラスメートの男子が数人立っていたからだ。

 神崎くんと関くんはわかる。二人はそれぞれ萌音と菜穂っちの彼氏だ。羽純が最近仲の良い白澤くんの隣、少し俯きがちに頭を掻いているのは藤原。あれはダメだ。あれは良くない。

 地下鉄の出口から一息に階段を駆け上ってきた彩花の歩調はたちまち鈍った。


「お待ちかねだよ、彩花ちゃん」

「ないわ」


 アハハと三人が声をあげて笑った。





「ジブリで好きなキャラクターはドーラです」


 自己紹介でそう言い放ってからというもの、彩花のことを名前で呼ぶ者は居なくなった。口々に「ドーラ」と呼ぶし、彩花もそう呼ばれる事を欲した。

 そもそもキャラじゃないのだ。彩花、なんてかわいいっぽい名前は。

 女子の中では背が高く、顔だっていわゆる「モテ」とは遠い種類をしている。声も低めで合唱ではアルトの中でも低いパートを無理なく出せる。中学からソフトボール部で慣らした肩は他の女子よりも厚く、肝だって据わっている方だ。


「ドーラにならついて行く」


 そんな女子の圧倒的な支持を得てクラス委員をしている。空中海賊の親玉の名前で呼ばれながら慕われることは、彩花には心地のよいものだった。

 その均衡を崩したのが学期末に転校して来た藤原で、担任が最後列に位置していた彩花の隣に新しく席を設けるやいなや、世話係を任命された。

 教科書や資料が揃っていなかったのは仕方がない。前の学校でやって来てない単元は教師が教えたらどうかと思いながらも、クラス委員という肩書きも手伝って、流れで教えることになる。

 そうなると周りにもセット組扱いし始める者が出て、ややウンザリした頃に席替えがあった。

 やれやれこれでお役御免だ。黒板に示された自分と藤原の名前が教室の対角線上に並んだのを見て胸を撫で下ろしたのも束の間、人懐こい声が教室に響いた。


「彩花ちゃん!」


 その時、教室はあまりの違和感に静まり返った。


「……え、何それ」


 零れるように小声でつぶやく彩花の困惑を意に介さず、小柄な身体を器用に使い、机の間をするすると縫うように藤原が近寄る。


「彩花ちゃん、放課後すこし時間ある? 僕、みんなと同じ英単語帳が欲しいんだけど、お店の場所がまだ覚えられなくて」


 学校推薦の英単語帳を取り扱っている小さな文具店は、入り組んだ路地の片隅にある。推薦するなら購買で取り扱ってくれよ、と胸の中で悪態を吐きながら、それでも「わかった」と応えれば、藤原は嬉しそうに「じゃあ放課後に」と言い置いて対角線上の席に戻って行った。

 チャイムが鳴り授業が開始され、みんなの記憶が吹き飛ぶ程のインパクトがある授業が展開されないものかという期待は、眠たげな日本史教師によって妨げられる。

 やっと終わった授業にあくびを噛み殺していると、口元をムズムズさせた友人達が我先にと彩花の机の周りに集まるのだった。





 後方のオレンジ色をしたゴンドラから、菜穂っちが手を振っている。笑顔を浮かべて振り返しながら、どうしたものかと思う。

 クラスメートの誰にも打ち明けてはいない事だったが、実は彩花は観覧車が苦手なのだ。

 カタカタというわずかな機械音と、ドアをすり抜けてくる風のほかには、あまり音がしない。これが冬じゃなければ葉擦れの音くらいは聴こえただろう。


「彩花ちゃん、今日のこと、怒ってる?」


 殊更ゆっくりとした口調の藤原に、そんな事を聞くくらいなら来ないで欲しい、と思ってしまう。答える代わりに首を横に振る。


「藤原くんも、呼ばれたからってノコノコ出て来ちゃダメだよ」


 ゴンドラの揺れは想像していたよりも穏やかで、それは彩花にとって救いだったが、高さを意識しないように景色を視界に入れないとなれば、自然と、藤原と向き合わなければならない。

 ジェットコースター方面だろうか。風に乗って楽しそうな歓声が聞こえてくる。わざわざあんな高速で振り回されに行くのもどうか。フリーフォールなんてもはや正気の沙汰とは思えない。

 その点、観覧車は穏やかだが、何しろ対空時間が長いのだ。

 こんな物を怖がっているくらいでは空中海賊にはなれない。けれど、空中海賊なんてものはアニメ映画の中にしか存在しないので、当たり前に空中海賊にはなれない。だからと言ってドーラに憧れる身でありながら高所を怖がるのは、やはり情けなく思える。


