第2話

 スサノオたちが身体と船を縄で縛り付けた頃から波が大きくなり、船が大きく揺れ出した。空に雲が湧き波が黒くなる。肌に触れる風は強く、冷たくなった。


「嵐が来るぞ!」


 ハバラが叫ぶのと、激しい雨が降り出すのが同時だった。


 船は波に揺られて右へ、左へ、大きく進路を変えた。雨で視界がさえぎられて一岐島いきのしまも見えない。まっすぐ進んでいるのかどうか、誰にもわからない。


 ハバラは進路を見失い、マウラはただ横波を受けて転覆しないように舵を切る。


「右!」「左!」マウラがぎ手に向かって命じる大声が、風と共に家族の頭の上を通り過ぎた。「右」の時には右側の漕ぎ手は漕ぐのをやめ、「左」の時には左側の漕ぎ手が漕ぐのを止めて、船の向きを変えて舳先へさきを波に直角に向けるのだ。向きが変わると、「漕げ!」とマウラが命じる。


 風が強まると波のうねりは船の3倍ほどの高さになり、後ろを走る船もしばしば姿を隠す。


 舳先の切る波が大きく舞ってナギの家族と使用人を濡らし、水夫たちは船に流れ込んだ海水を懸命にかき出した。


「沈んだりしませんよね?」


 ナミは震えながらナギの腕にしがみ付く。そのナミに、2人の娘がしがみ付いた。スサノオはガチガチいう歯を更に食いしばり、船縁の板にしがみ付く。


「エイッ」「ホー」「エイッ」「ホー」と水夫たちは必死でかいを漕いで嵐と戦った。


 荒れ狂う海の勢いがさらに強まると櫂も舵も効かなくなり、流石のマウラもなす術をなくした。船は小舟のように波にもてあそばれるばかりになる。


「どうする?」


 ハバラとマウラは頭を突き合わせてお互いの気持ちを読みあった。


「捨てるか……」


 マウラが言うと、ハバラはうなずいた。


 嵐に慣れ始めていたスサノオは、声までは聞き取れないもののマウラ達のやり取りを黙って観察していた。


 船乗りたちは、波のリズムに合わせて左右に身体をふりながら歩く技を身に着けている。ハバラは舵取りをマウラに任せ、ツクリだけを連れて前部のトリイのもとに移動した。


「何をするんだ?」


 スサノオは通り過ぎるツクリを捉まえて聞いた。


「持衰を海に返す」


「トリイを海に?……殺すのか?」


 スサノオは船首の方を見やった。そこにいるはずのトリイは、打ち寄せ砕ける波で見えない。


「そういうことになる」


「止めてください、可哀そう」


 2人のやり取りを聞いたツクヨミが懇願した。


「それが持衰の仕事なのだ」


「悪いのは持衰ではなく、嫉妬する海の女神なのではないのですか?」


 すぐ側で水をかき出していた水夫が顔を上げる。


「悪いのは、船に乗った女たちだ。トリイの代わりに女たちを女神に奉げろ」


 ひとりの水夫の大声に、他の水夫たちが同調した。


 ハバラはトリイの前で頭を下げていた。


「お前の忠告に従わず船を出し、結果、このありさまだ。その上、お前に犠牲を強いるのは申し訳ないが、これも海の掟だ」


 嵐になってからは必至に祈っていたトリイが口を利く。


「自分の命も大切だが、それより名誉と船が大切だ。ワシの祈りが女神には届かなかったらしい。こんな命で船が助かるなら、喜んで奉げよう」


 2人がやり取りをしている時、ハバラは後方の騒ぎに気付いた。


「ちょっと待ってくれ」


 ハバラが騒いでいる水夫たちの元に戻った。順番待ちの水夫たちが集まっている。その中心にいたのがツクリとツクヨミだった。


「これから持衰を神に贈るという時に、何を騒いでいる!」


 ハバラの大声に水夫たちが一歩引いた。


「この女が、持衰を助けてくれというから、ワシたちが女を海に投げ込んでやろうと言っていたところだ」


 怒る水夫の声は雷鳴のようだ。彼らが指すのはツクヨミだった。彼女をツクリが庇うようにしていた。


「確かに女は乗せたが、それなりの報酬も得ている。ここで女たちを海に投げ込んでは、ワシたちは海賊と同じではないか」


「役立たずの船頭が何を言う。命あっての物種と言うことを知らないか! 女を捨てないと言うなら、ワシは櫂を握らんぞ」


 ハバラの言うことを水夫たちは聞こうとしない。再びツクヨミに迫り、彼女の命綱を切ろうと動いた。


「女が乗ると船が沈むなどというのは迷信だぞ!」


 水夫の輪の中で叫んだのは、彼らより身体の小さなツクリだった。叫んだ勢いで帯を解くと服の前をはだけて見せた。胸はわずかに膨らんでいて、股間にはあるべきものがない。


「見ろ。ワシは女だ。ずっと天磐船に乗っていたが、これまで船が沈んだことがあったか!」


 水夫たちは、裸をさらしたツクリの勢いに飲まれて沈黙した。櫂を漕いでいた水夫までが、その手を止めてツクリに目を向けた。


 ツクリの覚悟にスサノオは震えた。腹の底から熱いものが込み上げてくる。そうして弾かれたように叫んだ。


「風よ、治まれ! 海よ、静まれ! ここにはエビスがいるぞ!」


 それは切実な希望だった。


「風よ、治まれ! 海よ、静まれ! ここにはエビスがいるぞ! エビスがいるぞ!」


 強く念じて叫ぶ。


 その声に、我に返ったツクリが慌てて帯を締める。マウラは眼を大きく見開き、スサノオを見つめていた。「お前は、……なんという……」何ものかに打たれたようだ。


 水夫たちは、スサノオの黒い瞳の奥に無限に広がる宇宙を見た。そこにあるのは、嵐の海だけではない。穏やかな緑の海も、凪いだ透明の海もあった。山もあれば、深い森もある。