「あ、それは違うんだ」


 ぐだぐだと纏まらない思考を繰り広げていると、藤原がまた言葉を発した。


「……違うって、何が?」


 聞こえた単語を拾ってなんとか会話に押し込める。


「うん、あのね、僕が集めたんだ」

「集めた?」

「そう」


 にこやかに続けられた言葉によれば、藤原の方から神崎くんや関くんに声をかけたらしい。


「神崎くんは将棋部で一緒なんだ。それでね、僕が彩花ちゃんともう少し仲良くなりたいって相談したら、それならダブルデートはどうかって話になって、そこから関くんと白澤くんにも話が伝わって」

「ちょ!」


 情報処理が追いつかない。大きめの声と、同時に右手で藤原に待ったをかけた。藤原が将棋をするのも初耳だし、神崎と仲が良いらしいのも知らなかった。それなら英単語帳は神崎と買いに行けば良かったではないか。と言うかそれ以前にダブルデートって。


「あの、あのさぁ」

「ん?」


 藤原が目を細めたままこちらを見る。ゴンドラの隙間から吹いてきた風が藤原の茶色い髪をかきあげて揺らした。背景の薄青い空と相まってとてもきれいだと感じる。


「彩花ちゃんは、僕の家で前に飼ってた犬に似てるんだ」

「それって……ブルドッグかなんかでしょ」

「ううん、土佐犬」




 頭の中で、化粧まわしを締めた土佐犬がこちらをキョトンと見つめている。

 ゴンドラはもうだいぶ高い位置まで来ていて、先ほど乗った空飛ぶ絨毯が動いているのと、これから乗る予定のメリーゴーランドの屋根が楕円形に見えている。

 ゴンドラに取り付けられたドアの隙間から冷たい風が吹き込んできて彩花の首元をくすぐる。これは全然ぴったりと閉まっていないものなんだなと、あらためて心細い気持ちにもなる。

 藤原は、かつて家に居た土佐犬がいかに可愛かったか、どれほど家族に愛されていたかをぽつりぽつりと話していた。曰く、土佐犬と言っても闘犬として育ててさえいなければ、普通の大型犬とあまり変わらないらしい。

 その犬がとても優しくて、律儀で、少し怖がりで、ユーモラスな顔はどれ程表情豊かであったか。

 彩花は実際のところ高度が上がっていくにつれて気が気ではない心持ちもありはしたが、反面、藤原のマイペースな語り口に安心している部分もあった。

 遠くで湖の水面が光っているのが見えた。堤防の歩道は、中学生の頃にマラソン大会で走らされた覚えがある。

 ふと、藤原が指をさした。


「僕の家、あの辺」

「……どこ?」

「湖の、もう少し向こうの……あ、鉄塔の横のマンション」


 そう言いながら身を乗り出すのでわずかにゴンドラが傾いた。ヒェ、と意図せず声が漏れてしまう。至近距離の藤原が聞き漏らすはずもなく、すぐに何かを察した顔になって席に戻る。

 そのタイミングで安っぽいチャイムの音がゴンドラ内に流れ込んで、それで初めて、スピーカーが付いていることに気が付いた。


「まもなく、当ゴンドラは観覧車の頂点を通過致します」


 明るい女性の声が告げたあと、藤原が人差し指を唇の前に立てた。


「……内緒にしておくね」

「…………頼みます」



 だんだんと高度が下がっていく。

 樹木の梢が窓の外に現れ始め、ほっと胸をなでおろす。さっき、席に戻る時の藤原はゴンドラを揺らさないように動いていたな、と思い返した。分かってはいたけれど、少なくとも信用できる人物なのだろう。

 観覧車の頂点を過ぎてからずっと、藤原の話題は自分が将棋を始めたきっかけや、将棋の魅力についてになっていた。

 祖父の影響で始めたのだと聞いてから、藤原の立ち居振る舞いが、同級生の男子に比べて妙に落ち着いていることにも納得がいった。


「犬は、何て名前なの?」


 話が途切れたタイミングで水を向けると、藤原は少し居心地悪そうに「フランシーヌ」と告げたあと、「もう死んじゃったけど」と呟いた。


「私の家にも小鳥が居たんだ、前」

「名前は?」

「こたろう。オカメインコだった」


 そっか、と答えてゴンドラの天井を見上げた藤原の、柔らかそうな髪がまたふわりと風に煽られて、彩花は「あ、オカメインコ」と思う。似ているのだ、こたろうと。

 ああ、そういうことか。発見だった。彩花も天井を見やる。無意識の内にこたろうに似ていると感じていたから、だから藤原を無下に出来なかった。藤原も、きっと同じことなのだ。


「さっき、ちょっと近いなって思ったんだ」


 天国に、とは言わないものの、藤原がそう言いたいのが解って、それでゆっくりと同意した。



 観覧車から降りるとき、あろうことか藤原はゴンドラからひらりと飛び降りると、悠々と振り返って彩花めがけて片手を差し伸べた。

 先に地上で待っていた萌音と羽純が「ひゃあ」と声を上げるのが聞こえる。

 それを頭のてっぺんの方で受け止めながら藤原の手を取る。そして彩花は堂々と、まるで女王の帰還のように、タラップから降り立った。

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