 水夫たちが何かにりつかれたように静まった。


「嵐は間もなく終わる」


 突然ツクヨミが声を上げた。


「まさか!」


 水夫たちは信じない。


「見て!」


 風はまだ強かったが、エビスの指した方角の雲が割れ、陽が射していた。


「ヨシ! 暫しの辛抱だ。踏ん張れ!」


 マウラが叫ぶと、水夫たちは正気に戻って自分の持ち場に戻った。


 持衰のトリイも一命を繋いだ。


 天磐船が嵐を乗り切るのに、それから30分かかった。延べ4時間ほどで台風が通り過ぎたのだ。


「後続の船が消えた……」


 船の被害状況を確認して船尾に戻ったハバラが言った。


 マウラも、スサノオも振り返る。すぐ後ろを走っていたはずの2艘の船はどこに行ったものか、どちらも姿が見えない。


「流されたか……」


「いや、沈んだのだろう。あいつらには運がなかった」


 マウラは波間に漂う木片を指した。


「ワシらには運があったのか?」


「ワシらではない。スサノオの運のおかげだ」


「確かに陽気なワラシではあるが……」


 ハバラがスサノオの顔に目をやった。


「漕ぎ方、止め! 櫂を上げろ!」


 マウラが叫び、続けて指示を出す。


「船が沈んだ。漂っている者はいないか、よく捜せ」


 捜すといっても海面を目視するだけだが、そうすることが海で生きるということだった。


「生きている者はおらんぞ」


「彼らのおかげで、嵐は止んだのだ」


 そんな声が水夫たちの中に広がった。


 天磐船の船乗りたちは納得できるまで波間に目を凝らし、生存者がいないことを確かめてから帆を上げ、櫂を漕いだ。


「生存者を探している間に、西に流されてしまった」


 マウラが後悔を口にしてから、舵を南東に切った。


 島のない大海に、夜が近づいていた。嵐の去った夜の空は良く晴れていて、星々が輝いて方角を知らせた。


「眠らずに漕げよ。流されたら、倍、漕ぐことになるぞ! エイッ、ホー、エイッ、ホー」


 波の音しかない世界にマウラの声は一晩中轟いた。


 そうして何とか夜を越え、空が白み始めると遠くに壱岐の島のぼんやりとした陰を見ることができた。


「やはり半日分ほど遠い……」


 スサノオはマウラの足元に座っていて、ぼやくのを聞いた。


「漕ぎ手は交代だ。ほれ、寝ぼけるな!」


 マウラは船頭のハバラの代わりに水夫たちを容赦なく怒鳴る。


「俺は、だめだ……」


 水夫の中に音を上げる者がいた。


「こいつ、熱があるぞ」


 ツクリが水夫の額に手を上げて言う。


「だれか、そいつの代わりに、もう一度漕げ」


 マウラが言っても、水夫たちの中には連続して漕ごうと申し出る者はなかった。嵐のおかげで、誰もがすでにへとへとになっていた。


「仕方がない。俺が漕ぐか。ハバラ、舵を頼む」


 マウラが動いた。が徹夜で大声を上げていたのだ。疲労で足がふらついた。


「ミカヅチならできる」


 マウラの足もとでスサノオが言った。その声が聞こえたのかどうか、ナギの使用人のミカヅチが立ち上がった。


「良かったら、俺が漕ごう」


「ほう……」


 マウラはスサノオを一瞥してから、品定めでもするようにミカヅチの頭の先から足元まで見下ろした。


「普段、鉄を打つ槌を握っておるから、腕っぷしには自信がある」


 ミカヅチは力こぶを作って見せる。


「よし。お主に頼もう。無事にマツラ国に着いたなら、ハバラが持つ鉄剣をお主にやろう」


 マウラの言葉にハバラが顔をしかめた。勝手に水夫を後退させただけでなく、シオツノフツにもらった剣を褒美にやると言うからだ。


 ハバラの気持ちはともかく、ミカヅチは病人の代わりに櫂を握った。


 船が動き出すと海面が泡立つ。


 スサノオの知らない魚が、泡の中から胸鰭むなびれを広げて鳥のように飛び出してくる。中には船に飛び込んでくる魚もいた。


「すごい、魚が飛んでる!」


「飛び魚だ。大きな魚から逃げているのだ」


 子供たちは無邪気に喜んだが、水夫たちは飛び魚のやって来る方角に目を凝らした。


「ぶつからないように気を付けろ。クジラだ」


 ツクリが指した方角にクジラの吹く潮があり、黒い背中が海面を盛り上げた。潮がなくなったかと思うとクジラは水中深く潜っていて、次に姿を現したのはスサノオの眼の前だった。


「あれがクジラだ。海の女神、エビスの正体でもある」


 マウラがスサノオに教えた。


 クジラは天磐船の目の前を横切って行く。天磐船と同じほどの大きさのクジラだった。


「エビスはクジラのことだそうです」


「あんなに大きくて黒くて、まるでかんのようです」


 エビスとツクヨミが遠ざかるクジラを見ながら両親に教えた。


「すると、逃げてきた私たちは飛び魚だな。食われなくて良かった」


 ナギが娘たちの頭をなでて笑った。


 天磐船は、昼をしばらく過ぎた頃に一岐国いきこくの郷ノごうのうらに入った。


 台風の影響で、集落も大きな被害を出していた。潰れた家もあれば、屋根が吹き飛んだ家もある。


 大災害の直後に入港した天磐船は、何をするという訳でもないけれども、天の助けとして歓迎された。郷ノ浦の人々は壊れた家を直すのも後回しにして乗組員に出す酒と食事の準備に走り回った。


「ワシたちが何かを助けてやれるわけでもない。ただ顔を出したというだけで、村の者たちは元気が出たと歓待してくれる。こんなことがあるから、どんな危険があっても船乗りはやめられない」


 大きな身体のマウラの小さな瞳には、光るものがあった。


「外から来るわしたちは、閉ざされた者たちの希望なのだ」


 ツクリが言った。


 そういうものか、とスサノオは大人たちの心を想像した。


 嵐で疲れた船乗りたちは死んだように眠った。お蔭で、目覚めた時に太陽は天高くにあり、出立は遅い時刻になった。


 次のマツラ国は連合国家の倭国の本土、一岐国からは眼と鼻の先だ。

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スサノオ立志伝 ――少年期3・エビス―― 明日乃たまご @tamago-asuno

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